ファシリテーターとして、良いチームを作る!
原点は「考えさせてくれる」体験。

ファシリテーターとして「良いチーム」を作ることを軸に、企業、行政、スポーツチーム向けと、様々なかたちで価値を提供する長尾さん。外側から「支援」するのではなく、その人の「やる力」を引き出したいと話す背景には、どんな体験があったのか。お話を伺いました。

長尾 彰

ながお あきら|良いチームを作り目標達成に導く
組織開発ファシリテーター。企業、団体、教育現場など、15年以上にわたって2000回を超えるチームビルディングをファシリテーションする。文部科学省の熟議政策に、初の民間ファシリテーターとして登用され、復興庁政策調査官としても活動中。
一般社団法人プロジェクト結コンソーシアム理事長、NPO法人エデュケーショナル・フューチャーセンター代表理事、一般社団法人アカデミーキャンプ理事、一般社団法人ARTRATES、一般社団法人バックアップセンタージャパン理事、一般社団法人日本レースラフティング協会常務理事、NPO法人明日のたね理事を兼任。レースラフティング女子日本代表コーチ。

「考えさせてくれる」人との出会い


僕は静岡県富士市で生まれました。身体が弱く、4歳の時には腎臓の病気で1年ほど入院しました。退院後も食事制限などがあり、運動は激しくはできない状態で、その代わりに本をたくさん読むようになり、物語によって想像力が養われました。

学校でも図書室が好きで、正直、授業は退屈だと思っていました。ただ、だからといって不真面目なわけでもないのに、小学3年生時の担任の先生には、なぜか毎日怒られていました。何か自分に原因があるだろうと思い、努力して勉強も掃除もちゃんとやっていたのに、状況は変わらず。そして、授業で使う大きなコンパスで叩かれた時に、「僕が悪いわけじゃない」と、登校拒否を始めたんです。

それからは、兄の担任の先生から紹介された、特に何を学ぶか決まっていない塾(フリースクール)に通うようになりました。塾では、火曜日と木曜日に「基地」に集まって、毎週末に行うキャンプや長期休みに行う冒険の計画を、子どもたちだけで立てるんです。

指導者の牧野さんは、危険な時は止めるけど、基本的には見ているだけ。学校の先生だったら「教える」ところを、代わりに「これどういう意味だと思う?」とか、ひたすら問いかけてくれるんですよね。

そして、3年生の夏休みには、20人ほどの子どもと2人の大人だけで、20日ほどかけて琵琶湖を一周しました。そのプロセス全て、ルートを決めるのも、テントを買うのも、地図を見るのも、全部子どもたちで実行するんです。同じように、4年生の時には神津島で29泊30日のキャンプを、5年生の時には富士五湖一周をしました。

子どもは20人もいるので、揉めることもありました。それでも、「みんなでひとつのことを達成する体験」を味わうことができたんです。また、「教えられる」のではなくて、「考えさせてもらえる」ことに、居心地の良さを感じていました。

憧れの先生のようになるため体育教師を目指す


担任の先生が変わってからは、学校には戻りつつ塾にも通い続け、中学生になってもお手伝いをしていました。また、中学校に入る頃には、病気が完治して運動できる状態になっていたので、兄を習ってバスケットボールを始めました。

高校のバスケットボール部の顧問の野田先生は、見た目は怖いけど、ウィットに富んだ面白い人でした。練習では「こう動け」と指示を出すのではなく、「どう動けばいいと思う?」と、とにかく考えさせてくれ、努力家の先輩に対しても「頑張るだけじゃダメだ、頭を使え」と言っていたのが印象的でした。非難するわけではなく、文字通り考え続けることの大切さを染み込ませてくれたんです。

また、僕は身長が低い分シュートを極めようと思い、高校2年生の頃から、毎朝1000本のシュート練習をしていました。すると、ふとした時に、「毎朝、体育館の鍵を開けてくれるのは野田先生なんだよな」と、感じる瞬間がありました。いつも、体育館が開く前に周りを走っていると、先生が鍵を開けに来てくれ、すれ違う時に無言でハイタッチを交わしていたんです。

それでも、先生は毎朝練習する僕に対して、「練習が足りない」と言うわけでも、「偉いね」とか言うわけでもなく、それをあたりまえのこととして接してくれました。ひとりの人間として認めてもらえているような感じがするんです。それは、塾の牧野さんから感じていたものと近い感覚でした。次第に、野田先生のようになりたいと思うよになり、将来は体育教師になると決めて大学に進学しました。

