脚一本程度で人生は終わらない。
世界で唯一の股義足ランナーが走り続ける理由。

左股関節離断を経験し、世界で唯一の「股義足(こぎそく)」を履いたランナーとして活動しながら、日本IBMにてビジネスの最前線でも活躍する野田さん。30歳の時に事故で片脚を失ってからも、なぜ走り続けるのか。お話を伺いました。

野田 隼平

のだ じゅんぺい|システムエンジニア、股義足ランナー
日本IBM株式会社GBS事業所属。また、プライベートでは左脚に「股義足(こぎそく)」と呼ばれる義足をつけて走る。国際パラリンピック委員会公認大会に参加し、世界ランキング対象選手としての資格も有する(2014年ランキング33位)。

違う価値観の人と触れ合うのが楽しい


私は大阪府牧方市で育ちました。運動が好きで、小学生の時から野球に夢中になりました。ただ、中学生の頃には現実が見えてきて、プロ野球選手になろうとは思えませんでしたが。腰を痛めてしまい、高校では野球はできませんでした。それでも、大学では部活ではなくサークルで野球をしていました。

高校時代は理系科目の方が得意で、世の中で注目されていた環境問題に興味を持ったこともあり、大学では環境工学を専攻。大学院まで進み、廃棄物処理に関して研究しました。

ただ、就職活動の時期になると、私の興味はITやシステムに移っていました。世の中ではインターネットが普及し始めていて、ITやシステムが世の中を動かしているように感じられたんです。システムの仕組みを知り、動かせるようになりたいと考え、IT企業を志望しました。

その中で、直観的に合うと感じた、日本IBMに入社を決めました。面接で社員と話している時に立場の違いによる壁を感じず、いわゆる「組織のフラットさ」に居心地が良さそうだと感じたのかもしれません。

入社してからは、システムエンジニアとして働きました。チームでひとつの目標を達成するのが好きだったこともあり、仕事は楽しかったですね。数年経つと、海外のメンバーとの協業にも携わるようになりました。中国のプロジェクトチームとの仕事では、単身中国に行き、100人ほどの中国人メンバーと一緒に働きました。

自分とは違う背景、価値観を持つ人と働くのは面白かったですね。変な状況を楽しめる性格だったのか、大変なことが起きても、嫌だとは思わなかったんです。また、社会人になってから、ひとりで海外へ旅に出るようになっていたので、漠然と海外の人と関わり続けたいと考えていました。

事故に遭って不運だけど、不幸ではない


ところが、仕事も生活も順調だった30歳のある日、電車に轢かれる事故に遭いました。気づいた時にはベッドの上で、全身には強い痛み。数日後、左脚が太ももから切断されていると聞きました。

左脚が無いと分かった瞬間は、落ち込むというよりも、単純に「この先の人生、どうしようかな?」という気持ちでしたね。平均寿命から考えて50年ほどある残りの時間を、左脚無しでどう生きていこうかと。ただ、とにかく早く仕事に戻りたいとは思っていました。

事故に遭って数週間後、左脚の残った太ももを切断して股関節離断するかどうかの判断を迫られました。残った太ももの感染が治まらず、このままだと感染症が進行するリスクが高い。一方で、切断した場合は、義足を実用的に使いこなすのは難しい。

判断を委ねられた私は、脚を落としてもらうことに決めました。「脚を落としたほうが良い」と先生が言っているように感じられ、先生を信じたんです。また、義足に関して調べる中で、股関節から切断しても、「股義足」を履いて走った人が過去にいたと知り、走った人がいるなら、少なくとも歩けるだろうと考えていました。

それでも、入院中、急激に落ち込む日もありました。世の中から置いていかれてしまったように感じて、テレビを見ても何も自分ごとに捉えられない。「どうしてちゃんと死ねずに、生き残ってしまったのか?」と思うことさえありました。

しかし、私には、面会時間の限り一緒にいてくれる家族や、会いに来ようとしてくれる友達がいました。支えてくれる家族、友達のおかげで、「生き残ったからジタバタしてもしょうがない、生きよう」と思えました。「事故に遭って不運だけど、不幸ではない」と。

義足でも走れるという実感


右脚からリハビリを始め、事故から2ヶ月経つ頃には、松葉杖を使って一時帰宅できるほどになりました。また、友人から、私と同じく股関節を離断して、股義足を履いている人を紹介してもらう機会がありました。周りに義足の人はいなかったので、同じ状況の人の話を聞けるのは嬉しかったですね。

初めて見た股義足を使って歩く動きは、想像していたよりもずっと自然でした。さらに、その人からは、義肢装具製作とリハビリを行う「鉄道弘済会義肢装具サポートセンター」や、脚切断者スポーツクラブには、数多くの義足仲間がいると聞きました。いきいきと人生を送っている義足仲間の話を聞き、この先の人生は決して暗いものではなく、自分次第で明るいものにもできること、自分はひとりではないことを知りました。

そして、事故から3ヶ月ほどで別の病院に移り、左脚のリハビリを始めました。初めて股義足を履いた時は、想像以上の難しさに驚きました。それでも、歩けるようになるため、毎日トレーニングを重ねていきました。

