誰もが一緒に分かり合える、分け隔てない世界を。 障害があっても、地域で共に暮らせる社会を目指して。

人工呼吸器のサポートを必要とする子どもを育てながら、正社員としてインサイドセールスを立ち上げ、医療的ケア児のペースト食の開発に取り組む高橋さん。職場復帰までには、多くの困難があったと言います。我が子が生き生きと暮らせる環境を模索する中で見えてきた社会のリアルとは。お話を伺いました。

高橋 知世

たかはし ともよ|キリンビバレッジ株式会社
1984年生まれ。2008年キリンビバレッジ株式会社に入社。法人営業に携わる。2015年に、18トリソミーという先天性の疾患をもった長女を出産。長女は常時人工呼吸器のサポートが必要なため、保育所に入ることができず、5年間の休職を余儀なくされる。2020年に復職を果たし、その後、インサイドセールスを立ち上げる。並行して、胃ろうの子ども向けのペースト食を開発する新規事業を起案中。

打ち込めることを見つけたい


静岡県静岡市に生まれました。幼稚園の頃から、週4回ピアノのレッスンに通って毎日自宅で練習をしていました。お母さんがピアニストに育てたかったようです。そんなことは全く知らない私は、厳しいピアノの練習がとにかく辛くて。結局7歳でピアノを辞めてしまいました。

小6のとき、仲が良い友達から「中学受験をするんだけど一緒に勉強しない?」と誘われました。楽しそうだと勉強をはじめ、無事に中高一貫校に合格。入学後は、部活動の新体操に打ち込みました。踊ることはもちろん、先輩たちや同級生と和気あいあい過ごすのが好きだったからです。朝から寝る前まで柔軟をしたり、リボンやボール、フープやロープなどを毎日必死に練習したり、種具を操れるようになるのはすごく楽しかったです。高校生になると楽しみながらももっと上を目指したいという気持ちも生まれていき、リーダーとして全員の気持ちを合わせることができない自分にもやもやすることもありました。


卒業後、幅広く学べそうな社会学部のある京都の大学に進学しました。部活は、新聞部へ。そこは、UNN関西学生報道連盟という、関西の11大学で構成された報道サークルに加盟していて、共同で関西一円の取材をして、新聞を発行していました。運動部に入るつもりでいたものの、UNNのチラシを見たとき、まじめな雰囲気で、いろんな人たちに出会えそうだとワクワクしたんです。

そこはマスメディアで働く人たちを多く輩出しているところでした。私も取材、編集、広告営業などさまざまな活動を経験しました。例えば他大学と合同で京都特集を組んだり、どうすれば紙面が面白くなるのかを考えるのがとても楽しかったですね。在学前に起きた阪神淡路大震災後の取材、在学中に起きたJR西日本脱線事故など深刻なテーマの取材などにも向き合う機会をいただきました。取材で出会う人たちは、様々な方面で活躍されている方が多く、刺激的でした。締め切り前は徹夜続きで多少の無理はしましたが、それぞれいろんなことに長けている熱い想いを持った仲間とともに打ち込めたのはとても楽しかったです。

就活では、身近に感じられて楽しそうだと思える企業を、幅広く受けていきました。その結果、全国で仕事ができて、ワクワクする出会いがありそうな、大手飲料メーカーに入社しました。

我が子の難病を知って


入社後、法人営業として名古屋の配属になりました。先輩方が優しくサポートしてくれたおかげで、成果はそれなりに出せていました。ただ毎日当たり前に会社に行って、商談して、疲れて帰宅するという生活が単調でつまらなく感じてこれでいいのだろうかと悩んでいました。プライベートでは、仕事や将来の家族のために活かせそうだと思って、ジュニア野菜ソムリエの資格を取ったり、やっぱり運動がしたいとベリーダンスをはじめたりして、刺激を求めていました。

その後、北陸・近畿勤務を経て、結婚し、第1子を妊娠しました。最後の会議の日、朝からとても体調が悪かったんです。でも、最後までちゃんとしたいと出社。退社後病院に行ったら切迫しているといわれ、そのまま入院することになりました。

そこでエコーを見てもらったとき、ドクターから「赤ちゃんが小さい。でもまぁ気にしなくてもいいかな」と言われました。赤ちゃんが小さいならどうしたらいいんでしょうかと聞くと、産院からエコーで有名なクリニックを紹介され、翌日受診。

診察室で、胎児のエコーを見ているドクターから「この子の心臓には穴が空いている。手の特徴から、18トリソミーという疾患でほぼ間違いない。生きて生まれるかもわからないし、生まれたとしても、1歳まで生きられる可能性は10%といわれている。」と言われました。予期せぬ言葉に、私はただ静かに涙をながすことしかできませんでした。

