思い通りにいかないときこそ、人生は動く。 目の前の一期一会に感謝して、切り拓いた道。

「くらしのすきまをあたためる」を理念に、無添加おはぎの販売などを行う落合裕一さん。たこ焼きコンテスト優勝という異色の経歴を持ち、テレビ局、出版流通などの世界を経験してきました。紆余曲折の人生を経て、落合さんが得た気づきとは?お話しを伺いました。

落合 裕一

おちあい ひろかず|ホリデイズ株式会社代表取締役
1982年、愛知県小牧市生まれ。岐阜大学土木工学科在学中に、たこ焼き店「道頓堀くくる」でアルバイトをスタート。TAKO-1グランプリ優勝。アメリカ大陸を横断しながらたこ焼きを焼き、5年間で300万個のたこ焼きを焼き上げた。2006年テレビ愛知入社。2007年、日本出版販売へ。2016年にIT企業エイチームに所属する傍ら、起業。名古屋でスタートした無添加おはぎ専門店「OHAGI3」が注目を集める。

未来の自分が見ている


愛知県小牧市に生まれました。冒険が好きで、工事中の下水道のトンネルを探検したり、町をフィールドに壮大な鬼ごっこをしたり。遊びはいつも本気で、特に未知なるものに出会うことに、全力を注いでいました。見たことのない世界を見てみたい、というシンプルな好奇心が強かったんです。

幼稚園の先生である母からは、よく「砂場でしっかり遊びなさい」と言われました。砂場でみんなと仲良くしていれば、あなたの人生はうまくいく、と。誰かと協力してものをつくったり、挨拶をして一緒に遊んだりする砂場は、社会の縮図のようなもの。砂場で遊ぶことで、人と丁寧に関わり合うことを学びました。

学校でもムードメーカーで、よく喋る存在でしたね。人を楽しませ、笑顔を見るのが好きでした。

中学のときは野球一筋でしたが、肩を壊してしまって、高校ではサッカー部に入部しました。ところがそのサッカー部は、県でベスト8に入るくらいの強豪チームだったんです。練習が厳しすぎて、夏の合宿時には入部したメンバーの半数が辞めてしまうほどでした。

練習前のウォーミングアップでは、グラウンドを10周走ります。直線は全力、カーブは軽く走るので、負荷がかかって余計に辛い。練習本番はもっとハードなので、走るのをさぼるメンバーもいました。でも僕は、グラウンドを11周走ることにしたんです。僕はずっと補欠で、試合に出ることができませんでした。技術で周りに追い付けないなら、体力で埋めるしかないと思ったんです。雨の日、みんなが帰ってしまった後も、一人校舎に残って階段を上り下りしました。

そんな練習の日々はきつ過ぎて、思春期で82キロまで増えた体重が、一気に16キロぐらい落ちました。毎日辛いし、なんでこんなことやってるんだろうと思います。今日はもう10周でいいんじゃないか。そんな思いが頭をよぎる日もありました。でも、やると決めた自分に嘘をつきたくなかったんです。未来の自分が見ているような気がして、今の頑張りを未来の自分はきっと褒めてくれるだろうなって。だから泣きそうになりながらも、諦めたことはありませんでした。

結局3年間、一度も試合に出ることはできませんでした。レギュラーになれず、補欠のまま部員で居続けたのは、僕だけです。後輩に向けて引退スピーチをするときは、すごく恥ずかしかったですね。一度も試合に出ていない自分は、後輩達からどんな風に思われているんだろう。それでもうつむきながら、グラウンドを11周走って努力していたことを話したんです。

すると、それを聞いていた後輩が号泣し始めました。みんな、僕が努力する姿を見ていたんですね。そしてその姿は、後輩にプレッシャーを与えてもいたんです。「先輩がここまで自分を追い込んでいるんだから、僕らは試合で半端な結果を出すわけにいかない」と。結果は出せなかったけれど、ひたむきにやり続けるプロセスは周りに伝わっていた。そしてその姿勢が、人に影響を与えられた。この気づきは、サッカーを通じて得た大きな財産でした。

焼けない半年があったから


大学に入り、アルバイトを探そうと求人誌をめくっていたら、偶然たこ焼きチェーン店の募集が目に止まり、応募しました。時給は高いし、手に職を付けられるし、たこ焼きパーティーも開ける。人を楽しませるパフォーマンス的な要素もあって、いいなって。

