もっと「気軽に」助け合える社会を目指して。 マイノリティの人々と社会を繋ぐ懸け橋になる。

新宿歌舞伎町のブックカフェで「ホスト書店員」を務めるかたわら、道行く人に車椅子を押してもらいながら日本全国を旅する「HELPUSH(ヘルプッシュ)」の活動を行う寺田ユースケさん。脳性まひにより生まれつき足が不自由でありながら、野球、お笑い芸人、ホストに挑戦する背景には、どのような想いがあるのでしょうか。お話を伺いました。

寺田 ユースケ

てらだ ゆうすけ|元車イス芸人・車イスホスト・ヘルプッシュ 車イスヒッチハイカー
1990年愛知県名古屋市生まれ。関西学院大学卒。生まれつき足が不自由なため車イス生活。大学在学中の英国単身留学で障がいを笑いにしていることに感銘を受け帰国後、車イス芸人になるも夢半ばで挫折。その後、「終電帰り、お酒は飲めない」車イスホストになる。ホスト現役引退後、在籍していたホストクラブを経営する「Smappa!Group」の歌舞伎町ブックセンターでホスト書店員として働きつつ、道ゆく人に「車イスを押してください」と声をかけ進む車イスヒッチハイクで全国を駆け回り、気軽な助け合いの世の中を目指す活動「HELPUSH(ヘルプッシュ)」にも力を注いでいる。著書に「車イスホスト。」(双葉社)がある。 ツイッターは、@HELPUSH_STORY

走れないなら、腕立てをすればいい


愛知県名古屋市の出身です。生まれた時に、脳性まひと診断されました。僕の場合、ハイハイをするようになってから、下半身がうまく動かせないことがわかったようです。とはいえ、僕にとってはそれが自然なこと。やがて立ち上がるようになると、全身を振り子のように揺らして反動を付けて歩くようになりました。

小学校は両親の希望で、特別支援学校ではなく、地元の普通の学校に通いました。自分が他の子たちと違うことに気づき始めると、何をするのも億劫になることもありましたね。4年生で部活に入るときも、野球がしたいのに、無理だと思って諦めようとしました。すると、友達が「一緒に野球をしよう!」と誘ってくれたんです。「ユースケの分は僕たちが走るから一緒にやろう」と。その言葉が、すごく嬉しかったですね。不安より、みんなと野球がしたいという想いが勝って、野球部に入りました。

野球を始めると、自分で言うのもおこがましいのですが、意外にも自分が運動神経が良いことがわかりました。(笑)歩くのは苦手でも、ボールを投げたり、打ったりするのは上手にできます。試合では、打ったら頑張って一塁までたどり着いて、そこから代走を出す形でプレーしました。「体を鍛えたら、他の子たちに勝てる!」と信じて、校庭でみんなが走り込みをする横で、ひたすら腕立てや懸垂をしていましたね。

中学の野球部では、上半身を鍛え上げていたので、まわりのメンバーよりも球速は速いくらいでした。それでも、全然試合には出られないんです。高校も野球部に入りましたが、自分が活躍できないという現実しか見ることができずに挫折してしまいました。その後、障がい者野球に移ったんですが、世界大会の試合を見に行った時に全ての選手が走っているのを見て、やっぱり野球は走れないとダメなんだと痛感しました。

走ることさえできれば大活躍できるのに。悔しくてしかたありませんが、野球の世界で輝けない以上、野球をやる意味を見いだせなくなってしまいました。

車椅子は「かぼちゃの馬車」


高校卒業後は自立するために一人暮らしを決め、兵庫県の大学に進学しました。大学生活を楽しもうとサークルにも入ったのですが、人間関係をうまく築けず、どんどん後ろ向きな気持ちになっていきました。

僕は歩く時に常に「次は右足、次は左足」と集中しているので、友達と歩きながら会話をする余裕がないんです。だから、「あれ?今何の話をしてたんだっけ?」となって、コミュニケーションがうまく取れませんでした。