ショックが大きかったものの、この疾患に対応できる医療体制の病院を探さなければなりませんでした。夫が子どもの生きている時間に会えるように、里帰り出産の予定を辞め、大きな病院に転院しましたが、そこでは「うちでは実はこの症例は少ない。赤ちゃんの手術も、以前外部の病院にも相談したが、断られた経験しかない」と転院を勧められました。さらに転院し、そこでは私たち専用の周産期医療チームが作られ、出産前に何度も医療者と話し合いをしました。自然分娩にするか帝王切開にするか、赤ちゃんが息をしていなかったときどうするか、心臓マッサージをするのか、人工呼吸器をつけるのか、その後の心臓手術などはどうするかなど、夫と話し合いながら決めていかなければなりませんでした。

はじめは、「ただ延命になるのであれば人工呼吸器をつけない」選択をしようと考えていました。「赤ちゃんがかわいそう」とかいろんな意見があって処理しきれなくて。しかしドクターから言われた「人工呼吸器はただの延命治療ではない。子どもの生きる力を助けるためにあるんだ。力がなければ人工呼吸器があっても助けられない」という言葉が心に響きました。

出産までたどり着けるかも、生きて生まれてきてくるかも分からない。医療の手厚いサポートがあっても亡くなってしまうかもしれない。ただ、子どもの生きる力をサポートしたい。そんな思いが芽生えました。その一方で、お別れする覚悟もしなければなりませんでした。

この子の友達をつくりたい


出産予定日の1週間前からMFICUに入院。ある朝、胎児の心拍が弱まっているといわれ、緊急オペになりました。産声をあげてくれたものの、NICUでの集中治療が始まりました。予断を許さない状況が続き、医療者の方々から「少しでも赤ちゃんといられるように」と配慮があり、産後はNICUの機械室に私と赤ちゃんのベッドをいれて過ごしました。1週間の山場を乗り越え、その後いくつかの手術を受け、1歳2か月でようやく退院が決まりました。

退院=在宅医療に移行するにあたり、私自身が医療行為、蘇生術を獲得しなければなりませんでした。普通の人にとっての軽い風邪でも、この子に移ったら重症化する恐れがあるので、いかに清潔な環境をつくるかなど、試行錯誤してきました。

少しずつ生活に慣れ、2歳前から、療育をする施設に通うようになりました。世界は少しずつ広がっていきましたが、この子にとって何が楽しいのか。私には何ができるのか。家では大半はベッドで過ごしているので、ただベッドから天井を眺める毎日ではなくて、外のワクワクする世界を経験させたい、もっと同世代の友達と関わることが楽しいのではないかと思うようになったのです。

そして、生まれる前には想像もしていなかった小学生になるということ。住んでいる自治体には支援学校はなく、人工呼吸器をつけていることから通学バスも利用できず、片道45分車で送らなければいけません。さらには小学校から高校卒業までの12年間、親が一日中付き添わなければ、この子は学校に通えないとのことでした。

この現実を知り、仕組みを変えなければと思いました。大阪府下すべての支援学校に電話、親が付きっ切りでなくても、当たり前にこども同士で過ごせる学校はないか、情報を求めていろいろな人に会いに行きました。

あるところで「地域の小学校に通うことは考えていないの?」と聞かれました。人工呼吸器をつけているのはもちろんのこと、意思疎通も難しいため、考えたこともありませんでした。ただ、「うちの子は支援学校も地域の学校も通ったけど、地域の学校では友達に囲まれてすごい楽しんでいたよ」と言われて。最初はそれでも無理だと思っていたけど、この子にとっては何が楽しいんだろうと考えるようになりました。

天井を見て過ごすのではなく、我が子が充実した一日を過ごすためにも、みんなが当たり前にそうするように、地域の保育所、そして小学校に通わせたいと思うようになりました。

自治体にかけあう日々が始まりました。「看護師さんを雇ってもすぐにやめてしまうから」「制度をつくってからじゃないと入園できないし、制度はすぐにはできない」と言われました。今、必要としている子がいるのに、誰のための制度をつくりたいんだろう。「母親は仕事を辞めるしかない」。実際に仕事を続けているお母さんはほとんどいませんでした。

でも、諦めることはしませんでした。まず第一に、子どもにとっていい環境を提供したかったから。そして、子どものためだといいつつ、自分の人生を諦めることはしたくなかったから。諦めるのはすごく簡単。でも、諦めたらそこで終わり。そもそも、育休を取得したら会社に復帰するのは当たり前のことのはず。だったらやれるところまでやってみようと走り続けました。

子どもには、障害なんて関係ない


何度も失望を繰り返しながら、結局保育所には入ることができませんでした。それでも地域のこども園に空きがあるという情報を聞き、年長の1年間だけ通園することができました。

はじめての登園日。クラスの男の子が、「教室はこっちだよ」と案内してくれたんです。
クラスの子たちは、娘がいつ登園するのかとずっと待ってくれていたらしく、すごく嬉しかったことを覚えています。