ところがいざ働いてみると、初めてのバイトは上手くいかないことばかりでした。レジ打ちは遅いし、ソースと醤油は間違える。皿洗いをやっても、スピードが追い付かなくてどんどん溜まっていくので「洗ってるのか溜めてるのかどっちだ」って怒られて。ミスばかりで、こいつはすぐ辞めるだろう、と思われていました。

使いものにならないので、週末になると遠方の店に飛ばされました。移動中は時給が出ないのに、往復4時間かけて移動したこともあります。でも僕は、小旅行のような気分で素直にその状況を楽しんでいましたね。他の店で学ばせてもらえるなら、有り難いなと思ったんです。

普通は1ヵ月もあればたこ焼きを焼けるようになるのに、僕は半年間、ずっとたこ焼きを焼けないままでした。あるときマネージャーに呼び出されて、「注意されるうちが花だよ。もう知らないよ」と注意されたんです。このままではいられないよな、変わらなきゃいけないなと思うようになりました。

そんなとき、店が人手不足になり、初めて30個のたこ焼きを焼く機会が訪れました。目の前に並んでいるお客さんを見たときふと、「この人と僕との出会いは、最初で最後かもしれない」と思ったんです。だったら、この人にとって最後の晩餐になってもいいくらい、愛を込めて焼こう。技術は足りないかもしれないけど、自分が思う最高に美味しいたこ焼きを焼こう、と決心しました。

嬉しさよりも、初めてたこ焼きを焼けることに対する、深い感謝の気持ちがありましたね。単純作業としてではなく、責任を感じて焼くことができた。もし他のアルバイトのように、すぐにたこ焼きを焼けていたら、目の前のお客さんにそれだけの愛情を込めることはできなかったと思います。焼けない半年間があったから、たこ焼きを焼くことは当たり前でないと気づくことができたんです。

その後も毎回、自分の前にいるお客さんのことを思い、最初の30個と同じ熱量で、たこ焼きを焼き続けました。こんなに熱い想いを持って焼いている人は、恐らく他にいなかったのでしょう。その姿勢が評価され、やがて会社が主催するたこ焼きの全国大会で優勝。店で一番不器用だった僕は、初代グランプリの称号を手に入れたんです。

無駄なことは一つもない


グランプリを獲得した僕は、会社のニューヨーク催事出店に当たり、現地でたこ焼きを焼く権利を手に入れました。そこで、大学を一年休学し、アメリカへ渡ることにしたんです。

ニューヨークへの出店は、会社が30年の歴史の中で抱き続けてきた夢でもありました。その30年間に、自分より優秀な職人は何人もいただろうし、社内でも他にすごい技術を持つ人はいました。だから、自分一人の手柄だと思ってはいけないと感じましたね。熱量だけは誰よりも持ち、自分にしかできないパフォーマンスをしようと決めたんです。

そこで僕は、たこ焼きを焼く場でサプライズスピーチをしようと思いつきました。同行している社長も驚かせようと、誰にも相談せずにスピーチ内容を考えたんです。ホテルでふと浮かんだのが「夢が人を動かし、人が人を動かし、人が夢を叶える」というフレーズ。それは、ニューヨーク出店という夢が社長を動かし、社長がみんなを動かし、そして今みんなで夢を叶えているんだという、会社の歴史に思いを巡らせて出てきた言葉でした。

いよいよニューヨークの店に立つ日。朝8時半、ニューヨーカーが出勤する時間帯に「今からスピーチをします!」と、マイクもないので大声で呼びかけました。ニューヨーカーがざわざわと立ち止まる中、ホテルで思いついたフレーズを英語で叫んだんです。一瞬の静寂が訪れた後、立ち止まった人達が「ブラボー!」と拍手をしてくれて。そして偶然にもその瞬間、会社のシンボルである白い鳩が舞い降りてきました。自分は大いなるものに動かされているんじゃないか。スピーチを聞いた社長も、号泣しながら僕をハグしてくれました。

