障害者と健常者が共に暮らせる社会を創る。
元筆談ホステスが目指す心のバリアフリーとは。
政治の力で障害を持つ人とそうでない人が一緒に暮らす社会を創るため、東京都北区の区議会議員を目指す斉藤さん。1歳の時に聴覚を失い音のない世界で育ちながらも、接客の楽しさを知り、筆談ホステスとして青森・銀座で活躍した斉藤さんが政治家を目指す理由とは。お話を伺いました。
斉藤 里恵
さいとう りえ|障害者と健常者の心のバリアフリーの実現
元筆談ホステス。障害者と健常者の心のバリアフリーを実現するため、東京都北区にて区議会議員を目指す。
【クラウドファンディングに挑戦中!】元筆談ホステス・斉藤りえが政界に挑戦!2020年東京パラリンピックまでに心のバリアフリーを実現したい!
耳が聴こえない環境で育つ
私は青森県で生まれました。1歳の時に髄膜炎という病気を患い、その後遺症で完全に聴覚を失ってしまいました。そのため、物心つく頃から音のない世界で生きていました。両親は耳が聴こえない分、色々なことを体験させたいと思ってくれ、多くの習いごとをさせてくれました。スイミング、書道、陶芸、バレエ、それにピアノまで習っていたのです。
また、聾学校の幼稚部に通いながらも、日替わりで幼稚園と保育園にも通い、小学校も特別支援学校ではなく普通学校に進みました。耳が聞こえなかったので「宇宙人」とからかわれることもありましたが、そんな悪口は文字通り私には「聴こえなかった」ので、気づきませんでした。(笑)友達もたくさんできて、楽しく過ごしていましたね。
ただ、私は別の学区の「きこえの教室」という聴覚障害者のためにマンツーマンで国語と算数を教えてくれるクラスがある学校に通っていたのですが、私の態度が悪かったのか、担当の先生を怒らせてしまい「君は神に耳を取られた」とみんなのいる教室の黒板に書かれてしまうことがありました。私はショックが大きくて、友達の前で泣き続けてしまいました。
しかし、両親には一切話せませんでした。心配されてしまうし、耳が聴こえない分人よりも何かできなければ認められないと思っていたので、次第に心の内にあることを話さないようになっていったのです。
小学校卒業後も普通中学校に進みました。そして、小さい頃からの友達がいた地元の学校に戻ってきたので、遊ぶのがどんどん楽しくなっていきました。ただ、両親は厳しく、18時の門限を1分でも遅れるとひどく叱られました。そこで私は、「どうせ5分でも怒られるなら、何分でも同じだ」と思い、夜遅くまで遊び歩くようになっていったのです。
夜遅くまで遊んでいるので、素行も乱れるようになり、学校でも目をつけられるようになっていきました。すると、授業中に分からないところを友達に聞いている時も、雑談をしていると疑われて怒られるようになってしまいました。怒られるのは嫌だったので、授業で分からないことがあっても黙りこむようになり、勉強にはどんどんついていけなくなりました。
初めて接する人とコミュニケーションが取れる接客業の喜び
そのため、高校も進学する気はなく、好きだった洋服やファッショの勉強をするため、服飾の専門学校に行きたいと考えていました。しかし、担任の先生に猛反対され、結局高校に進学することになりました。
高校は制服も可愛かったし新しい友達もできて楽しみつつも、心のどこかで「自分が行きたかった学校ではない」と思っていました。そのため、授業を抜け出して遊び歩くようになりました。すると、両親からお小遣いをもらえなくなり、大好きな洋服を買うことができなくなってしまいました。
そして、いつも洋服を買っていたお店で万引きをしてしまったのです。ただ、すぐに店員さんに捕まってしまいました。バックヤードで警察が来るのを待っている時、オーナーの人は優しく話しかけてくれました。その時、自分の過ちに気づき罪悪感が込み上げてきて、何度も頭を下げて謝罪しました。すると、オーナーからアルバイトとして働いてみないかと、意外な誘いをもらえたのです。
そこで、1年生の冬休みからそのアパレルショップでアルバイトをさせてもらうことにしました。初めての仕事で、しかも耳が聴こえないので分からないことや、大変なことばかりでした。しかも、働くことの責任が分かっていなかった私は、遅刻したり、オーナーと喧嘩してばかりでした。それでも仕事は楽しく仕方ありませんでした。
それまでは私のコミュニケーション相手は、家族や友達といった自分の生活圏にいる人たちでした。しかし、アパレルショップに来るお客様は、当然私のことなどまったく知らない赤の他人。それでも何か役に立てるように、声をかけたり、洋服の提案をすることで、初めて接する方とコミュニケ―ションが成立した瞬間、今まで感じたことのない感動があったのです。そして接客業が、どんどん好きになっていきました。
筆談ホステスとしてのデビューと憧れの東京でのOL生活
その後、高校も中退してアルバイトを続けていたのですが、働いていたお店がなくなることになりました。
そのため、次はエステティックサロンで働き始めたのですが、高額な化粧品を販売し、お客様に多額のローンを組んでもらわなければならないことに違和感を覚えてしまい、2年ほどで辞めることにしました。
そして次の仕事を探している時に、知り合いから繁華街でクラブを経営しているママを紹介され、ホステスとして働かないかと誘われたのです。耳が聴こえない私にホステスが務まるのか不安はありました。ただ。「やってみないと分からない」と思い、挑戦することに決めました。
実際に働き始めると、ホステスの仕事は「コミュニケーションそのものが仕事である」ことを実感しました。私は「筆談ホステス」として、メモ帳を片手に、必死にコミュニケーションを取りました。言葉でのコミュニケーションでない分、複数人で会話する時など、大変なことも多くありました。しかし、逆に「文字にすること」が良い部分もあり、メモ帳に絵を描くことでコミュニケーションも取れ、次第にお客様にも共感してもえるようになっていきました。
