誰もが役割がある社会にしたい。難病と向き合い、発信する中で見つけた夢。

筋ジストロフィーという難病を抱えながら、シンガーとしライブ活動や講演を行う小澤さん。「心はいつも一人で、生きる意味が分からなかった」という日々を経て、ある曲との出会いで夢を見つけることに。難病と向き合いながら届けるメッセージとは。

小澤 綾子

おざわ あやこ|シンガー
IT系企業で働きながら、「筋ジスと闘い歌う」と掲げ、イベント、学校、病院、老人ホームなどで講演ライブを行い、病気・障害の認知活動を行っている。

20歳で迎えた人生どん底の絶望


千葉県君津市に生まれました。小さい頃から音楽を聴いたり、歌を歌ったりすることが好きでした。

小学4年生頃から、身体に違和感を持ち始めました。走るのが前より遅くなったんです。友達から、歩き方や走り方が変だと言われるようになりました。「何かおかしいな」と思いましたね。

中学生になってから、人と同じことができなくなりました。小学生の時よりさらに足が遅くなりましたし、1000メートルのマラソンを走りきれないんです。周りの大人からは「個人差じゃないか」と言われましたが、腑に落ちませんでした。

毎日マラソンをして、駅伝大会があって、走ることが多い中学でした。周りから、「お前がチームにいると負けるから、入るな」といじめられて。その時に、誰からも手を差し伸べてもらえなくて。辛かったですね。自分はみんなと違うんだ。誰にも分かってもらえないんだ。そう感じました。

顔は笑っているけど、本当は一人で辛くて、心を閉じました。うっすらとですが、「もしかしたら病気なのかもしれない」と思いました。

中学3年の時、初めて病院に行きました。担任の先生が心配して、病院に行くことを勧めてくれたんです。

整形外科の先生からは「個人差ですね」と言われました。少し安心しましたけど、「それは違う」という感覚がありましたね。50メートルを走りきるのがやっとでしたから。自分の中では、何か治らない病気じゃないかと感じて、一人で抱え込みました。安心と不安とが入り混じった気持ちで、病院で泣きました。

高校は自由な校風で、中学より過ごしやすくなりました。体育会的な雰囲気から解放された気がして、やりたいことをやるようになりました。歌うことが好きで、友達とバンドを組んで活動しました。

卒業後、私大のNPOやNGOの経営を学ぶ学科に進みました。ボランティアに関心があって、非営利組織がどう回っているのか知りたいと思いました。自分がどんどん動けなくなっているのが分かるからこそ、人の役に立ちたいと考えていました。

20歳の時、身体の違和感が大きくなっていたので、親に相談して大学病院へ行きました。整形外科で診察をすると「神経の病気かもしれない」と言われ、神経外科に。そこで、次第に筋萎縮と筋力低下が進行していく遺伝性筋疾患「筋ジストロフィー」という病気だと分かりました。

聞いた瞬間は「やっぱりな」と思いました。治らない病気だと、何となく分かっていたんです。でも、受け入れられない部分もありました。20歳で周りは浮かれている歳です。夢があって、結婚しようとかもあって。でも自分は何の夢も描けないんです。

医者から「あと10年で車いすだよ」と言われて、その先は言葉を濁されました。インターネットで調べてみてと言われた気がします。言いにくかったんでしょうね。ちょっとしたら寝たきりになってしまうんだなと思いました。人生どん底の気持ちでした。

色々な遊びに誘われても、検査や入院で断らなきゃいけないことが増えて、「あいつ付き合い悪い」と言われて。そんな風に表面的なことで悪口を言われていたんですが、実は深い所で深い悩みがあって、辛いことがあって、それを誰にも気づいてもらえなくて。ずっと一人でしたね。周りには友達がいて、顔は笑っていたかもしれないけど、心はずっと一人でした。周りのみんなとの違いに絶望し、何となく生きていました。

夢なんて持てない、後ろ向きな就職


病気が分かってからは、心ここにあらずという状況でした。「病気の私の気持ちなんて誰もわからないんだ」と、自分で壁を作ってふさぎ込みました。

診断からしばらくして、リハビリの先生から「そういう態度を続けたら、誰も手を差し伸べてくれないし、死ぬ時はひとりぼっちただよ」と言われ、衝撃を受けました。私は病気なのに、この人はなんてことを言うんだって。

でも、ずっと考えていると、先生が言うことはもしかしたら本当なのかもしれないと感じました。私の周りにそういう人がいたら関わりたくないと思ってしまって。病気だからこそ、動ける時間が短いからこそ、今の時間を大事にして、もっと心を開いて、前を向いていかないといけないんじゃないかな、と自分の中で思えました。だったらやれることを全部やろうと、前向きに考えるようになりました。

車いすになったらどこにも行けないというイメージがあったので、海外旅行にたくさん行きました。大学生の間だけで10カ国近くを回りましたね。

3年生になり、就職活動の時期を迎えました。昔からラジオを聴いていたので、メディアやエンターテイメント業界に憧れていました。

でも、いつまで立っていられるか分からない人が働ける世界ではないんです。何社か受けましたが、ダメでした。ある会社からは、「あなたのこの病気だと採用できない」とはっきり言われたこともありました。「やっぱりだめか」と思いましたね。