その後、現地のスタジアム関係者にスカウトされましたが、結局話がまとまらず、日本へ帰国することに。就職について考えているとき、祖父が病気で体調を崩したんです。自分の代わりにお遍路参りをしてくれないかと頼まれました。おじいちゃん孝行をするつもりで、僕は行くことを承諾。頭を丸めて白装束で、四国八十八カ所を順番に周るお参りを始めました。

お参りを始めて2週間程経ったあるとき、スーパーのレジで並んでいると、後ろにいた女性に「次のお寺までお送りしましょうか?」と声を掛けられました。

道中、病気の祖父の代わりにお遍路参りをしていることを話すと、その女性が突然泣き出したんです。実はその人は、自分の夫を祖父と同じ病気で亡くしていたのでした。夫の分までお参りしてもらえないかと頼まれ、僕はそれを引き受けることにしました。僕がお参りすることでこの人の旦那さんを供養できるのなら、これはすごい巡り合わせだと感じたんです。ここまで計画を立てながら周ってきたけれど、途中足を挫いたり、うまく歩けなかったりと、目標通りに進まない日もあった。でもそういう日があったからこそ、僕はこの人と出会えたんだな、と。

八十八カ所すべてを1カ月かけて周り終わったとき、自分にとって無駄なことは一つもなくて、すべての出来事は最善のタイミングで起こっているんだと感じられたんです。

撮る側から、撮られる側へ


就職先を考えるにあたり、日本でたこ焼き職人になるという選択肢はありませんでした。在学中に300万個ものたこ焼きを焼いたので、プレーヤーとしてはやり切ったという想いがあったんです。たこ焼き店での日々で得た感動を超えるには、プレイヤーではなく、環境をつくる側へ回らなければいけないのかもしれないと考えました。

ただ、4年間たこ焼きのことばかり考えていたので、自分が何をやりたいかは見つけられていませんでした。そこで、とりあえずやりたいことが見つかりそうなテレビ局へ就職することにしたんです。中でも、最も多く情報が入ってきそうな報道局へ行くことを決めました。

報道番組のアシスタントディレクターとして働いていたあるとき、愛知県長久手市で、銃を持った犯人による立てこもり事件が発生しました。そして、対応していた警察の特殊部隊の隊員が亡くなったんです。亡くなったのは、僕の知人でした。

その事件は、僕に意識の変化をもたらしました。報道は物事が起きてから動く仕事だけど、起きる前にどうするかを考えなければいけないんじゃないか。起きたことをどう伝えるかよりも、より明るい社会にするために、何をすべきか考えたいと思ったんです。僕は起きた物事を撮る側じゃなく、社会を動かして撮られる側になりたいと考えました。

自分がやりたいのは、これだ!


そんなある日、番組の企画を考えていたときに、先進国の中でも日本人は本を読まないという話を聞きました。ある専門家は「これは国力の差にもなりかねない」と言っていて、確かにそうだなと思ったんです。明るい社会を目指すなら、本を読む子どもを増やしたい。そのために、まず出版業界を盛り上げたいという想いに至ったんです。

ちょうど、出版社と書店を仲介する大手出版流通会社の中途採用の募集を見つけました。そこで、2年務めたテレビ局を辞め、出版流通会社へ転職することを決めたのです。

入社後は、社内の新規事業コンテストに積極的に案を出しました。提案自体はほぼ採用されませんでしたが、その姿勢が評価されて、東京の本社へ異動に。アメリカの大手ネット通販会社の窓口担当を任されました。

クライアントの規模が大きくなるにつれて、ビジネススキルを高める必要が出てきました。そこで、経営塾に通うことにしたんです。複数の社員と経営塾のセミナーに参加したある日のこと。いつもなら他の社員と飲みに行くのですが、ふと主催者側の人達が懇親会へ行く様子が目に入ったんです。そのとき「あ、この瞬間が人生の分かれ道だ」と思ったんですね。いつもの人達といつものように飲みに行ったら、今までと同じ人生だって。主催者側の、この人達と同じ世界に行くにはどうすればいいんだろう、と。

それで、いつもの飲み会を断り、主催者側の懇親会に入れてもらったんです。みんな経営者で、サラリーマンは自分だけでした。僕もこのコミュニティに入って勉強したいです、と申し出て、それから5年間、かなりの額を投資して、コミュニティに参加し続けました。