その後、数年ホステスとして働き、23歳の時に東京に上京することを決めました。単純に、「東京でOLとして働いてみたい」と憧れもあったし、ホステスの仕事はやりきった感覚も持っていたのです。そこで、単身東京に出て、知り合いの会社で事務の仕事をさせてもらうことになりました。
ただ、新しいことを覚えるのは大変で、すぐに気持ちが落ち込むようになり、数ヶ月でパソコンで数字と向かい合うことに疲れてしまいました。高校も出ていないし、電話番もできない私を雇ってくれた会社には感謝してもしきれなかったのですが、私には事務の仕事は向いていないと気づき、ホステスに戻ることに決めました。そして、どうせなら最高峰の接客を学びたいと、銀座のクラブで働かせてもらうことにしたのです。
当事者だからできる仕組みづくりを政治の道で実現する
銀座のクラブは接客のプロの方ばかりで、私も一流の筆談ホステスになれるように努力を続けていきました。ただ、一生この仕事を続けることに、不安もありました。お店に出なければホステスとしては稼ぐことができないし、実際に体調を崩してお店を休む時には「このまま続けていいのか?」と悩むこともありました。そのため、自分がママとしてクラブを経営する将来を描けなかったのです。
また、青森時代に障害を持つ人とそうでない人が同じ職場で助け合いながら働く会社の社長と出会い、東京に来てからはその人の話を聞かせてもらう機会が増えていきました。それまで、そんな世界を知らなかったので、どんどん興味を持つようになり、次第に、「私も障害者と健常者が一緒に働ける場所を作りたい」と考えるようになっていきました。今までは自分がホステスとして一流になることばかり考えていたけど、初めて夢ができたのです。
そして、そのための資金を貯めるためにも、また世の中のことをもっと知るためにも、ホステスとしての仕事により力を入れるようになっていきました。
しかしその後、25歳の時に妊娠していることが分かりました。相手の方とは既に別れていましたが、私はシングルマザーになることを決意し、バリアフリーが進んでいるハワイで出産をしました。子どもが大きくなった時に国籍を選択できる可能性も残したいと考えていたのです。
そして銀座のホステスを卒業し、子育てに専念をする生活を数年送っていました。そんな時、知り合いの議員の方から、政界へ挑戦してみないかと誘ってもらえたのです。障害者と健常者が一緒に働ける場所を作りたいと考えながらも、私自身、アパレルショップでのアルバイトに始まり、上京してからの事務員、ホステス、セミナー講師としての仕事を経験するなかで、障害者に対する設備や制度の至らない点を何度も感じてきました。
ただ、それは実際に利用しない健常者の方が作ったものなので仕方ないことではあると考えていました。そうであれば、実際の当事者である私が多くの障害を持つ方の代弁者として何かしら世の中に働きかけたい、そう思うようになりました。そして悩みましたが、自分の想いを形にするために、政治の道に進むこともひとつの選択肢だと考え、地元北区のためにお役に立てるならと2015年の東京都北区議選への出馬を決意しました。
障害を持つ人とそうでない人が一緒に暮らすための「心のバリアフリー」
私は政治家になったら「心のバリアフリー」を実現したいと考えています。障害を持つ人とそうでない人が一緒に暮らす社会は、想像力とちょっとした気遣いがあれば実現できるんです。
私は東京に出てきて間もない頃、タクシーに乗ると通常10分ほどしかかからない道のりなのに、30分以上時間が経っていることがありました。どうしてこんなに時間がかかったのかを聞くと、「着いたから声をかけたのに反応がなかったから、あたりをグルグル回っていた」と言われてしまったんです。私は乗車時に行き先のメモを見せて、口頭でも伝えていたのですが、私が聴覚障害者であるとは思われていなかったのか、少しさびしい気持ちになりました。
これは一例ですが、同じように少し想像力を欠いただけで、障害者に取っては思いもよらないような危険なことや不便なことがあります。そういったことが起きないように、お互い気づかえるような社会にしたいんです。
特に、2020年には東京オリンピック・パラリンピックが開催されるので、その時までに東京を中心とした日本を、障害者に優しい場所、いわば誰にでも優しい場所にしたいと考えています。
私は耳が聴こえないという言わば、「欠点」がありますが、それは「才能」であると、ある人に言われたことがあります。これからもその才能を活かして、私なりに「心のバリアフリー」を実現する活動に挑戦していきます。
2015.04.20
斉藤 里恵
さいとう りえ|障害者と健常者の心のバリアフリーの実現
元筆談ホステス。障害者と健常者の心のバリアフリーを実現するため、東京都北区にて区議会議員を目指す。
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編集部の伊藤です。秋は悩みの多い季節と言われます。例えば、ファッション。先週真夏日があったと思ったら、今週は台風到来と秋は天気が激しく変わるので、何を着るか悩みますよね。でも、そこで無難なファッションを選ぶと気分が上がらない。ファッションが心理状態に与える影響の大きさは様々な研究が示していますが、実はanother life.にもその実例があるんです。今回は、ファッションをきっかけに自分に自信がついた3名のストーリーをご紹介します。ぜひご覧ください。
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