ところが、目標にしていた職場復帰の時期を過ぎても、杖なしで歩けるようにはなりませんでした。焦りました。このまま杖なしで歩けるまでリハビリを続けるべきか、ひとまず杖をついて歩くことにして復帰するべきか、兄に相談しました。

答えは「一生を左右することだから、リハビリを続けたほうがいい」でした。

そこで、自分の脚だけで歩けるようになるまでは続けようと決め、鉄道弘済会義肢装具サポートセンターに転院しました。

転院の初日、私が杖をついて歩いている姿を見て、理学療法士の先生はすぐに問題を見抜きました。能力的には杖なしで歩けるレベルに達しているのに、恐怖心から杖に頼っているだけだと。園芸用の細い支柱を、杖代わりにして歩くように言われました。支柱では体重を支えることなどできません。

実際に歩いてみると、杖は地面に触れる程度。それでも、転ばずに歩けました。何も持たなくても歩ける。この瞬間、入院生活を終えて、日常に戻るための訓練が始まりました。

また、ある時、切断者スポーツクラブの練習会を見学していると、義肢装具士の先生に「走ってみなよ」と言われました。何気ない一言で、私自身走れるとも、走りたいとも思っていませんでした。ただ、失敗したからといって何があるわけでもないので、試してみることにしました。

すると、走れたんです。実際、走ったと言えるほどの距離も行かずに転びました。でも、その時直感的に「走れる」と感じました。

「諦めてしまっている人」に見つけてほしい


そして、事故から半年で職場に復帰しました。どうなるかまったく先も見えなかったところから、家族や友人、病院の人など様々な人に支えてもらい、また自分の脚で踏み出せるようになりました。

仕事では、希望が通り以前と同じプロジェクトで働けることになりました。復帰半年後には大阪から横浜に転勤となり、中国出張にも行くほどで、事故前と変わらない日常を取り戻しました。

事故によって、「できたことができなくなる」のが嫌で、「物理的に不可能なこと以外は諦めない」と決めていたので、取り戻せるものは全て取り戻そうと考えていました。そのひとつが、走ることでした。「走れる」という感覚があったので、諦めたくなかったんです。そこで、仕事に復帰した翌年には、走るトレーニングを始めました。

また、股関節を離断して股義足を履いている人間の中で、私はだいぶ歩ける方だったので、鉄道弘済会義肢装具サポートセンターで、脚を失った人向けに話もするようになりました。私は運良く弘済会を知り、同じ症状の人と出会うことができた。そのおかげで、先の人生への可能性を見つけられた。しかし、そうでない人がたくさんいるのも事実で、孤独を感じている人が多くいる。昔の自分もそうなる可能性があったわけです。

「人生を諦める必要はない」と感じてもらいたい。そのために、できるだけ多くの人に私のことを見つけてもらいたい。片脚を失っても、歩けるどころか、走って、普通に仕事をしている人間もいる。自分を知ってもらうことで、影響を与えられる。そう考えるようになりました。

知人に誘われて、テレビ番組の「義足のファッションショー」企画に出てから、その想いは、一層強くなりました。ファッションショーのメンバーが番組の視聴者に伝えたかったのは、「脚がないって、それだけじゃん」ということ。確かに不自由なことはあるけど、それ以上のことではない。全てを諦める必要はないんだと。

それからは、自分の生き方を知ってもらうために、ブログを始め、世の中に残る記録を作るために陸上の公式大会に出ることにしました。公式記録が残れば、股義足で走っている人間がいる証明になると。

悩みを抱えても生きていける


現在は、日本IBMでシステムエンジニアとして働きながら、休日に陸上のトレーニングをしています。

仕事も、走ることも、「続けること」が大切。知るかぎりでは、私は世界で唯一の股義足陸上選手です。また、私と同じ症状で働いている人は、あまり多くいません。自分の姿を通じて、「諦めなくてもいい」ということを伝えたいんです。

確かに、障害を持ったらできなくなることがあります。脚を失った多くの人は、走ることもできないと考え、諦めてしまう。でも、そうではない。それを、自分の身体を使って世界に証明し続けたいんです。

走ること以外にも言えることで、「諦めていたことを、諦めなくてもいいんだ」と思ってもらいたいんです。

仕事も同じです。日本IBMでは、障害を持っていても、いい意味で遠慮がありません。今も、お客様の元に常駐していますし、海外のメンバーとの調整だって普通にします。昨年は数ヶ月間フィリピンのセブに滞在していました。脚を失う前と同じように、異文化に触れて楽しむことができています。

影響を与えたいのは、障害を持つ人に限りません。私は、片脚がないという分かりやすい問題を抱えています。しかし、特別大きな悩みだとは思っていません。悩みの種類も感じ方も人それぞれで、全く違った形で自分より大きな悩みを抱えている人もいると思います。

人間、誰しも、悩みなど何かを抱えて生きているもの。ただ、何かを抱えながらでも、それなりに生きていける。そのことを、死に直面し、全く先が見えない状態からでも立ち上がった経験や、片脚を失っても走り続け、働き続ける自分の生き方を通して、伝えていきたいんです。

まだできていないことは、股義足で走るふたり目を作ること。少なくとも、その目標を達成して、「途切れない」確信を持てるまで、私は走り続けます。

2015.12.10

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