また、女の子と話す時も、「障がいを含めて全部受けとめてもらえなきゃ付き合えない」と思って、いきなり重い話をしてしまったり。かと思えば、SNS上で知り合った子に対しては、最後まで障がいがあることは言えないんです。せっかく仲良くなってデートの約束をしても、正直に自分のことを話す勇気がなくて、前日にドタキャン。自分でも本当に最低な行為だと思いますが、障がいがあると知ったら嫌がられてしまうんではないかという不安がありました。

それに加え、将来に希望を持てずにいました。誰とも関係を築けず、大学の授業にもほとんど出ず、パチンコや麻雀ばかりする自堕落な生活でした。

そんな様子を見かねてか、家族が車椅子を勧めてくれました。以前も、車椅子を使う話はあったんですが、車椅子に乗ると「障がい者」になってしまうと、ずっと拒否していました。「車椅子に乗ったら負けだ」くらいに思っていました。

とはいえ、八方塞がりだったので、試しに1週間だけ乗ってみることにしました。すると、世界が一気に変わったんです。便利だとわかっていましたが、想像以上だったんです。

それまで、たくさんのエネルギーを使って歩いていたのが、車椅子なららくらく遠くまで行けるし、移動しながら会話だってできます。まるで『シンデレラ』の物語に出てくる「かぼちゃの馬車」のように、車椅子は僕を大変身させました。

繁華街まで足を運んで遊び、おしゃれをして、女の子とのデートも楽しめるようになりました。気がつけば友達もたくさんできていました。性格は明るくなって行動力もグンと上がり、これまでとは打って変わって、いろんなことを試したいと思うようになったんです。

笑いで障がい者のイメージを変えたい


大学4年生の時に、1年間イギリスに留学しました。どうしても将来が不安で健常者に勝る何かがないと、どこの企業にも採用してもらえないんじゃないかと思っていました。そこで「英語を話せるようにならないと!」と。

イギリスでは、いろんな人が気軽に助けてくれたり、車椅子の僕に対して誰も驚いたりしなかったり、色々と学びがありました。何よりも驚いたのは、障がいが笑いのネタになっていたことです。日本だったら大批判されるようなことですが、僕自身は「障がいを笑いにするのは悪いことなのか?」という疑問がありました。

もちろん、ネタにされるのを嫌がる方もいると思いますし、僕自身も過去にバカにされていると感じることはありました。ただ、障がいを笑うのは悪だと決めつけることが、障害者はかわいそうだというイメージを植え付ける原因の一つではないかとも感じていました。

障がいを笑いに変えることができれば、障がいに対するネガティブなイメージも払拭できるのではないか。障がいを持つ僕がネタにするなら、大丈夫なんじゃないか。そう考えて、帰国後に就職するという当初の目標はどこかに消えてしまい、自分でも予想外だったお笑い芸人になるという道へまっしぐらでした。

帰国後、両親からは反対されましたが、3年で芽が出なかったらやめると約束して、お笑い芸人の養成学校に通いました。しかし、うまくはいきませんでした。お笑い芸人としてその世界で活躍を夢見るも、一言で言うと、面白いネタができずに挫折しました。それが全てです。お笑い芸人としての収入がなく、東京で大学生をやっていた妹と一緒に住んでもらっていたのですが、悩んだ末に、お笑い芸人の夢を諦めることにしました。

ホストへの根強い偏見


お笑い芸人をやめようか悩んでいる頃、尊敬する先輩から「人と話す仕事を続けた方がいいよ。ホストをしてみたら?」と、新宿歌舞伎町のホストクラブのオーナーを紹介してもらいました。僕はふたつ返事で「紹介してください!」と勢いで言ったものの、後からホストクラブというだけで怖くなってしまいました。先輩の顔を潰してはいけないと恐る恐る事務所に行きオーナーと話をすると、その場で出勤が決まりました。源氏名は、『アルプスの少女ハイジ』の車椅子の少女にちなんで「クララ」でした。(笑)

いざ自分がホストになったものの、「ホスト=女性を騙すチャラい人」というイメージは拭えません。同じにはなりたくないと思い、周囲の人たちを警戒していました。ホストとして意外かと思われるかも知れませんが、お店が体調のことを考慮してくれて、僕はお酒が飲めずに終電で帰らせてもらうことがほとんどでした。そんな時に、お店のナンバーワンホストの先輩が僕をとても気にかけてくれました。遅くなった日はタクシーで送ってくれたり、ご飯を奢ってくれたり本当に良くしてくれました。「なぜこんなにも良くしてくれるのだろうか。」という疑問はありましたね。