30歳で1000万円稼げるファシリテーター


大学2年生の時に、塾時代の先輩たちの繋がりで誘われて、アメリカで開発された体験型学習「プロジェクトアドベンチャー」に参加する機会がありました。5日間ふたりの外国人講師に指導されながら、10人ほどのチームで、協力してひとつのことをやり遂げるプログラムでした。

すると、5日間を終えた時のチームは、2年半かけて培った高校時代の部活のチームのような感じがしたんです。何も言わなくても最適なパスが出せるような信頼関係。むしろ、高校時代以上のチームになっていました。

これを5日で実現するなんてすごいと感じ、ふたりの講師に「これは何という仕事なの?」と聞きました。すると、「ファシリテーターだ」と言われ、この時からファシリテーターを目指し始めました。

ただ、ファシリテーターと言われても、言葉も一般的でないし、結局何をする人なのかよく分からなかったので、どんなものか自分で調べました。最初は、「アクティビティを提供する人」かと思っていたけど、『ファシリテーター型リーダーの時代』という本を読むことで、ファシリテーターとは「チームを作って目標達成に導く人」であると分かりました。単純に会議を進行する人でもなく、様々な手段を使ってチームで目標を達成させる人だと。

とはいえ、資格があるわけでもなく、それが仕事になるとは思えなかったので、ファシリテーション能力を活かした体育教師になろうと考えていました。そして、大学卒業後は、大学院の研究生として野外教育を学びつつ、学校での非常勤講師も始めました。しかし、体育教官室には馴染めませんでした。体育教師は、野田先生のようなファシリテーティブな人ばかりだと思っていたのですが、そうでもなかったんです。

そこで、先生になるのはやめ、「30歳で1000万円稼げるファシリテーターとして独立する」と新たな目標を立て、そのために何をするべきか考えるようになりました。父親が大工として独立していて、その姿を昔から見ていた僕としては、雇われるイメージはあまりなかったし、自分で自分の生き方を決められるスタイルに憧れもあったんです。

依存し続ける自分を断ち切って


そして、大学院での研究を終えた後は、冒険学習プログラムを提供する会社に入り、数年後には大手玩具メーカーに転職。さらに数年後、27歳の時には、人事コンサルティング会社の立ち上げに参画しました。全ては、独立することを前提に、様々な経験を積もうと考えての選択でした。研修プログラムの設計、大企業が動く仕組み、仕組みを動かすための理論の構築や提案方法など、様々なことを学びました。

そして、人材コンサルティング会社で3年ほど働いた後、今度は友人たちと、体験学習コンテンツを提供する会社を作りました。社長になる予定の人は以前ベンチャー企業で成功していて、この人に着いていったら面白いだろうと、正直依存していたんです。

ところが、諸問題があり、その人は経営には携わらないことになりました。しかし、依存の気持ちは他のメンバーにも向いていました。一緒に立ち上げたメンバーは編集が得意で、大手企業の機関誌の受託仕事を取れたので、「それがあれば食べていけるな」と思っていました。一方で、他のメンバーも、僕の研修コンテンツに過度な期待をしていたようで、お互いに依存し合っていたんです。

そんな状況なので、経営はうまくいきませんでした。それでも、日々食べていく売上は得ることができ、気づけば目の前の売上を追うことが目的になっていました。すると、仕事を面白いとは感じられず、モヤモヤする時期が続きました。

そんな時、東日本大震災が起きました。僕は「出番が来た!」と想いに駆られ、仕事そっちのけでボランティアに行くようになりました。そして、とにかく子どもたちへの支援が必要だと考え、先生のサポートをしたり、放課後に子どもたちが集まれる「みんなの場」をつくり、学びや遊びの支援をしていきました。

すると、仕事とは違って、「人の役に立てる」とやりがいを感じられるんですよね。そこで、団体も作り、本格的に活動するようになりました。一方で、気持ちを注げない状態で所属していた会社からは、退く踏ん切りをつけました。

