誰もが夢を追い続けられるおもしろいまちを。 スポーツを入口に地域のコミュニティをつくる。
滋賀県大津市で、バスケットコートを併設した飲食店経営を中心に、地域のコミュニティづくりに取り組む牧さん。中学1年生のときに社長になることを夢見て、会社員を経験したあと独立。様々な事業に挑戦してきました。現在は、滋賀をおもしろいまちにしたいという思いで会社を経営しています。牧さんが夢を追い続ける理由とは。お話を伺いました。
牧 貴士
まき たかし|株式会社SeventhGenerationProject 代表取締役CEO
1981年、大分県生まれ、滋賀県大津市育ち。2004年、立命館大学経営学部卒業。 大阪、東京で営業代理店を経て、2005年、catchtheclimaxを創業。Webサービス制作や新規事業開発、起業支援を行う。2011年、滋賀にUターン。リサーチ、企画、コンセプト設計を主とした高縞企画を設立。2018年12月、都市型スポーツチームの運営、スポーツスクールの企画・運営などを行う、株式会社SeventhGenerationProjectを設立し代表取締役CEOを務める。
さみしさを覚えた少年時代
大分県で生まれ、滋賀県大津市で育ちました。自然豊かな環境で、友達と山や川を駆け回ったり、秘密基地を作ったり。活発に遊んでいました。小学校3年生の頃からは、地元の少年野球チームに所属し、野球に打ち込むようになりました。
3歳下の弟は、身体が弱く病気がちで、両親がつきっきりの状態でした。ある日、遊んでいるときに弟が蜂に刺され、体調が悪くなって。それで、病院に行って精密検査を受けたところ、白血病と診断されたんです。それから闘病生活が始まりました。
そして1年ほどが経ったある夜、病院から連絡があったと父に起こされて。病院に到着すると、弟は心臓マッサージを受けていましたが、そのかいもなく亡くなってしまったんです。その前後の記憶がなくなってしまうくらいショックでした。
悲しみの中で、なんとなく弟の分まで生きようと思うようになり、人生100年の2人分ということで「200歳くらいまで生きる」と言うようになりました。
一方で、家族の中で子どもが一人になり、両親から大切にしてもらえるようになると思っていました。しかし、お葬式が終わり落ち着いたあと、母は毎晩のように弟のことを思い返しては泣くようになりました。父は悲しむ母を支えます。一番愛してほしい人に愛されている実感が持てず、自分に自信がなくなり、居場所のなさを感じるようになりました。
小学校でも、自分から人に積極的に話しかけることはなく、人見知りな性格になっていきました。休み時間は、一人で本を読んで過ごしました。SF小説や推理小説を読むと、苦しい現実から逃避できるんです。SF小説には、今はないテクノロジーが描かれていて、未来を想像してワクワクできます。推理小説は、読者を騙すような展開が好きでした。小説作家のように人を楽しませる何かを作り出したい、と思いながら読んでいました。
居場所をくれたバスケットボール
小学校6年生のとき、肩を壊して野球ができなくなってしまいました。しかし、試合に出て自分のせいで負けて嫌われてしまうことがなくなると思い、なんとなく安心して。心のどこかで誰かに構ってほしい、友達と仲良くしたいという気持ちがありつつも、自分に自信がないので、できるだけ影を薄くしたかったんです。
とはいえ、どこかに自分の居場所がほしかったので、中学校では、一緒に野球をやっていた友達と一緒に、バスケットボール部に入りました。入部したての頃、先輩からシュートフォームを褒められたんです。一人でいる時間が多い分、人の観察をよくしていたためか、バスケットボールのコツを掴めて上達は早かったです。自分で自覚していない部分を褒めてもらい、「僕って上手なのかも」と思え、より練習に励むことができました。
部活動では、部室で友達と喋っているときが一番楽しかったです。自分の居場所を感じられ、ほっとすることができました。一方、試合や練習は、人から嫌われたくない一心で、ミスがないよう気をつけていました。エースとして点を取る役目をしていましたが、ただできるからやっていただけで、あまり好きではなかったです。とにかく人の目を気にしていました。
