写真を撮りながら全1741市町村一周。 日常のささやかな幸せや気付きを届けたい。

大学在学中に「ふるさと」をテーマに撮影をしながら日本の1741市町村すべてを訪れ、現在はフリーの写真家として活動する仁科さん。何を感じ、何を思って旅をし、写真を撮り続けるのか。お話を伺いました。

仁科 勝介

にしなかつすけ|写真家
1996年岡山県生まれ。広島大学経済学部卒。在学中、写真を撮りながら日本全国1741の市町村巡りを達成。写真館勤務を経て独立。書籍に『ふるさとの手帖 あなたの「ふるさと」のこと、少しだけ知ってます。』(KADOKAWA )。

挫折を知った野球部時代


岡山県倉敷市で生まれました。「勝介」という名前の通り、何に対しても負けず嫌いな子どもでしたね。勉強も運動も得意でした。

しかし中学生になって野球部に入って、初めて挫折を経験したんです。上手い人がたくさんいて、自分がいかに下手くそかを思い知らされました。居残りして夜もひたすら練習しましたね。

その甲斐あってか、学年が上がると副キャプテンという立場になりました。しかし、同級生で一番上手い子と対立してしまって。彼は不良タイプで態度が悪く、周囲の輪を乱していました。チームがまとまらなくて毎日苦しくて、どうしたら彼を辞めさせられるかと考えてしまうほど。そんな荒れた僕を見かねたのか、ある日、母親に「相手に変わってほしいと思うなら、 自分が変わらないとだめだよ」と言われたんです。

ハッとさせられました。その時初めて、僕自身が彼に対して、他のみんなと平等に接していなかったことに気付きました。言いにくくて「声出せ!」という指示を彼には出さなかったり、会話を避けてしまったり。

それからは、みんなと同じように接することを根気強く続けました。否定せず、まずは一度受け止める。すると少しずつ彼の態度も変わり、メンバーとも打ち解けるようになりました。結果的にチーム全体の統率が取れるようになったんです。

最終的に僕は4番バッターになり、みんなで野球をする喜びを味わわせてもらいました。最後の大会では負けてしまいましたが、みんなで悔し泣きをして完全燃焼することができましたね。

最初から偏見で相手を否定せずに、まず自分が変わること、相手を受け止めること。母の一言は、それから人と接する上での大事な教えになりました。そして、自分一人が勝つよりも、みんながまとまって一つの方向に向かう方法を考える方が好きだなと感じるようになったんです。

琴線に触れた瞬間を残せる喜び


野球部を引退したあとは、一転してカメラを始めました。地域の行事でおじさんたちが大きいカメラで撮影しているのを見て、純粋にかっこよくて憧れたんです。自分でもカメラを持ちたいなと思うようになり、積み立てていたお年玉で一番安い一眼レフカメラを購入しました。

よく友達や周辺の観光地を撮影していましたね。自分の中の琴線に触れる、いいなと思った瞬間をそのまま写真で残せると、すごく嬉しかったんです。 たとえば、西日が綺麗に差しているような瞬間だったりとか、白鳥がちょうどこちらを向いてくれる瞬間だったり。

技術的なことは何もわからないままやっていましたが、それでもやっぱり写真を撮るという行為がすごく好きだなと感じました。

高校時代は写真部と天文部に所属し、どちらも部長を務めました。でも、あくまでカメラは趣味のひとつ。学年全体をまとめる立場になることも多く、ビジネスにも興味がありました。将来的には漠然と自分で何かやりたいという思いがあり、大学では社会の仕組みについて勉強したいと考えていましたね。

大学受験では、憧れていた京都大学を受けました。しかし、結果は不合格。最初は一年浪人するつもりでしたが、どこかモヤモヤした気持ちがあって。入学申し込みの締め切りの直前になって、後期試験で合格していた広島の大学のことを思い出して、バーッと調べてみたんです。

