故郷も親も食も「当たり前」なんかじゃない。 気付きと感謝を経て、始めた挑戦。

東日本大震災を転機に、故郷への想いを自覚し、100年続く水産加工会社を継ぐため宮城県へUターンした布施さん。「当たり前」だと思っていた大切なものへの気付きや感謝が、布施さんをどう変えていったのか。お話を伺いました。

布施 太一

ふせ たいち|株式会社布施商店 代表取締役
2007年に大手商社へ入社。新規事業や経理などを担当するなかで東日本大震災が起こり、その後、実家の水産加工会社を継ぐため2018年に宮城県・石巻市へUターン。「布施商店」の専務として働き、2021年1月から代表取締役を務める。

地元を出て、東京の大学へ


宮城県・石巻市の港町に生まれました。実家は100年以上続く水産加工会社。姉が3人いる長男で、特別に厳しくされることも甘やかされることもなく、普通に育てられました。両親共に家業で忙しく、保育園のお迎えは最後になることも多かったですが、友達と遊んだり、いたずらしたりして過ごしました。

小学校では友達とよく釣りをして遊びました。明るい性格で、周りに推薦されて学級委員なんかもやりましたね。4年生からはサッカーを始めたのですが、センスがなくて試合にはほとんど出られませんでした。中学校に上がってもサッカーは続けました。「試合に出る」ことを目標に努力を続け、3年生では試合にも出られるように。進路については、勉強を頑張ろうと意識はしませんでしたが、なんとなく近所の進学校を受験し、合格しました。

高校では、今から始めても努力次第で勝負ができるという基準でボート部に入りました。当時のコーチが、目標に対して科学的に分析し最善のメニューを組み立てる人で、優先順位を見極めて適切な努力をすることが大切だと学びました。他校の選手に比べて明らかに体格は劣っていたメンバーでしたが、全国大会で準決勝まで進めたのは面白かったです。受験シーズンになり、なんとなく憧れがあった早稲田大学を志望。幸運なことに早稲田ボート部OBの方に受験対策を指導していただき、AO入試で無事に合格しました。

就職にあたっての3つの軸


大学でも部活はボート部へ。本気で日本一を目指していたので4年生になっても頭の中はボート一色で就職活動にも身が入らず、親に頼み込んで1年留年させてもらうことに。4年生の秋まで部活に集中し、引退後に就職活動に集中。まずは自分の「軸」の整理から始めました。

ボート部で経験した台湾遠征での初めての海外は、文化の違いに驚きと感動の連続。働くなら「海外」に関係する仕事がいいと、就職にあたって最初の軸ができました。次に、実家の家業が食品系ということで「食品」に携わりたいということ。そして、将来的に実家の“事業承継”を考える際の判断基準を持てるよう「商売」を理解したいということ。

「海外」「食品」「商売」という3つの軸をもとに、商社や食品メーカーを受けて、最終的に第一希望にしていた大手商社から内定をもらうことができました。入社から1年以内にはTOIECで730点を取るよう人事に言われていたので、学生生活の最後にはニュージーランドへ3カ月間の語学留学も経験しました。

改善していく楽しさを知る


入社して最初の配属は、大手コンビニ向けの卸を生業とする子会社への出向でした。軸にしていた「食品」の「商売」に最初から関われたのはラッキーでしたね。ただ、ここでの仕事が社会人になりたての自分には過酷で、相当追い込まれました。そこで先輩に「辛いです」と相談したところ、「どうしたら状況を変えられるか、考えて提案しろ」と言われました。そこから自分なりに改善できそうなポイントを提案したところ、少しずつ環境が変わっていきました。子会社の先輩方も可愛がってくださり、協力してもらえて、ありがたかったです。

3年ほど経って、今度は本社の経理に配属されました。数字に会計にと、わからないことだらけでしたが、先輩たちにいじられながらも、かわいがってもらえて。基礎から学んで、簿記やファイナンシャルプランナーの資格も取ることができました。慣れてくると、商社ならではの新規事業の経理も担当するように。経理のマニュアルに載っていないような新たな動きがたくさんあって、会計事務所や監査法人の方と話し合いながら、流れを組み立てていくんです。経理と営業の関係を良くするための活動も勝手にはじめて、すごく楽しかったです。

