二極化しがちな世界だからこそ会話を大事に。
異なる考え方の橋渡しを担いたい。

オンラインニュースサイト・ハフポスト日本版編集長の竹下さん。マイノリティとして過ごした学生時代の経験や、アメリカの大学への留学を通じて、人と人が理解し合うきっかけとして「会話」を大事にしたいと考えるようになりました。その背景には何があったのか。お話を伺いました。

竹下 隆一郎

たけした りゅういちろう|ハフポスト日本版編集長
新卒で朝日新聞社に入社。九州で地方の取材や、経済部で金融庁や流通業界などの取材を経験。スタンフォード大学客員研究員を経て、現在はハフポスト日本版編集長として、メディアの新たな発展に向けて尽力している。近著に「内向的な人のためのスタンフォード流ピンポイント人脈術」(ハフポストブックス / ディスカヴァー・トゥエンティワン刊)

伝える楽しさを知る


千葉県に生まれて、父親の仕事の都合で3歳からアメリカで育ちました。

小学生の頃は学校で「目が細い」「肌が黄色い」と見た目で差別を受け、仲間外れにされました。自分自身も髪や目の色が違う周りの子がこわくて、あまり積極的に人と関われなかったです。

野球が好きだったので小学校3年生からリトルリーグに入ったんですが、プレー中はコミュニケーションをとれても、練習が終わると途端に喋れなくなってしまうんです。チームメイトが帰り道にホットドッグを食べながら、くだらない話で盛り上がっている中、ずっと黙っていました。

ある日の授業で、自分の好きなものを持って行き、クラスのみんなの前で発表する機会があったんです。僕はある日本のお菓子が好きだったので、それを紹介しようと思いました。でも、現物を見せて「僕はこれが好きです」と言っても伝わらないだろうと思っていました。日本だとポピュラーなお菓子でしたが、アメリカだと知らない人も多い中で、どうやったら味や食感が伝わるのか、自分なりに考えました。

考えた末、アメリカのチョコとプレッツェルを持って行き、「2つを組み合わせたものがこのお菓子です」と紹介したんです。そうしたら「へー、そんなお菓子があるんだ」「面白いじゃん」と良い反応が多くて、教室の空気が盛り上がったんですね。

ただお菓子を見せただけじゃ、上手く伝わらなかったかもしれません。自分なりに工夫して紹介したことが、みんなに伝わってすごくうれしかったです。

死ぬ時に後悔しない選択をしたい


中学1年生の時、母が突然、体調不良で入院しました。検査の結果、がんとわかり、母は入院しました。

元気だった母が急に病気になって、どこか現実味がありませんでした。「また元気になるだろう」と何の疑いもなく信じていました。1年ほど闘病生活が続いて退院したのですが、退院を迎えたその日に、体調が急変。病院に戻り、集中治療室に入りました。

僕は別室に通されて、カウンセラーの先生から人の「死」について説明を受けました。

説明を聞きながら「ああ、母は本当に死んでしまうのか」と感じました。視界が歪んで、薄い壁を一枚隔てたみたいに、先生の声がどんどん遠くなっていくような気がしました。苦しくて、母がいなくなるなんて信じられない、信じたくない気持ちでいっぱいでした。

母はそのまま回復せず、息を引き取りました。母が亡くなって、今まで自分から遠いものに感じていた死が、急にリアルなものとして感じられるようになりました。健康で日常を送れる今の状態は、決して当たり前ではないんだと強く思いました。

自分だっていつ死ぬかわからない、だからこそ後悔しない選択を重ねて、自分の人生を生きようと決意しました。

異なる価値観を認め合える社会にしたい


母の死後、帰国して日本の中学校に転入しました。異国の地で1人で子育てするのは大変だとの父が判断したためです。海外にいた頃はアジア人差別がありましたが、日本に戻っても帰国子女としてのマイノリティな暮らしが待っていました。英語の授業で教科書の音読をする時、「先生は発音が悪いから、竹下くんに読んでもらいましょう」と嫌味っぽく言われたり、クラスのみんなに発音をからかわれたり、居心地が悪かったです。

また、朝礼に出席した時、母の形見のペンダントをしていたら、先生に「校則違反だ」「アクセサリーなど不良がするものだ」と頭ごなしに怒られたんです。

「それは違う」と思いました。規律は心の乱れを防ぐ手段としてあるのに、規律を守らせるのが目的になったら本末転倒だからです。一律で「これはだめだ」と判断するのではなく、人には個別の事情があるのだから、ルールと合わない時もあるのを前提として話し合うべきだと思いました。