中学校1年生のとき、「将来は社長になる」という夢を持つようになりました。家庭のことがあまり好きになれず、父のようなサラリーマンではなく、社長になりたいと思ったんです。それに、バスケ部には居場所がありましたが、クラスでは遊びに誘われることも、話しかけられることもなくて。将来社長になって「全員見返してやる」と思いました。
バスケットボールや小説の世界だけが自分の居場所であり、しんどさを感じていました。しかし、社長になるという夢ができたことで、それが心の支えとなり何とか踏ん張ることができたんです。
諦めない限りできないことは何もない
高校は、地元の商業高校に進みました。中学校のバスケットボール部の友達と、高校1年生から試合に出られるくらい弱小の部がある高校へ行こうと話していたんです。高校生のバスケットボールを題材にした漫画が流行っていて、そんな風に、自分たちの力でチームを強くしたいと思っていました。高校3年生の県大会ではベスト8の結果を残すことができ、僕は県の選抜メンバーにも選ばれました。
そのおかげで、大学はバスケットボールの推薦枠で入学しました。毎日、練習漬けの生活が始まりました。部の同期は強豪校からやって来た人で、先輩たちも有名な高校の出身者ばかり。自分だけが名も知れない高校の出身で、自信を持てないでいました。
社長になることを決めたのに、自信がなくてネガティブな自分に誰がついてくるんだろうと疑問を持つようになり、自信をつけたいと思いました。とにかく何かしたかったので、まず、靴下を必ず左足から履こうと決めたんです。自信がなくて自分にはやれることがないと感じていたので、今の自分にもできることをやろうと、すがるような気持ちでした。
その日から、決め事を毎日続けました。そして気がつくと、半年が経っていたんです。半年間続けられたことに気づいた時、生まれて初めて自分のことを「やればできる」と認めてあげられました。
これまでは、ただ運動神経が良かったから生きてこられただけ。自分のことが大嫌いでした。そんな自分が、自らの意思で何かを成し遂げることができたんです。とても小さいことでしたが、「できた」という感覚を積み重ねていくと、それが自信になるんだと気がつきました。
諦めない限り、やり続ければ絶対にいつかはできようになる。何かを成し遂げたいと思うときには、自信が必要なのではなく、やるべきことをただ続けていけばいいだけなんだと知ったんです。何気なく見える些細なことをしっかり続けて、そんな自分をちゃんと認めてあげる。それが人が行動するとき、最も大事なことだと思いました。できないことは何もないと思えました。
大学4年生の11月、バスケットボール部を引退。大学卒業後は起業しようと考えていましたが、何の事業をするか決めていなかったので、とりあえず営業の経験を積みたいと思い就職活動をしました。大阪にある情報通信業の営業代理店に内定をもらい、翌年の10月に営業職として入社しました。
答えは自分の中にある
一日に700回ほど営業電話をかけていました。ほとんどの電話はすぐに切られますが、話を聞いてくれる人が出てきたときにはしっかり説明できるよう、しっかり準備。営業は「話を聞いてもらえる人探し」であると気づいてから、どんどん結果が出るようになっていきました。
成績が認められ、大阪で半年間働いたあと、新会社立ち上げのために転勤で東京へ。会社では朝の7時から夜中まで働くような忙しい生活を送りました。入社の目的だった営業経験を積むことができたので、東京に来て4カ月後、会社を退職し独立しました。
何の事業をするかは決まっていませんでしたし、頼る知り合いもいない状態でした。まずは人脈をつくれば、そこから何か見つかるだろうと思い、手元にあった200万の貯金を崩しながら様々なセミナーに行き始めました。
でも、名刺交換をした人に「何で起業するんですか?」と聞かれ、「何も決まっていません」と言うと、会話が終わってしまうんです。出会いの中で答えが見つかると思っていたのですが、何度も同じ会話が繰り返されるうちに、答えは自分の中にしかないんだと痛感しました。