そうしたら、今までいかに大学のブランドに捉われていたか、自分の視野の狭さに気付かされました。「自分はここに行く運命だったんだな」と直感するくらい、広島の大学がちょうどしっくりくる選択肢に思えたんです。急遽方向転換して、広島の大学に入学することに決定。決めると、心のつっかかりが取れて、納得できる答えを見つけられた感覚がありました。

日本についてもっと知りたい


大学にも慣れてきた1年生の夏休み、ヒッチハイクで九州一周に出かけました。今まで外の世界を知る機会がなかったので、できるだけお金をかけずにいろいろな場所を巡ってみたかったんです。夏休み前の一番最後のテストは、バックパックと麦わら帽子で受けて、終わった瞬間に「行ってきます!」とそのまま飛び出しました(笑)。

知らない人と出会って、知らない場所に連れていってもらう初めての経験でした。そこで自分が井の中の蛙であることを思い知りましたね。もちろん授業で得た知識もあるし、いろいろな地名を知ってはいましたけど、実際に行ってみると全然違うし、想像もできないことが起こるんです。

この旅で一番行きたいと思っていた場所が、宮崎県の高千穂でした。そこに向かう手前で、全く車が捕まらず困っていたときに、地元のおばあちゃんに「あんた、ここじゃだめだ」と一本横のさらに人通りのない道に連れていかれたんです。ここじゃ絶対に捕まらないと落ち込んでいると、ものの3分で拾ってもらって。衝撃的でしたね。結果的に、そこで拾ってくれた方に旅の中で一番お世話になりました。不思議なご縁でしたね。
九州を一周する中で、そういったたくさんの人や場面との出会いを経験し、「日本についてもっと知りたい」という思いがさらに強まりました。

巡るたび知らない自分や世界と出会う


九州一周旅のあと、学生の間に国内を巡りたいと考えました。都道府県一周でもいいけれど、もっと細かく回りたい。そう思い、浮かんだのが「市町村一周」でした。

ためしに日本国内に市町村がいくつあるか調べてみると、なんと1741。1年間休学するにしても、単純計算で1日に5つほど回らなければなりません。絶対に無理だと思いました。でも、日本をきちんと自分で知るというところに関しては、「市町村一周」が納得ができる答えだったんです。

そこで、学生のうちに終わらなくてもいいと考え方を変えて、1年かけて1000自治体回ろうと目標を決めました。実現するために、2年かけて計画をたて、準備を始めたんです。せっかく回るなら、通過するのではなくきちんとひとつひとつの土地の写真を撮影したいと考えていて。それができたら、全部の市町村の写真が揃うことになるし、すごくロマンがあるなあと思ったんです。そこでウェブサイトを作って随時写真を更新していくことにしました。

「いよいよだ」と気合十分で出かけた初日。原付で転倒して、全治3か月のケガを負いました。骨折こそしていなかったけれど、右膝の肉と骨が見えている状態で。学生生活の丸々2年間を使って、アルバイトでお金を貯めて必死に準備してきたのに、初日からのハプニング。何か起こっても話のネタになるとは思っていましたが、さすがに初日の夜に病院の天井を眺めている自分は想像できなかったですね。この状態で市町村一周なんて、もう恥ずかしいし、かなり心が折れかけました。

でも、逆に仕方がないと割り切って、気楽に回り始めたんです。怪我が完全に治り、旅にも慣れてきたタイミングでペースもぐんと上がりました。各地でいろんな写真を撮影しましたね。

愛媛県の大洲市では、ある親子を撮らせてもらいました。傘をさしたお母さんが、小さいお子さんに寄り添っている瞬間を撮影したんです。お母さんが「どうしましたか、王子?」と語りかけているようで、ストーリーや親子の優しい関係性が感じられました。

その数カ月後、ニュースで大洲市が西日本豪雨で大きな被害を受けたことを知ったんです。心配していたら、そのお母さんが無事を伝える連絡を下さって。僕はその時知らなかったんですが、撮影のとき、お母さんのおなかには2人目の赤ちゃんがいて、その子も無事生まれたと教えてくれたんです。そのエピソードも含めて、すごく大事な写真になりましたね。

