アジア各国と日本を貿易で繋ぐ。
日々挑戦し続ける、自分の生き方。

メイドインジャパン商品を海外に輸出、海外の新商品を日本に輸入する会社を経営、インドネシア法人にも所属している佐藤さん。商社での安泰な道がありながらも、常に新しいことに挑戦したいという考えから25歳で独立。そこに至るまでにはどんな背景があったのか。お話を伺いました。

佐藤 秀太

さとう しゅうた|日本とアジア各国との貿易事業
アジア各国との貿易を行う株式会社秀の代表取締役を務める。

毎日が刺激的だったオーストラリアでの1ヶ月


私は神奈川県で生まれ育ちました。父は建設会社の経営、祖母は居酒屋の経営をしていました。そのため、よく職場に遊びに行っていたので大人に囲まれていることが多く、人懐っこく誰とでも仲良くできる性格に育っていきました。また、父親がとても怖かったので、他の人やものごとに怖いと思うことはありませんでしたね。(笑)

将来は父の会社を継ぐのだろうと漠然と思っていましたが、高校生位になると「父とは別の何か」に挑戦したいと考えるようになったんです。とは言っても、具体的なものは考えていなくて、街でスカウトされてモデルをしたり、居酒屋でアルバイトをしたり、自由に過ごしていて勉強はあまりしていませんでした。

ただ、その中でも英語は好きでした。と言うより、会話が好きだったので、英語だけは苦ではなかったんです。そこで、高校1年生の夏休みに、1ヶ月ほどオーストラリアにホームステイに行くことにしました。

実際に現地につくと、英語が全く通じなかったので、だいぶ落ち込みましたね。もう少し話が通じると思っていたのですが、自分が話していたのは英語ではなかったんだと。しかし、それでも毎日が刺激的で楽しかったんです。会話も頑張って伝えようとすれば相手も理解しようと努力してくれるし、「本当に土足で家に上がるんだ」と驚きがあったり、バスや地下鉄の乗り方すら分からない状態に、毎日苦戦しつつも、ワクワクしていました。

そして、高校卒業後も英語の専門学校に進むことにしました。相変わらず得意なわけではありませんでしたが、英語ができたらもっと多くの人と話せると思ったんです。

電設資材の総合商社で、営業の基礎を学ぶ


2年間の専門学校卒業後は、電設資材の総合商社に就職することにしました。お客様は建設関係になるので、父の会社との繋がりを心のどこかで感じたのか、ネットで探していたところ、目に止まったんです。応募資格に「大卒以上」とあったのですが、思い切って連絡してみると面接してもらうことができ、入社することができました。

私は営業となりましたが、最初はかなり苦労しましたね。商社は自社で商品を作っているわけではないので、商品自体で競合と差別化できないんです。そのため、営業マンとして自分自身が信頼関係を築かなければなりませんでした。

また、業界的にもお客様から厳しいことを言われることも多かったですね。ただ、それでも結果は自分次第で出せる仕事だったので、やりがいを感じていましたね。

上司にも恵まれ、「営業は人と人とのコミュニケーションだから心を込めて接したら必ず振り向いてくれる」など様々なことを教えてもらいました。私は人前ではおちゃらけている性格ですが、人目に触れないところでは商品を覚えたり、休日に建設現場に差し入れを持って行ったりと、他の人があまりやらないことをするようにしていきました。すると、入社した時、毎月数十万円の売上だったのが、2年も経つと1000万円以上売れるようになっていきました。

ただ、ある程度仕事を覚えてくると、もっと刺激的な毎日を過ごしたいと思うこともありました。そんな時、知り合いの建設会社の会長に、「好きなことに挑戦して良いから、うちで働かないか」と誘ってもらえたんです。20代前半の自分が自由に何でもできるなんて、そんなチャレンジングなことはないと思い、2年半ほどで転職をきめました。

伊豆七島にある建設会社で積ませてもらった多くの経験


転職先の建設会社は伊豆七島にある会社で、私は東京オフィスで働き始めました。島では若い人がどんどん出て行ってしまうので、会社として人材不足に悩んでいました。そこで、若い人を新卒採用すべく、私は北海道から沖縄まで、全国の高校や専門学校を回ることにしました。