そこで、得意だったバスケットボールか、父が好きだった競馬のどちらかで起業しようと考えたんです。まずは、バスケットコートを併設したカフェを作ってコミュニティをつくることを思いつきました。しかし、お金がかかるだろうと思いましたし、集め方も分からなかったので、後回しにすることに。
次に思い浮かんだのが、弟が亡くなってから、休日に父が家族を競馬場に連れていってくれた思い出でした。僕は、父についていって馬を見たり、馬券を買ってもらったりしていました。一方母は、ずっと車の中に一人でいて、新聞を読んだりラジオを聞いたり、ときには眠ったりしながら待っているだけ。いつも楽しくなさそうでした。母のような人にも、競馬を楽しんでほしい、競馬場を家族が楽しめる場所にしたい、と思ったんです。
それで「競馬を家族で楽しめるレジャースポーツにする」というコンセプトで起業しました。まずは、競馬の予想の仕方や、勝てる馬の見方を教える会員制のサイトを始めたんです。そして会員さんの家族を集めて競馬場でピクニックのイベントを開くなど、誰もが競馬場を楽しめる企画を考えていきました。27歳の頃から、ようやくお金が稼げるようになってきたんです。
起業というゼロイチの経験を通して、夢の語り方のコツを掴めば、自然と応援してくれる人が集まるのだと知りました。話す順序として、最初に夢を語って、次にきっかけとなる過去の原体験から現在までを語り、最後に現在から未来の夢に向かって取り組んでいることを語る。そうすれば、相手が夢の実現のために必要なことをアドバイスしてくれたり、人を紹介してくれたりするんです。
人見知りな性格だったので、セミナーで自分から積極的に交流していくのは苦手でした。しかし無理して頑張るよりも、誰かが話しかけてくれたとき、自分の思いをちゃんと相手に伝えるほうが大事だと気づいたんです。幼い頃から、一人で寂しい思いをして過ごしてきましたが、自己対話を重ねて自分自身を振り返る時間をたくさんつくってきたことが活きました。
この経験を活かして起業のための情報発信を始め、相談を受けるようになりました。そして29歳の頃から、起業スクールをスタート。僕は、独立からお金が稼げるようになるまで3年2ヶ月かかったんです。いろいろと試行錯誤を重ね、もがき苦しみながら起業した経験は、強みになりました。一人でできるくらいの事業規模であれば、どんな業種であっても、事業を軌道に乗せることができると思っていました。
悩んでも、答えは絶対に自分の中にあるんです。起業の相談を受けるときには、その答えに気づかせてあげたり、「できる」と本気で信じ、アドバイスをしてあげたりすることを大事にしていました。
バスケットボールを入口にまちづくりを
29歳のとき、東日本大震災を機に滋賀に戻ってきました。いつかは戻ろうという思いがあったんです。しかし滋賀では起業支援のニーズが少なく、Uターン後も、1年ほどは2週間に1回東京に行って起業スクールを続けていました。そして東京の生徒さんたちが卒業したあとに、スクールを辞めました。
家族を養うため、知り合いの紹介で警備会社に入社し経営企画をしたり、深夜のアルバイトをしたり。働きながら、これまで経験してきたことを振り返り、次に何をしようかと考えました。
東京時代に、競馬の会員制サイト以外にも、フリーペーパーの制作や編集、ウェブコンテンツの開発など様々な事業をしていて、うまくいくこともあれば、失敗に終わることもあったんです。何が足りなかったかを考えてみると、予算管理やスケジュール管理など、プロジェクトをマネジメントする力が足りないのだと気づきました。それで32歳のとき、京都にあるクリエイティブエージェンシーに入社。プロジェクトを成功させるための計画立案や進捗管理の方法を学びました。
滋賀にUターンして感じたのは、「空が広い」ということ。琵琶湖があって平地が広がり、遠くまで見通すことができます。歴史を振り返ると、琵琶湖で水運が発達し、織田信長や明智光秀などが天下統一の足がかりとし、戦国時代の舞台になった由緒ある土地です。また、大阪や京都から近く、関西のベッドタウンと呼ばれ、住むのにも適しています。そういった滋賀の魅力が世の中に知られていないのはもったいないし、滋賀をおもしろいまちにしたいと思うようになりました。