そういった様々な出会いを重ねながら回り、結果として予想を上回り、1年で1400の地域を訪れることができました。

そこから復学をした1年で、1741すべてを回り切りました。ゴールは鹿児島県の屋久島で。来てくれた友人と「せーの」で上陸して、「ありがとう」とハグをしました。その瞬間は、いい意味であっけなかったですね(笑)。

でも、ウミガメの産卵で有名な浜に向かっている途中、幸運のしるしと言われる彩雲が旅の中で初めて見えたんです。しかも2つ同時に!その瞬間に身震いがして、やっと実感が沸きました。ああ、本当に全部回ったんだなと。ありがたいことに、その直後にウェブサイトに多くの反響があり、たくさんの方に市町村一周の旅と写真を知っていただくことができました。

不思議なのは、土地の歴史、文化、食に触れ、巡れば巡るほど知らない自分や世界と出会っていくような感覚を覚えたこと。本当にきりがないぐらい日本は広いんだなと感じましたし、市町村一周を達成してもすべてを知った気には全然なれないんです。まだまだ知らないことばかりだけど、だからこそ知り続けたいと思いました。

後悔したくない一心で東京へ


卒業後は、旅の前からお誘いをいただいていた地元・倉敷の写真館に入社しました。自分の中で写真との関わりがものすごく深いものになっていたので、これもご縁かなと思い、他に就活はしませんでした。

旅を終えた直後にたくさんの反響をいただいたおかげで、8月には全市町村一周の旅で撮影した写真と文章をまとめた書籍を商業出版することもできました。ほぼ3カ月かけて写真館の仕事をしながらの製作でしたが、自分の著作物を持たせていただけるのはすごくありがたかったですね。

さらに、出版がきっかけで、9月下旬には渋谷での個展のお話をいただいたんです。「もう、ぜひに!」という気持ちでした。でも、今のまま地元の写真館に勤めていると、僕自身が個展の会場にいることはできないし、足を運んでくださるお客さんにも会えません。

こういう機会をいただけること自体なかなかないと思っていましたし、もしこのタイミングで東京に行かなかったらすごく後悔するような気がしました。本当にたくさん悩みましたが、写真館を辞めさせてもらい東京へ行く決断をしたんです。ありがたいことに応援してくださる方がたくさんいて、自分の道を進むことが納得できる答えなのかもしれないと、少しずつ覚悟が定まりました。

いくつになっても知り続けたい


現在は東京に拠点を移し、フリーランスの写真家として活動しています。

企業さんや地方自治体さんとのお仕事のほか、個人の方からのご依頼もお受けしています。例えば、幼稚園に通われているお子さんの通園風景の写真を撮ることも。自分の中でできそうなことであれば何でもやらせてもらっています。市町村一周しているおかげで、ご依頼があればどんな場所でも気兼ねなく行けますね(笑)。

拠点こそ東京に移しましたが、地方に携わってその姿を伝えることは自分に合っていると感じますし、これからもしていきたいです。いろいろな場所に出向いて、いくつになっても知ることを続けたい。たくさんの人や場面に出会うことは、自分を知ることにも繋がりますし、いつか振り返った時に自分の人生に納得できることにも繋がると思うんですよね。

歌やダンスといった現在進行形のパフォーマンスと違って、写真は撮った時点で過去になります。だから、写真を見ればその瞬間を振り返ることができる。日々過ごしている中で見落としているささやかな気付きや幸せを、僕の写真を通して届けられたらすごく幸せですね。

学生の時は日本国内に100%の時間を割いたので、この時勢が落ち着いたら海外にも行ってみたいです。それが仕事に繋がったらありがたいですし、今はチャンスがあるならできるだけたくさん経験したいと考えています。

2021.01.14

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | むらやまあき
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