障がいや病気を抱える人の役に立ちたいと思って応募した福祉の仕事も不採用でした。身体を使ってハードな仕事なので、難しかったんですね。「やりたいことは何もできないし、夢なんて持っても意味ないんだ」と感じ、働ければ何でもいいと考えるようになりました。何となく就職活動するようになりました。

就職活動をしているうちに、IT企業に興味を持つようになりました。体は動かないけれど、ITを通じて医療や福祉業界などに関わることで、困っている人の役に立てればいいなと思うようになりました。就職活動の結果、外資系IT企業にシステムエンジニアとして入社することになり、周りからは「有名企業に決まっていいね」と言われましたが、もともとの志望業界ではなかったので、複雑な気持ちでした。

夢ができた日


ある時インターネットで筋肉の病気の方のコミュニティをみつけ、その繋がりから、同じ病気を持つえいじさんという方と出会いました。

えいじさんは、私より症状が重く、寝たきりに近い状況でした。それでも、手も動かないのに作詞作曲をしていて、「自分は寝たきりだけど、作った曲を同じ病気の綾子さんにうたってほしい」と言うんです。それがものすごく嬉しかったんですよね。何もできない、夢も持てないと思っていたけど、「自分にもできることがあるのかもしれない」と思えました。

「嬉し涙が止まらない」という彼が作詞した曲は、生きる喜びが詰まっていて、思いが凝縮された素敵な曲でした。この曲を色々な人に伝えたいと思いましたね。作曲を手伝ったシンガーソングライターの山田さんと悩みながら作ってやっと産まれた曲だそうです。この歌を歌うときに、自分の病気や障害のことや思いを話してみました。

話していて、自分が乗り越えられていなかった過去と向き合い、大号泣しました。その後、託された歌を歌うと、みんなが共感してくれたんです。元気をもらったよ、と声をかけてくれる人もいました。ずっとひとりぼっちだと思っていたのが、みんなが味方をしてくれて。私は一人じゃないと思えました。

私にしかできないことがあるというのが嬉しかったですね。病気や障がいを持つ私だから、この語りと歌だから、伝えられることがあったんです。

それまでは、生きる意味が分からないと言って、ずっと泣いていました。でも、その日以来、夢ができました。「この歌をみんなに聴いてもらうこと」です。自分と同じ思いをする人を減らしたい。一人で抱えて悩んでいたからこそ、病気や障がいを知らない人に、歌を通じて伝えたい。そう思えました。それから人生がガラリと変わりました。

私に曲を託した2ヶ月後、えいじさんは亡くなりました。自分も同じようになるのかなと思うと不安だし、すごく落ち込みました。でも、えいじさんのためにも、泣いている暇はないと思いました。病気は進行しているので、動ける間に伝えていかないと。

それからは、歌と語りのライブを中心に、活動を始めました。筋ジストロフィーという病気がある。治らない病気と障害に絶望もするときもあったけど、今、夢を描いて毎日希望を持って生きている。そんなメッセージを伝えて回りました。

みんなが役割を持つ社会


現在は、IT企業で働きながら、個人で歌と語りをする講演ライブ活動をしています。

システムエンジニアからプロジェクトマネージャーに変わり、責任も大きくなりましたが、人との関わりが増え、仕事が楽しくなりました。周りに障がいを持ちながら活躍する方も多く、バリアフリーな環境ですね。

講演ライブの活動は、学校や老人ホームから始め、「チャレンジドフェスティバル」という障がいを持ったアーティストが活躍するイベントにも出るようになりました。歌い続けることで、業界を問わず声をかけてもらえるようになり、NPOの勉強会や震災復興ライブ、障がい者雇用に関心のある企業での講演も行っています。

最近では、歌以外にも活動が広がっています。障がいを持つ人でもお洒落を楽しめるようにデザインされたブランドで、ファッションショーのモデルを務めたり、映画監督とのご縁から、ショートフィルムに出演したりもしています。

また、発信するメッセージも少しずつ変わりました。ライブを始めたばかりの時は、自分の声を聴いてほしくて、語ったり、歌ったりしていました。病気を理解されないことが辛かったから、「障がいをもっている人の存在を知ってもらい」という思いを伝えていました。それが最近では「誰でも、何でもできる」というメッセージで活動しています。

活動を通じて、自分ができないと思っていたことをできるようになり、自信がついたことがキッカケです。大きな場所で歌えたり、クラウドファンディングで支援をうけてCDを作ってコンサートをしたり。主催したイベントでは、障がいを持つスタッフが100人以上協力してくれて、テレビや新聞に取り上げてもらいました。数年前の自分だったら「やりたいけど、無理なんじゃないか」と思っていたことが、どんどん実現できるようになったんです。

最近は、本当の自分の夢を語れるようになりました。障がいを持っていても、難病があっても、みんなが役割を持つ社会にしたいと思うんです。生きている意味がないと思っていた自分はもういないです。自分は一人ではなくて、仲間がいっぱいいるんだと思えるようになりましたね。

他の誰かが何か新しいことを始めるのを見ることがやりがいです。ライブに関わった人が、新しい目標を見つけていくのがすごく嬉しいですね。

今までは、自分にフォーカスが当たる活動が多かったんですが、これからは、みんなに、世の中にフォーカスが当たる活動をしていきたいです。発信することを続けながら、みんなが活躍できる仕組みを作りたいですね。誰もが役割がある。誰もが夢を持てる。そこにバリアはないんです。

2016.02.18

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