そんなある日、先輩のバースデイイベントでお客様がシャンパンタワーをオーダーされました。それを囲い、お店の従業員全員で祝福をするのですが、先輩が僕をコメンターにしてくれたのです。驚きならも、「僕にいつも優しくしてくれて、ありがとうございます」と言ったら、先輩は、「今まで誰にも言ってなかったけど、実は俺の姉ちゃんも障がいを抱えていて、俺は小さい時から障がい者が周囲にどう見られて、どんな苦労をしてきたのか目にしてきた。俺にはクララの気持ちがわかる。だから、クララには頑張って欲しい!」と言ってくれたんです。気がついたら号泣していました。

障がい者=ネガティブだとか可哀想とイメージで判断して欲しくないって思っている自分が、ホストのみんなのことをホスト=女性を騙す人などイメージだけで判断してしまっていた。目の前の優しささえも疑ってしまうくらい、差別されたくないはずの自分が、差別をしてしまっていると気が付かせてもらいました。


僕らしい働き方とキャリアを考える


自分のことを仲間だと受け入れてくれたホストのみんなに対する偏見をなくしたい。そんな想いで働く一方で、ホストの仕事は夕方から深夜の勤務が中心で、昼夜逆転の生活となり知らず知らずのうちに体に負担がかかっていました。同時に、みんなと同じように働くことはできない、歌舞伎町が僕の活躍できる場所なのか、自分らしい働き方を見つけていかないとこの先はないという漠然とした焦りが生まれ始めました。

せっかくみんなと打ち解けられたのに、どうしたらいいものかと悩むことが日に日に増えていきました。

そんな時にオーナーに、「クララがホストという仕事を本当に理解することでホストへの偏見を取り払えたように、従業員たちもクララと接し、存在を身近に感じ、それぞれが個性を持った人間なのだと知って、障がい者に対する偏見がなくなった。たまたまホストクラブというコミュニティーだっただけで、小さなひとつの社会を変えたんだよ。」とおっしゃっていただきました。

「小さなひとつの社会を変える…もしかすると、僕にできることが見つかったかも知れない!」そう思いました。

同じ時期に、もともとお笑い番組が大好きで、たまたまテレビのヒッチハイク企画や旅番組で、各地の人々と触れ合うのをみていて「これだ!」と思いました。「障がい者やマイノリティーのことを理解してください!」と東京で叫ぶのではなく、「日本全国を旅する旅人になって直接伝えよう!」と。「ヒッチハイカーになろう!」と(笑)

旅をするならテレビの旅番組のように面白くみんなが旅に関わりたいって思ってもらえるような楽しいものにしたいなと考えていました。すると、ふとこれまでのいろいろな体験を思い出しました。

ひとつは、イギリス留学中に、車椅子の車輪が道端の溝にはまったときのことです。抜け出そうと四苦八苦していると、知らない人が僕のそばに来てヒョイって持ち上げてくれました。お願いしたわけでもないのに、すごく自然な感じで助けてくれて、その気軽さが心に残っていたんです。

もうひとつは、日本の駅での出来事です。改札のすぐ先に階段があって、僕は手すりにつかまりながら歩けば階段を降りられるので、駅員さんに車椅子を運んでくれないかとお願いしました。すると、「それは管轄外だからできない」と断られてしまい、エレベーターを探してすごく大回りして帰りました。その時は虚しい気持ちがあったんですが、友人に「それって駅員じゃなきゃだめだったの?」と言われて、ハッとしました。道行く人にお願いすればよかったのに、気軽に助けを求めれない自分に気がつきました。

そんなこれまでの体験が結びついて、車椅子を押してもらいながら全国を旅する企画「HELPUSH(ヘルプッシュ)」を思いつきました。HELPとPUSHをかけ合わせた造語です。全ての人が気軽に助けてと言えて、気軽に後押しができるようになれたらいいなという想いを込めました。