そんな中、仕事でアメリカへ出張する機会が訪れました。ある土曜日の朝7時半に、ベーカリーカフェに立ち寄ったんです。賑わう店内で、目の前に並ぶ老夫婦の姿が目に止まりました。屈託なく、仲良さそうに食事を注文する様子、2人で話している姿。何気ない日常の瞬間なのに、そこにすごく幸福を感じて、「あぁ、これだ!」と思ったんです。自分がやりたいのは、こういう笑顔を生み出すサービスをつくることだ!と。

出版業に関わりながら僕は、本を読む人が少なくなっているのは、商品に問題があるのではなくて、一人ひとりの暮らしに余裕がないからだと感じるようになっていました。だから、老夫婦の幸せそうな笑顔を見て、休日のこういう何気ない時間に寄り添うようなサービスをつくりたいと思ったんです。

サラリーマンとして、社内で新規事業を提案し、出世する道もあったのかもしれません。でも僕の中には、幼少期から抱いていた「未知なるものへの関心」がありました。誰かが目的地を用意してくれる道は、自分じゃなくてもやれる人がいるかもしれない。それよりも自分で道を切り拓いて、足跡を残したいと思いました。

こうして約10年働いた出版流通会社を辞め、名古屋のIT企業でウェブマーケティングに携わりながら起業しました。

くらしのすきまをあたためたい


今は、ホリデイズ株式会社の代表として、「くらしのすきまをあたためる」をミッションに、衣食住のサービスを提供しています。「くらしのすきま」とは、仕事のようなメインストリームではなく、余暇などの、自分らしく生きられる時間のこと。その「すきま」をあたためるサービスを提供したいと思っています。

たこ焼きで食の成功体験があることから、まずは「食」に関わるおはぎのプロデュース事業「OHAGI3」を始めました。安心・安全な素材を使いながら、すきま時間に食べるおやつであるおはぎを、今の時代にフィットするよう、リブーティング(再起動)して提供しています。サイズを小ぶりにして、さまざまな味を組み合わせたり、見た目にこだわったり。昔からあるものを押し付けるのではなく、現代の人に寄り添う商品を提案しています。

また、廃校になった小学校の給食室をリノベーションした施設で、カフェの運営もしています。ここでは働く人に向けて、サラダのランチなど、OHAGI3が監修する身体に優しいメニューを提供していますね。

そして2021年4月からは、「衣」のリブーティングに当たる取り組みをスタートします。スペインの「meyba(メイバ)」というスポーツブランドを、日本に展開するライセンスを引き受けたのです。meybaはもともと、70年代にサッカーチーム「FCバルセロナ」のサプライヤーをしていた、歴史あるブランド。50年の時を経て、2021年から世界中で再始動しています。高校時代にサッカーとつながりがあったので、運命的なものを感じていますね。

この会社で僕が実現したいのは、「桃太郎のラストエンディング」を変えること。今のエンディングは、桃太郎が鬼を退治してめでたし、めでたしです。でも、結局それは勝ち負けの世界。僕は、桃太郎が鬼にもきびだんごをあげて、同じ食べ物を分かち合うことで、互いに分かり合うエンディングを実現したいんです。

今の世界に置き換えると、価値観の違う人同士で限られた資源を奪い合うのではなく、分かち合いたい。それが、持続可能な世界へとつながっていきます。「くらしのすきまをあたためる」をファーストミッションに、ゆくゆくは、ホリデイズが提供する衣食住のサービスをみんなが分かち合う、平和な世界を築ければ嬉しいですね。

これまで、僕は3日以上落ち込んだことがありません。思い通りに行かないことがあっても、3日後にはこれは未来からのギフトだと思えるんです。それは、全ての出来事は自分にとって最善のタイミングで起きているんだという気づきがあったから。人生を振り返ってみると、いつも思い通りにいかない瞬間が、ターニングポイントになっています。

理想の人生に近づくためには、実は理想じゃない瞬間が大事なのかもしれない。その瞬間にこそ、気づきが与えられるからです。たこ焼きを焼けない半年間を経て、お客さんとの一期一会に感謝したように、思い通りにいかない瞬間もすべて、自分にとって一期一会だと感じています。

2021.04.05

インタビュー・ライティング | 塩井 典子
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