故郷があるのは「当たり前」じゃない


そんな中、2011年3月11日に東日本大震災が起きました。テレビで東北の映像を見て、すぐ家族に電話をしました。「今、逃げてる」と言われて、ひとまず大丈夫なのかと思ったら、その後から電話が通じなくなって。とにかくネットで情報を検索し続けました。ボランティアに行こうとも思ったのですが、邪魔になるという意見も聞いて、どうすればいいのかわかりませんでした。家族と連絡がつき、全員無事だとわかったのは、1週間後でした。

やっと地元に行けたのは、震災が起きて1カ月後。実家近くのトンネルを抜けた瞬間、そこに広がっていたのはガレキの山とひどい異臭でした。実家も会社も全壊状態。当たり前だと思っていた地元がぶっ壊れてしまっていて、故郷があるのが「当たり前」じゃないことに気付かされました。自分のアイデンティティの大事なところは故郷に、石巻にあったんだと初めて思いましたね。「石巻はこのまま崩壊し続けていいのか、いいわけがない」と、地元に貢献する仕事を意識し始めたんです。

それから半年後、父親から「補助金を使って、会社を立て直す」と電話がかかってきて、石巻へ戻らなくてはいけないと決心しました。補助金を使い、銀行からお金を借り、社員さんをはじめ多くの人たちを巻き込んでいく。その中で万が一にも父親が亡くなったとき、自分が何もしないままでいたら後悔すると思ったんです。

ただし、就職活動の時に立てた軸の1つ「海外」に携わる仕事をまだ叶えられていなかったので、それまでは商社で働き続けることにしました。幸いにも入社6年目に、中国に2年間赴任することができました。更にその後、日本で大手小売の新規事業開発なども経験。入社11年で会社を退社し、2018年7月に石巻へUターンしました。

食も「当たり前」になっていた自分


実家の会社では専務として働くことに。財務諸表を見たのですが、会社はかなり厳しい状況でした。うちは仕入れた鮮魚をそのまま出荷するモデルと、加工品として出荷するモデルの2つを主な生業としてきました。まずはこの出荷先を増やすところから始めようと新規営業に力を入れましたが、これがなかなか売れないんです。それではと、以前から取り扱いの多かった商品の「マダラ」をブランディングしようとしましたが、これもなかなか上手くいかない。ブランディングに協力してくれるパートナーからは、「効果を感じられるようになるには少なくとも3年はかかるから根気強くいこう」と言われました。

その間にも、水産業界特有の過酷な労働環境が見えてきたり、商社的な考え方では非効率に感じることがたくさんあったりと、とにかく課題だらけでした。なんとなく自分一人が突っ走っている感じでしたね。

そんな中、会社の「企業理念」から整理しようと、経営指針や理念の作り方を学べる、地域の中小企業家同友会に参加しました。商社で鍛えられたこともあり、会社の状況の説明などを上手くこなせたと思っていたら、昼ごはんの時、一緒に参加していたある会社の経営者に「君のところの食品は絶対に買いたくないね」と言われたんです。いただきますも言わず、携帯を触りながら食事をする姿を見られて、“食への感謝がない”と指摘されたんです。食の後ろには、“命”や“携わってくれた多くの人々の生活”があります。それらへの感謝を忘れて、食が「当たり前」になっていました。何も言い返せず、自分に対して強いショックを受けましたね。

そして同時に「君の会社」と言われたことも衝撃でした。自分で自覚するよりも早く、周りは自分を経営者として認識していたのです。「自分の行動や言動一つで会社に不利益を生んでしまう立場なのか」と、いただいた注意を真摯に受け止め、経営者として責任を持とうと誓いました。

父親への感謝と決意


同友会ではいろいろな宿題が出ました。その中でも大変だったのは、「親ときちんと対話する」というものです。僕は何かと親に対する不満を同友会で話してしまっていたのですが、会の仲間に「君は親にも感謝できていないんだね。今の君の状況は、誰が作ってくれたんだ?」と諭されたんです。食に対してだけでなく、親に何かしてもらうことも「当たり前」になっていたのかと、はっとしました。