一方、園からは、風邪がうつると困るから別室保育にしましょう、と。親である私が風邪がうつるリスクは承知の上だと言っても、受け入れてくれなくて。同世代の子どもたちと関わりを持たせたいと入園したのに、自分のクラスに行けないのです。

こども園では、これまで、同じような医療的ケアが必要な子どもを受け入れたことがありません。何かあったらどうしようと保育士さんたちには怖い気持ちがあったのだと思います。保育中は私が付き添いをしているのだから、もっとみんなと一緒に遊ばせてほしい。できないんじゃなくて、どうやったらできるのか考えてほしいとお願いしました。

それ以来、日を追うごとにいつしか保育士さんたちの対応が変わっていきました。子どもたちの影響が大きいと思います。毎朝、娘をお迎えに来てくれたり、人工呼吸器について質問してくれたり、一緒に踊ったり。子どもたちは障害なんて関係なく接してくれます。先生がギターを弾いてくれた時、娘が「あー」「うー」といったら、ある子が「お歌が上手だね」と言っていて。子どもの純粋な受け取り方に、大人たちも感化されたようでした。私にとっての気づきでもありました。

秋になるころには、「どうやったら一緒に参加できるかな」と自然と娘目線で考えてくれるようになりました。保育士さんから「僕たち変わったよね」とか「お母さん気づいていたと思うけど、私たち、はじめはびびっていました。でも今は応援しています」と言われました。そもそも知らないから怖くて制約をかけてしまうけれども、一緒に過ごしてみれば分かり合えるように、人の心は動くんだと思いました。

少しでも親の負担を減らせるように


コロナ禍もあって、在宅勤務ができたのは私にとっては追い風でした。

2021年には、インサイドセールスの立ち上げメンバーにアサインされました。全社的に働き方の見直しを求められていたからです。未取引先企業を探し、電話をしてアポを取り、初回商談を実施。営業担当につなげ、成約のフォローをすることをミッションとしています。

同時に私だからこそできる新規事業として、医療的ケア児のペースト食を開発するプロジェクトをはじめました。胃ろうからはペースト食しか食べることができませんが、一般に売っておらず、親がつくるしかありません。もっと家族の負担を減らしたいと思っています。

高齢者向けの介護食はたくさんあります。しかし医療的ケア児の市場はあまり知られていません。病院からは食事の代わりに栄養剤が処方されますが、おいしいとはいえませんし、なにより家族の想いは「一緒に食事を楽しみたい」のです。でも親はいつも忙しい。いつも頑張っている。時には手を抜いて、無理をしすぎず、育児を楽しめたらと思ったのです。

みんなで同じ食事を楽しむ


現在、子どもは7歳になり、地域の小学校に通っています。朝、介護タクシーで看護師さんがお迎えに来てくれて、帰りも介護タクシーで帰宅します。入学してしばらくは私も一緒に学校に行き、看護師さんへ医療ケアのタイミングや、その時々の子どもの意思を伝えたり、どうやって授業に参加するかなど考えていました。今は、私は付き添うことなく、お友達に囲まれながら、楽しんでいるようです。

仕事は、キリンビバレッジの近畿圏統括本部でインサイドセールスの仕事を担当しています。立ち上げ3年目になり、さまざまな課題も見えてきました。アポが取れても、最終的にフィールドセールスにつなげて、契約まで至らなければ利益にはつながりません。どれだけ顧客の声を聴けるか、契約につなげられるか、さらなる改良を進めています。

新規事業の医療的ケア児向けのペースト食についても、CHANGE by ONE JAPANや経済産業省「始動 Next Innovator」、シリコンバレー派遣を経て、さらにブラッシュアップできました。ヒアリングを通して、この商品を必要としてくれている沢山の当事者の方々に出会えたことで、なんとしてもこの商品を世の中に出さなければという想いが強くなりました。

私がこのプロジェクトを通じて実現したいのは、親も子も、無理せず食を楽しめる世界。障害の有無に関係なく、当たり前に皆が一緒にいられる世界です。健常者でも、ゼリー飲料を朝食代わりにしますよね。それと同じように、最終的には、健常者も美味しくて食べられるものをつくりたいと考えています。そうすれば、分け隔てない世界が実現できると思うのです。

健常者は障害者が怖く、障害者は健常者が怖い。子どもの頃から一緒に過ごしていないから、お互いのことがわからない。大人になってからどう接して良いかわからないのです。

子どもはすごく純粋です。我が子は「あー」とかしか言わないけれども、「嬉しいって言ってるよ」など、クラスメイトはその時々の気持ちを代弁してくれます。一緒にいれば、自然と分かり合えるのです。子どもの頃から分け隔てなく育つことで、助け合い、誰でも地域で当たり前に一緒に暮らしていける社会を目指していきたいですね。

2023.02.23

インタビュー・ライティング | 林 春花
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