難しく考えずに「ちょっと押してください!」とニコニコ笑顔で話しかけたい。そして押してもらっている最中は、「押してよかったな!」と思ってもらえる楽しく笑える時間にしたい。そんなことだけを考えました。

そうなるとお店に今まで通りに出勤することはできません。みんなと同じようにできないのであれば、ホストをやめてHELPUSHを始めるよう。そんな気持ちをオーナーに話すと、ホストクラブをやめることには反対されました。

お笑い芸人がダメだからホスト、ホストもダメだから旅をする。横飛びの人生ではいけない、しっかり経験を積み上げていった方が良いとアドバイスをもらいました。そして、「みんなと同じことはできなくても、一緒に働くことはできる」と言ってくれました。

ホストクラブのみんなに恩返しをしたいという気持ちがあり、結果的に、1ヶ月のうち3週間はHELPUSHの活動で全国を旅しながら、残り1週間をホストクラブのバックオフィスで働かせてもらえることになりました。

僕のことを想ってくれる会社の人たちに貢献したくて、必死に仕事を覚えようとしました。しかし、いわゆるオフィスワークが苦手で、自分がフィットする場所をなかなか見つけられませんでした。

役に立てないことに悩む中で、ある日、歌舞伎町ブックセンターの「ホスト書店員」として働くことになりました。ホスト書店員は、お店に来たお客さんと話しながら、その人に合う本をお薦めするという本を中心としたコミュニケーションを行う仕事です。これなら自分らしさが出せると思いました。

人と人をつなぎ、後押しできる人間に


現在は、ホストクラブを運営するスマッパグループの「歌舞伎町ブックセンター」でホスト書店員をしながら、時々ホストクラブにも手伝いに行き、道行く人に車椅子を押してもらいながら日本全国を旅する「HELPUSH」の活動を続けています。

「HELPUSH」の活動は、始めて9ヶ月で300人以上が車椅子を押してくれました。予想以上に反響があって、ある時、僕のTwitterに「寺田さんの旅には参加できなかったけど、思い切って別の人を手助けしました」というメッセージが届きました。「また車椅子を押したいです!」なんて言葉もかけてもらえ、輪が広がっているなと実感できてとても嬉しいです。この調子で、2020年の東京オリンピック・パラリンピックまでに、全国を旅したいと思います。

そして僕の自叙伝『車イスホスト。』の出版記念イベントが行われた2017年12月22日に、僕は一つ決意しました。僕を理解し、いつも支えてくれる彼女に、プロポーズをしたんです。「一生、僕の車椅子を押してください」。彼女は微笑んで頷いてくれました。

僕と結婚してくれた妻のおかげで、自分の本心に気がつきました。これまで健常者に負けたくないとか、表舞台に立ってスターになりたいとか思っていた根底には、障がいがあるからすごい人間にならないと結婚できないんじゃないかと不安があったんです。だけど、人生のパートナーと出会えたことで、大きなコンプレックスからやっと解放されました。漠然とメディアに出たいとか有名になりたいと遠くのことばかりを見るのではなく、僕と妻で自分の手の届く半径5メートルの輪を大切にして、「ひとりひとりに直接気持ちを伝えていきたい!」と心から思えるようになりました。

僕が関わった場所場所で、寺田くんのおかげで車椅子の人のことがわかったよとか、ホストのイメージが変わったよと言ってもらえることってとても幸せなことだと思うんです。だからこそ、これから妻と力を合わせて日本全国の様々な場所に輪をつくれる架け橋になれたらいいなと思っております。そしてその小さな輪が集まって大きな輪に出来たら幸せです。

右往左往しながらも前を向いて進んでいたら、結果的に妻という最大の理解者に出会うことができました。今が一番幸せです。明日も今が一番幸せだと言えるよう、1年後も5年後も10年後も、これから先ずっと、今が幸せだと胸を張って言える人生を妻と歩みたいです。

そして僕らの生き方を通して、多様な生きる道があると思っていただけたらこの上なく嬉しいなと思います。今はまだまだ失敗も多いですが、僕の人生で出会った人たちが、出会って良かったなと思ってくれるよう自分に出来る働き方で前に進んでいきたいです。

2018.03.19

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