外国人を助けたいと思う人を増やしたい!言葉が分からなくても地元の人ができること。
京都で訪日外国人向けのボランティアガイドツアー「Kyoto Free Travel」を運営する山内さん。「言葉が分からなくても、地元の人であれば外国人観光客の手助けになれる」と考える背景には、どのような体験があったのか。お話を伺いました。
山内 光雅
やまうち みつまさ|京都で訪日外国人の手助けをする
京都で訪日外国人向けのボランティアガイドツアーKyoto Free Travelを運営する。
一言で外国に来た人を救う言葉
僕は滋賀県で生まれました。小さな頃から人前でしゃべるのが苦手で、人見知りな性格でした。高校2年生の時、部活を辞めるためにみんなの前で挨拶をすると、うまく喋れず周りに笑われてしまい、人前で喋るのが一層嫌になっていきましたね。
高校卒業後は、周りが行くからと大学進学を決め、友達とサークルを作ったりして過ごしていました。しかし、気づけば打ち込むものもなく2回生も終わりに近づいていて、「大学で何をしてきたんだろう?」と焦りを感じてしまったんです。
そこで、何かを変えるため、春休みの1ヶ月間を使ってニュージーランドに行くことにしました。
留学中、ニュージーランド人の友達があまりにもビリヤードがうまかったので、「どうやったらそんなにうまくなれるの?」と聞いたことがありました。すると、彼は質問の意図が全く分からないといった顔をしながら、「僕が上達したやり方はあるけど、それが君に当てはまるかは分からないから、自分で考えて試した方が良いよ」と言ってきたんです。
この時、分からないことがあったらまずは聞く環境で育った僕とは、考え方が全く違うと感じ、様々な価値観の人と触れ合えるのは面白いと思いましたね。
ただ、留学生活中は日本人といることが多く、これじゃ意味がないと最後の数日間は一人旅に出ることにしました。ところが、英語が不自由だったので、結局孤独を感じていました。
そしてある朝、海辺の道を歩いていると向かいから老夫婦が歩いてくるのが見え、僕は声をかけられないように、下を向いてすれ違うことにしました。しかし、「グッドモーニング」と声をかけられたんです。一瞬誰に話しかけているのか分からなかったけど、それは明らかに僕にかけられた声でした。
そして顔を上げると世界一の笑顔が見え、一気に心が救われた気がしました。何気ない一言で、「この国に迎えてもらえている、認められているんだ」と感じることができたんです。
世界中の人に日本を好きになってもらいたい
帰国してからは、英語を勉強して日本に来た外国人を助けたいと思い、大学で留学生の日本での生活をサポートするチューターになりました。しかし、他のチューターと比べてあまりにも英語ができないことに劣等感を感じてしまい、すぐに辞めてしまいました。
英語を勉強するためにも、1年位は留学に行きたい気持ちもありましたが、周りが就職活動を始めたことに流され、私も就職活動を始めました。
特にやりたいことは定まっていなく、いろいろな企業を見ていく内に、「来たれ戦国武将」と、採用サイトのエントリーボタンに書かれた企業と出会いました。
面白そうな企業だと思って詳細を見てみると、「外国人技能実習制度」を利用して日本に来る外国人の支援をしていて、事業内容も魅力的でした。また、「世界中の人に日本を好きになってもらう」と書かれていて、その言葉にも惹かれて選考を受けることにしたんです。
すると、思った通り社長や社員、選考を受けに来ている学生もみんな個性があり、どうしてもこの会社に行きたいと思うようになっていきました。最終選考では苦手だった人前でのプレゼンもありましたが、自分の中では会心の出来で内定をもらうことができ、初めて人前で話すのが楽しいと感じた瞬間でもありました。
ただ、入社直前に新卒で人が入る分、社内では希望退職者を募っていることを知ってショックを受けてしまいました。社員を大切にしない会社なのかと、一気に冷めてしまったんです。
そんな気持ちで入社ため仕事は全くできず、怒られてばかりでした。「他の人に迷惑がかかるから何もするな」と言われる程で、本気で会社を辞めようかと思うこともありました。
有限である人生を後悔しないために
ただ、2年目になり部署を移動して上司や環境が変わると、僕自身の仕事に対する取り組みも変わって、チームの相性も良く仕事が楽しくなっていきました。どれだけ時間がかかっても、何事も自分で考えさせてくれる上司で、仕事とは「自分で考えて提案していくもの」だと分からせてくれたんです。
また、セミナーも行うようになり、苦手なプレゼンを克服できるチャンスだと思い、自ら手をあげ会社紹介を担当することにしました。あんなに苦手なプレゼンでしたが、事前に100回位練習していけば緊張せずに話すことができ、人前で喋ること、プレゼンを行うことが好きになっていきました。