ただ、次第に、被災者に依存している自分がいると分かってきました。「人の役に立てている」と酔いしれていたんです。問題を外側から「解決」するのではなく、内側から「解消」するためには、外から支援をしてもダメなはず。それなのに、「良いことをする」のが気持ちいいから、「手助けが必要とされている」と思い込もうとしていたんです。その結果、「手伝ってもらうのがあたりまえ」と被災者にも依存させてしまい、自立を阻害していました。

「良いことをしている」という感覚に依存していたら、結局お互いのためにならない。そう気づいた時に、今度こそ誰かに寄っかかるのではなく、自分の責任で仕事をしようと決めました。そして、2012年、「ナガオ考務店」を立ち上げました。依存を断ち切った、本当の意味での独立でした。

共に依存するのではなく「やる力」を引き出す


それからは、復興支援の活動も続けながら、チーム作りや研修など、様々な仕事をするようになりました。現在は、企業向け、行政向け、スポーツチーム向けと、多岐に渡る仕事をしています。

一つひとつの内容は全く違うのですが、自分の中では軸は一貫していて、全て「良いチームを作る」ための仕事です。良いチームとは、人間関係が良好で、成果を出せているチーム。その状態にするため、色々なかたちで関わっているだけなんです。

最近では、企業の中で「エア社員」として動くことが増えています。定期的に会社に行き、相談に乗りつつ、そこで明らかになった課題に対して具体的なアクションに落とし込んでいくんです。1日限りの講演や短期の研修をすることもありますし、1年間かけての理念策定など長期に渡るものもあります。

また、自治体の仕事では、行政と住んでいる人をひとつのチームとして認識のズレをなくしたり、スポーツ関係での仕事では、個別のチームだけでなく、リーグ全体をチームとして見立てた仕事もします。お手伝いしているレースラフティングでは、チームのレベルを高めるためには「日本での競技人口を増やすこと」が大切だと結論づけ、そのためにレースラフティングの協会を作り、競技自体の認知度を上げる活動もしています。それら全て、チームで目標達成するための仕事なんです。

復興支援の仕事もずっと続けていて、その中で様々な学びや気づきがあります。外からの支援は自立を阻害しているのではと悩むことは、今でもあります。ただ、自分と他人が見えているものは違くて、外からの支援を必要としている人も、そうではない人もいる。その視点を持てたので、やり方は選べるようになりました。

同じような悩みは、復興支援以外の仕事でも感じます。チーム内でも、「支援」して依存させてしまうのではなく、そこにいる人たちの「やる力」を引き出すのがファシリテーターとしての役割なんだと思います。だからこそ、仕事で関わった人の「ものの見方」が変わり、その人自身のスタンスが変わるのが一番嬉しいですね。問題に対してネガティブに捉えていたのが、考え方を変えると自分で乗り越えていけるようになるんです。

僕自身、ナガオ考務店として依存から独立してからは、仕事が以前よりもずっと楽しいですね。不安に思うことがあっても、信頼している仲間と面白く仕事ができているから、不安定なものもなくなりました。

ただ、いくら面白い人たちと仕事をしていても、つまらない仕事は関わる人もつまらなくしてしまうと感じます。逆に、面白い仕事は、関わる人たちも面白く変えてくれるので、とにかく来た仕事を面白くしていきたいと考えています。

また、「こういう仕事がしたい」とか、目的や目標はあえて持たずにいます。目標を決めてしまうと、それ以外のものを見落としてしまうし、来たものに対して全力で取り組む方が、見えてくるものに広がりがあると感じているんです。

目の前に来た仕事を通じて、良いチームを作っていく。良いチームになる経験をした人は、良いファシリテーターになる。その循環を通じて、社会にファシリテーティブな人が増えればと思います。

2015.11.04

長尾 彰

ながお あきら|良いチームを作り目標達成に導く
組織開発ファシリテーター。企業、団体、教育現場など、15年以上にわたって2000回を超えるチームビルディングをファシリテーションする。文部科学省の熟議政策に、初の民間ファシリテーターとして登用され、復興庁政策調査官としても活動中。
一般社団法人プロジェクト結コンソーシアム理事長、NPO法人エデュケーショナル・フューチャーセンター代表理事、一般社団法人アカデミーキャンプ理事、一般社団法人ARTRATES、一般社団法人バックアップセンタージャパン理事、一般社団法人日本レースラフティング協会常務理事、NPO法人明日のたね理事を兼任。レースラフティング女子日本代表コーチ。

記事一覧を見る