34歳のとき、滋賀にUターンした女性から声をかけられ、地域の人が交流できるアトリエカフェを共同で立ち上げました。会社に属しながら個人事業として始めたんです。それをきっかけに行政と関わるようになり、一緒にまちづくりの事業を行うようになりました。しかし行政の取り組みが、地域の人にはほとんど届いていない現状を知って。自分が起業するときにやりたかったバスケットボールで、まちを盛り上げる仕事をしたいと思うようになりました。
バスケットボールなら、自分の経験を生かせますし、知り合いもいます。また、スポーツは人を熱狂させられるエンターテイメント性があり、誰でも気軽に始めることができます。スポーツを入口に、これまでまちと繋がっていなかった人でも地域に入り込めるようにして、地域をもっとおもしろくしたい。そんな想いから、37歳のとき、仲間とともにSeventh Generation Projectという会社を立ち上げました。
誰もが夢を追い続けられる世界に
現在は、株式会社Seventh Generation Projectの代表として、バスケコート併設の飲食店を経営しながら、都市型スポーツチームの運営や、地域の人に運動の機会を提供するためのスポーツスクールの企画・運営などをしています。
都市型スポーツとは、広い場所を必要とせず、気軽に始められるスポーツのこと。会社では、3人制プロバスケットボールチームを運営しています。5人制バスケットボールよりも試合に必要なプレイヤー数が少ないため、少子化が進む中でも少人数でやりやすい。東京五輪の正式種目として日本代表の出場が決定しており、人気の高まりが期待されています。また、チームの所属するプロリーグは、試合の合間にチアリーダーがパフォーマンスを披露するなど、 エンターテインメント性の高さが特徴です。
社名になっている「Seventh Generation」とは、ネイティブ・アメリカンのイロコイ族の教え。七世代前からの先祖の願いと行いが今をつくり、七世代後までの子孫に祈りを届けるように決める、ということです。これは、一緒に会社を立ち上げた仲間が大学時代に知った言葉。一世代を30年と考えると、七世代はおよそ200年です。
奇遇にも、僕も亡くなった弟の分も生きたい、200年生きたいと思っていました。しかし200歳まで生きることは現実的に難しいし、生きている間に夢を実現させることも難しい。だから200年後も残るような事業を作りたい。200年先にも残せる地域を、エンターテイメントの力を使って実現していきたいと思っています。
今後は、誰もがスポーツを楽しめるまちの拠点をつくるために、あらゆる世代の方が参加できるスポーツプログラムを作っていきたいと考えています。その中に、食も絡めていきたいです。スポーツをしたあとにご飯を食べたり、スポーツの試合をお酒を飲みながら応援したり。スポーツに食をプラスすることで、欧米によくみられるような地域のクラブハウスをつくりたい。将来的には、地域の人たちが集まって、自分たちの社会や暮らしを一緒にデザインしていく場所「ソーシャルデザインパーク」をつくっていきたいです。
滋賀につくったあとは日本全国につくり、いずれは世界まで。僕が生きている間にどこまで実現できるかは分かりませんが、少なくとも今住んでいるまちをおもしろくしていきたいですね。そのあとは、僕の考えを200年先まで受け継いでいけたらいいなと。だから死ぬ直前まで夢を語っていたいと思います。
今も僕は自分に自信はありませんし、一生かかっても叶えられない壮大な夢かもしれません。でもそれでいいと思っていますし、叶えられる夢なんて持たなくていいんです。人が笑っていられるのは、夢に向かって走っているとき。これまで僕はしんどいときでも、夢に向かって頑張っているときは毎日が楽しく幸せでした。誰もが夢を追い続けられるようなおもしろいまちをつくりたい。夢を語ってチャレンジできるのが当たり前の世の中にしていきたいです。
2021.06.07