もやもやとした思いを抱えながら学校生活を送りました。高校進学後も、マイノリティで居心地の悪い現実から逃避したくて、何も考えずただぼんやりして、ろくに勉強しませんでした。でも、2年生も終わりに差し掛かると周りが大学受験ムードになって、さすがにこのままではまずいなと思い、改めて自分の将来について考えました。

自分が中高生時代、ちょうど日本で大きなテロ事件が起こったんです。毎日のようにニュースで取り扱われて、凄惨な事件の詳細が浮き彫りになるにつれ、社会全体に閉塞感が漂っていきました。異なる意見を持つ人が、その人なりの正義を行動に移した結果、最終的にテロという最悪の形になってしまったんだと思い、テロが起きるのを事前に防ぐ社会の仕組み作りができたら、と考えるようになりました。

テロを防ぐためには、いろいろな考え方や価値観を持つ人がいる中で、それを認め合って、意見を調整していくような役割が必要です。自分がその役割を担いたい、そのために社会や経済を学びたい。そんな思いから大学では法学部の政治学科を選択しました。

大学ではコミュニティを増やし、価値観を広げたいと思っていろいろサークルを立ち上げました。特に力を入れていたのは国際交流サークルです。しかし、そこでも会話の中で「アジア人はこうだ」と決めつけられて馬鹿にされたり、日本の学生もアジア人より白人の留学生と仲良くしたがるような風潮がありました。生まれた国による差別や、白人至上主義を感じましたね。

大学3年生の時、ドキュメンタリーを作るサークルに入り、国際交流サークルで知り合った韓国の友達をメインにドキュメンタリーを撮りました。自分もマイノリティとして差別を受けてきたので、差別に対する問題意識を伝えられたらと思ったんです。

映像を通して自分の考えや思いを発信するのに熱中している中、情報公開法が施行されました。この法律は、行政機関が持っている情報に一般人がアクセスできるように定めたもので、昔から疑問に思っていた教育機関のあり方に関する文章も公開される対象になっていました。そこで、調べてみようと思ってすぐに情報公開の申請をしたんです。

様々な情報に触れる中で「雑誌やテレビで伝えられていない情報がこんなにあるのか」と驚きました。日本には国に関する膨大な情報があるのに、全然表に出ていないと気づいたんです。

正確な情報をきちんと表に出して、その上でそれぞれの人が意見を持って議論していくのが大事だと思いました。そこから、メディアを通じてわかりやすく世の中に情報を発信する、報道関係の仕事に興味を持ちました。就職活動ではメガネ業界を含めて幅広く業界を受けましたが、最終的に大手新聞社に入社しました。

アメリカ留学で見つけたメディアのあるべき姿


入社してから、最初の5年間は警察取材を中心として、裁判や少年犯罪を取材しました。その間に一度、佐賀の支局に配属されました。そこで支局長から、佐賀のある地域に400以上ある石像を取り上げるよう言われました。支局長が飲みの席で地元の人と盛り上がった案件で、ほぼノープランのまま僕に振られたんです。

どうしようか考えましたが、支局長や地元の人とも話し合って、400体以上ある石像のそれぞれにまつわるエピソードを市民の方に書いてもらう連載を始めました。地元で愛される石像を、地元に根付いた人の言葉で表現してもらおうと思ったんです。

連載が続くうちにどんどん話題になって、石像を巡るツアーが開催されるようになりました。必ずしも自分が記事を書かなくても、企画を考えてプロデュースするのも面白いなと思いました。入社2-3年で、自分の中で「新聞記者」の再定義をしたのです。

書くという行為にについて、今後は、個人がやるのではなく、「チームでやる」ことになる、という点を意識するようになりましたね。近い未来では、本や記事など様々な文章は1人で書かれるものではなくなり、「記者」「作家」という概念もなくなるのだろうと考えていました。

その後、経済部に異動して5年ほどいろいろな企業を取材しました。取材を通じて、どの企業も新規事業に目を向けているなと気づいたんです。時代の変遷とともに変化や挑戦の意識が日本経済全体にあるのを肌で感じる中で、メディアも情報の伝え方や内容を変化させていかなければと感じるようになりました。

ちょうどその頃、自社でも新規事業を立ち上げる一環として、メディアの新しい投資先や新しいビジネスを海外で勉強しようとする動きがありました。その流れに乗って、海外の技術を学ぶため、アメリカの大学に留学しました。

講義や他の学生との交流は刺激的で興味深かったです。一番いいなと思ったのは、みんな相手の年齢や肩書きに関係なく、自分の意見をフラットに話し合ってコミュニケーションをとっていた点です。