思えば留年や留学など、両親はいつも無茶を聞いてくれていました。「革新的なことをしないと会社が持たない。なんでやらないのか」と責めていましたが、そんな考えを自分が持てるようになったのも、親のおかげ。そして思えば、この道一本でがんばってきた70歳の父親に、いきなり“革新”を求めるのも無茶苦茶です。自分がいまだに親に甘えていることを自覚しました。

そこから徐々に父親と話をするようにして、会社の歴史、父親の人生、たくさんの苦労を聞きました。僕のわがままを叶えるために、陰で頑張ってくれていたことも知り、聞く程に感謝の気持ちが湧いてきました。そうして父親を理解していく中で、こんな大変な状況の会社を父親から「継いでくれ」と言うことはないだろうと思いました。もしも親父から言ってくれても、それで僕が失敗したら、父親が後悔の念を抱いてしまう。そうなったら、僕も後悔する。そう思い、自分から「会社を継ぐ。社長をやるよ」と伝えました。そうしたら親父が、「良いのか?」と。そうして、「会社を良くするためにどうやっていいのか、よく分からないんだ」と初めて弱音を吐いてくれたんです。「自分がやらなくては」と僕の中で意思が固まりました。

「人」の大切さ


覚悟が決まったことと、同友会で何度も“感謝や気付き”をいただいたことで、社員さんに対する考え方も変わっていきました。思えば社員さん一人ひとりには、価値観や大切にしているものがあって、うちで働いてくれているのは、そうした目的を守るための、あくまで“手段”なんですよね。それに人生の大部分の時間をうちの会社で働くことに使ってもらっているのに、気持ち良い環境を用意できないと、経営者として良くないなとも思いました。だから、社員さんたちの大切なものを自分も大切にしたいと考えるようにして、仕事も思い切って任せるよう、自分を変える努力をはじめました。

そうしたら皆さん、驚くほどの成果を出してくれるように。社員さんたちが自ら会議を回してくれるし、そこでの議題も経営者かと思うほど視座が高いんです。僕にはない視点でのアドバイスもしてもらえるようになって、本当に助かっています。僕は精一杯やれば、人の2倍くらいの仕事量はこなせると思っていました。でも皆さんの力を借りると、3倍、4倍どころか10倍以上もの力が出たんです。「人」の大切さを本気で学びましたね。

「当たり前」じゃない、大切なものを守るために


現在は営業、人事、経理などの仕事をしながら、新規事業の立ち上げに特に力を入れています。一般消費者向けの通販サイトを準備していて、その販促ツールとしてYouTubeもはじめました。「仲買人、タイチ(なかがいにんたいち)」というチャンネルで、僕自身が会社のことはもちろん、地域や水産について、面白おかしく発信しています。これは自分が有名になりたいわけではなくて、水産加工業の現状や布施商店が大切にしていることを世に発信することが目的です。

今までうちは事業者向けの商売しかしていなかったので、一般消費者からの知名度が全くありませんでした。しかし、地域や水産業界に貢献していくためには、まだまだ仲間が必要なんです。そして良い仲間を増やすには、広く会社を知ってもらうことが絶対です。正直、自分がYouTubeをやるなんて思っていなかったし、恥ずかしさもありますが、目的のためには経営者である自分が何でもやらなくてはと思っています。

また、石巻にある他の水産加工会社の若手経営者たちと「ワラサクラブ」というチームも作りました。もともとは競合になるので連携していなかったのですが、地域という視点で見た時に、「地域外からの人材募集」「石巻ブランドとしての商品販売」など、できることの幅が広がります。自社で扱えない商品の相談が来たときにも、その仕事を彼らに回せば、自社のお金にならなくても石巻としての仕事が増えるのです。お金という目の前の利益だけを考えるのをやめたら、できることが広がりました。

たくさんの気付きや感謝をきっかけに、少しずつ前に進んでいますが、まだまだ挑戦は始まったばかりで課題は山積みです。だけれど「当たり前」なんかじゃない、大切な「故郷」や「人」「食」を残していくため、これからもできる限りのチャレンジを続けていきます。

2021.07.19

インタビュー・ライティング | 中川 めぐみ
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