僕がプレゼンしてきっかけを作り、後輩が営業して話を決めして、上司が全体を見るといった具合に、非常にバランスの良いチームで、仕事は楽しくて仕方がなかったですね。
ところが、3年目になるとチームのメンバーも変わり、仕事に対しても同じことの繰り返しで、マンネリを感じるようになってしまいました。
そんな矢先、社長が亡くなりました。とても元気だったのに、年末の休みを挟んでの突然の出来事でした。不意を突かれた出来事だったので、何がなんだか分からない気持ちでしたが、「人生は有限であること」を初めて自分事として実感し、後悔しない人生を送りたいと考えるようになったんです。
そこで、3年働いた会社を辞め、昔から憧れていた長期留学に行くことに決めました。ちょうど人材企業が募集していた、海外で研修を受けながら給与まで支給される「グローバル人材プログラム」を見つけ、申し込むことにしたんです。
1年ほどは海外で過ごして英語の力を付けようと考えていて、その先のことは、留学中に何かやりたいことが見つかるだろうと考えていました。
言葉が分からない人だって助けることができる
日本での研修の後、香港に行き語学研修を行いました。大変な時に会社を辞めた以上頑張らなければと思っていたので、朝から晩まで今までにないくらい必死に勉強しました。そして、3ヶ月半の研修の後はシンガポールの旅行代理店で研修生として4ヶ月働き、さらに2ヶ月間自費でフィリピンに語学留学も行くことにしましたが、日本に戻って何をやるかは見つけることができませんでした。
ただ、お金も尽きてしまったこともあり、帰国してからは医療関係者に特化した人材紹介企業で働くことにしました。フィリピンでは看護師の資格を取っても働き口がないのに対して、日本では看護師不足の現状があり、そういった課題にアプローチできるのではないかと思ったんです。また、漠然と30歳まで働いたら起業したいとも考えていました。
しかし、仕事にやりがいはあまり感じることができず、小さなことでもいいので、自分の力で社会に貢献できることをしたいと思っていました。
そんなある日、サラリーマンが道で困っている外国人を脇目に通り過ぎる光景を目の当たりにし、私はすぐその外国人に話しかけました。そのメキシコ人は英語は分からない上に、地図も日本語のものしか持っていませんでした。ただ、行きたかった場所を地図で指してもらうと、それは目の前にあり、例え言葉が分からなくても、助けて上げることができたんです。
思い返すと、自分が海外で楽しく生活できたのは、現地の人と知り合い優しくしてもらえたからで、それだけで、海外での体験はぐっと楽しくなることを知っていました。そこで、海外の人に地元を紹介するボランティア活動をすることにしたんです。
すると、留学経験のある人たちなど、手伝いたいと言ってくれる人も出てきて、毎週末はフリーツアーの看板を持って、街で外国人の案内をするようになっていきました。
困っている外国人を助けたいと思う人に増えて欲しい
そして2015年4月には働いていた会社を辞め、ボランティアツアーの「Kyoto Free Travel」一本で生活をしていくことに決めました。
ツアーを続けていく内に、些細なことでも感謝してもらえることが嬉しかったんですよね。ある時は、「花見に混ざりたいけど、外国人だから・・・」と躊躇していた観光客を誘って、公園で花見をしていた地元の人に混じったのですが、「日本で一番の思い出が出きた」と喜んでもらえました。
日本に暮らす僕らとしては何でもない「ちょっとしたこと」をするだけで、こんなにも喜んでもらえるのが僕自身も嬉しいんです。
2015年の2月には、何百人もの前で自分の夢をプレゼンテーションする「ドリプラ京都」にも参加して、共感大賞をもらうことができ、独立をするならこのタイミングだという思いもありました。
これからは、より多くの人を巻き込んでいき、困っている外国人を助けたいと思う人が1人でも増えてくれたら良いですね。英語ができなくても、日本人として手助けできることはたくさんありますから。
事業としてどうやって収益を上げていくかは、今まさに考えているところで、語学を教えられる人と学びたい人を繋げるサービスや、外国人と日本人が気軽に交流できるシェアハウスも始めました。
昔は、社会貢献なんて言葉は陳腐だと思っていました。しかし、自分がなぜこのガイドを続けているのか突き詰めて考えてみると、やっぱり自分のできる形で社会に貢献したいからなんですよね。これからも人生に後悔しないよう、そして少しでも世の中の役に立てるように生きていきたいです。
2015.04.21