年齢、性別、生まれた国に関係なく、みんな自分が何を考えて何を大事にしていきたいのか深いところでわかっていて、それを言語化して他人に伝えられる軸を持っていました。それがすごいと思ったし、自分もそうなりたいと思いました。日本では目の前の仕事をこなすのに必死になっていましたが、留学して改めて自分の内面を見つめ直すことの大切さを感じたんです。

出会った人たちが携わっている会社においても、存在意義が言語化されていました。「お客様のために」といった曖昧な言葉ではなく、その会社が持つ指針、存在する意味が「世界中の情報を整理する」などの具体的な言葉で表現され、明確に定まっていました。理想の社会像、助けたい人物像を言語化し、具体的なメッセージを発信する大切さを感じました。自分も明確に実現したい社会について考え、発信していこうと思うようになったんです。

1年ほど勉強して日本に戻ってきた後、ビジネス用のSNSのプロフィールに書いてあった「メディアを通じて、多様な価値観を認め合う社会を作っていきたい」「人工知能と人間はどちらが編集長にふさわしいのか」という文言を読んで共感してくれたアメリカのオンラインニュースサイトであるハフポストから声がかかったんです。

ハフポストは、他独自の取材や寄稿、動画などで構成されているサイトです。異なる価値観を持つ人同士に会話を生み出したり、個人が生きやすくなるコンテンツを作っていて訪問者数も多く、社会からの注目度や影響力が高い上、記事に対して多くの意見が寄せられ、活発な議論が展開されます。ここでなら自分のやりたいことができると思い、36歳でハフポストの日本版編集長に就任しました。

不安よりもわくわくした気持ちのほうが大きかったですね。どういうメディアにしていくか意識を共有し、組織として団結するためにも、社員と積極的にコミュニケーションを取りました。意識を共有することで、自分がどういった意図で指示や提案をしているか理解してもらいやすくなりましたし、社員からもアイディアが積極的に出るようになって、いい循環がうまれました。

会話を生み出す橋渡しをしたい


今はハフポスト日本版編集長として、組織づくりやメディアの全体戦略づくりを担当しています。

ハフポストでは様々なニュースの発信以外にも、取材先や大事にしているテーマを本にする出版事業やネットの生放送番組の制作などを行っており、新しい発信手段も模索しています。

ハフポストが目指すのは、問題を提起することで情報を受け取った人たちが意見を交換する「会話」が生まれる状況づくりです。1つの偏ったスタンスで情報提供するのではなく、いくつかのポイントを提示してみんなが会話をしやすいよう、論点を整理するようにしています。

例えば、アニメにおけるヒロインの描かれ方を通じ、女性の社会進出について考察した記事。アニメと社会の動向を関連させれば、政治に興味が薄い若い世代にも、興味を持ってもらいやすくなります。会話が生まれる論点をできるだけ柔軟にし、様々な角度から出していきたいと考えながら、記事を提供しています。議論や対話は、結論を求めたり、相手を説得したりしようとする「意図」を感じますが、会話はゴールがなく、話し合っていること自体に価値があります。

会話が生まれれば、これまで変えられないと思っていた状況や環境も変えられるのでは思っています。

例えば、子育て中のある女性は、自分の役割を放棄するような感じがしてしまい、これまで子どものお迎えを旦那さんに頼めなかったそうです。しかし、勇気を出して「今日は私の代わりに子どもを迎えに行ってほしい」と言ってみたら、旦那さんは普通に「いいよ」と言ってくれた。女性は、その日は早めに会社を上がって飲みに行けてリフレッシュできたとうれしそうに笑っていました。

こんな風に、自分ではハードルが高いと感じていても、会話してみたらなんてことなかった、みたいな話っていっぱいあると思うんです。その一歩を踏み出すお手伝いができたらうれしいですね。

今後は、ハフポストに学校のような機能を持たせたいと思っています。社会情勢やいろいろなものの見方を学び、同じことを学ぶ同級生と知り合えるイメージです。そのために、読者同士が交流できるイベントをどんどん開催したいと考えています。

会話を通じて性の違い、年齢の違い、環境の違い、宗教の違い、生まれる国の違いなどを超える橋渡しができたらと思っています。

価値観を根本から理解するのが難しくても、新しい意見を知り、関心を向けるきっかけとして、「会話」を生み出す。そんな機会をメディアを通じて提供していきたいです。

2019.08.12

竹下 隆一郎

たけした りゅういちろう|ハフポスト日本版編集長
新卒で朝日新聞社に入社。九州で地方の取材や、経済部で金融庁や流通業界などの取材を経験。スタンフォード大学客員研究員を経て、現在はハフポスト日本版編集長として、メディアの新たな発展に向けて尽力している。近著に「内向的な人のためのスタンフォード流ピンポイント人脈術」(ハフポストブックス / ディスカヴァー・トゥエンティワン刊)

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