建設会社の話を突然しても、中々魅力に思ってもらえないことも多かったので、とにかくまずは島の魅力を語ることにしました。すると、島での生活が合いそうだと思う人は、自然と興味を持ってくれ、実際に何人かの新卒社員を採用することができたんです。働き始めてからも島での生活が合っているのか、誰も辞めずに続けてくれたのは嬉しかったですね。

また、会社としては将来海外進出を念頭においていました。途上国がより発展する時に、日本の建設技術を提供できるだろうと考えていたんです。そして、何をするにもまずは人材からだと会長が考えていたので、ベトナムでの採用も行うことにしました。基本的にはこれも全て任せてくれ、どうしても困った時にはアドバイスもしてもらいながら、なんとか現地の人を採用することができました。

そうやって様々な挑戦をさせてもらう中で、徐々に「自分自身で挑戦したい」と言う気持ちが強くなっていきました。また、会社には70歳を超える大先輩がいて、その人には自分が想像もできないような世界の話をしてもらい、その話を聞いているうちに、まだ年齢的にも若い自分は挑戦するなら今しかないと思ったんです。

そこで、彼女や周りの人が応援してくれたこともあり、2014年4月に25歳で独立を決意したんです。

目の前で起こる全てのことに意味がある


会社を起こして、どんな事業を行うか考えた時、海外と日本を繋ぐことがしたと考えていました。特に、何年か前にインドネシアに旅行に行った時からインドネシアが好きで、国のことを調べるようになっていて、現地でビジネスをしている日本人とも知り合っていたので、その人をパートナーとして貿易のビジネスをすることにしたんです。途上国で欲しがられているものを輸出して、逆に日本が欲しがっているものを輸入しようと。

ただ、メーカーや卸の会社と繋がりがあったわけでもないので、創業したては予定が全く入らずにかなり焦りましたね。自分がやろうとしていることは、「誰からも必要とされていないのか?」と、かなり落ち込みました。ただ、昔から父に「徹底的にやるだけやってみろ、諦めない限り可能性は無限大だ」と育てられていたので、諦めようとは思いませんでした。

そんな時、パートナーに、「挑戦することが重要で、失敗したとしても、全てのことに意味があるよ」と言われたんです。正直、その言葉を聞いた時は「呑気なことを」と感じていました。

しかし、その言葉を信じて、予定がなくても無理するのではなく、あえて普段しないことをしながら、普通に過ごしてみることにしたんです。提案資料をしっかりと作り上げたり、サウナに行ってみたり、飲めないお酒を飲みに行ってみたりと。すると、そこで知り合った人や繋がった人が、不思議と仕事に繋がるようになっていきました。

そんな経験を通じて、「全てのことに意味がある」ということを身をもって感じられたんです。そして、徐々に仕事も増えていきました。

アジア各国と日本を繋ぐ事業を確実に前に進める


今は、会社を立ち上げて1年ほど立ち、やっとスタートラインに立てた感覚です。事業としては、日本の日用品をアジア各国に輸出や、新商品の代理店業務。インドネシアではマグロなど海産物の輸出、ココナッツオイルの輸出、日本の優れた技術を提供しエビの養殖、さらに今後はゴミ処理を行うODA事業も始まります。

事業の根底には、日本の良い商品や技術を、途上国で求めている人に届けていきたいという思いです。そして、少しでもそれが途上国の人の役に立てればと思っています。今は日用品の輸出がメインですが、今後は取り扱える商品や技術をどんどん増やしていきたいですね。どんなものが海外で求められているか知るために、外国人観光客が日本でどんな買い物をしているかは常にチェックしています。

仕事は、毎日大変なことばかりですが、常に自分で考え、試してみたことの結果がダイレクトに分かるので面白いですね。落ち込むこともありますが、毎日ワクワクしています。

私も会社もまだまだですが、これからも一歩ずつ着実に前に進んでいきたいです。諦めてしまったら、そこで終わりですから。これからも、新しいことにどんどん挑戦していき、やり始めたことを徹底的に貫いていきます。

2015.05.08

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