年齢は関係ない、スタートは気付いたその瞬間。困難に直面して見つけた、人生のミッション。

肉親や友人の死に直面し、自分の夢や生きる意味を見つめ直した坂本さん。ずっと抱えていた心のモヤモヤを晴らしてくれたのは、ビジネスへの取り組みでした。そこへ至るまでにはどんな経緯があったのでしょう。お話を伺いました。

坂本 大地

さかもと だいち|本質的な結婚式のプロデュース
FAMILY取締役社長。自社アパレルブランドTheEarthのプロデュースも務める。東洋大学在学中。

自分以外の人の命を背負って生きる


茨城県神栖市で生まれました。きょうだいは姉が1人います。幼い頃はいわゆるガキ大将でどうしようもなく、公立の小学校にもかかわらず強制転校の話が持ち上がるような子でした。

野球好きな父に影響され、野球を始めたのは小学1年の時でした。親からよく言われていたのは、嘘をつくな、それから、弱いものいじめをするな、始めたことを投げ出すな、といったこと。そんな、人間として根本的なことは教えられましたが、それ以外は何をしても、あまり怒られませんでした。勉強しなさい、とも言われたことはなく、比較的自由に育ててもらいました。

中学へ進んでもやはり野球を続けていました。中学時代、私はまさにチームの中心、エースで4番だったんです。並行していた極真空手でも全国大会や国際大会に出場できて、全てが思い通りに進んでいるような気がしていました。

当時は毎日野球の練習に明け暮れていたのですが、時にはやんちゃをして周りの人に迷惑をかけてしまうこともありました。すると父にこっぴどく怒られました。そして急に「お母さんが、どんな気持ちでお前を産んだのか、知ってるのか?」と言われたんです。私は何も知らなかったので「どういうこと?」と返すと、父は、私が本来なら4番目の子供だったことを教えてくれました。

母は、姉を産んだ後、2回流産をしていたんです。母もそして父も、相当辛かったと思います。私がこうしてこの世にいるのは、2回の流産を乗り越えながらも、恐れることなく産んでくれた母がいたからです。いや、きっとそれだけではないでしょう。亡くなったきょうだいたちも、天国から私が無事に生まれることを手助けしてくれたのかも知れません。私はその命の分も背負って、もっとちゃんと生きていかなきゃ、と思いました。

友人と父の死を乗り越え、夢を追う


父は経営者をしていました。いくつかやっていた事業の一つに、託児所があったんですが、そこで仲良くなった友人とも一緒に野球をやっていました。託児所は家から近く、私もしょっちゅう遊びに行っていたので、自然と仲よくなったんです。ある大きな大会の試合が終わった後でした。帰りのバスに乗って、携帯を開くと、ものすごい数の着信とメールが入っていました。「なんだなんだ」と思って、内容を確認してみると、その友人が交通事故で亡くなったとのことでした。

私は彼の自宅に飛んで駆けつけました。そこには友人の安らかな顔がありましたが、それを見ても私は実感が湧かず、頭の中が真っ白でした。どうしても受け入れることができなかったんです。ショックを引きずりながらも、それを機に気持ちを切り替えて野球に打ち込むようになりました。

進路選択の時期でしたが、私は高校に入っても野球を続け、その友人の分まで頑張ろうと思っていました。でもそんな矢先、父が急に倒れたんです。大量の血を吐いたので、これはおかしいということで、すぐに病院へ行きました。でも診察の結果、特に異常は見つからなかったとのことで、私もそれ以上深刻に考えることもなく、次の日、また普通に学校へ行ったんです。するとすぐに母から連絡がありました。父の様子がおかしい、と。どうしたんだろう、と思ってすぐに自宅へ引き返したら、そこにはとても苦しんでいる父がいたんです。

救急車を呼び、病院に連れて行ったのですが、父は、次の日の朝には亡くなってしまいました。友人が亡くなってからほとんど間もなかったので、まさかこんなことがあるのかと思いました。ちょうど2ヶ月前に姉が交通事故で生死をさまよっていたこともあり、自分の周りの人が皆いなくなってしまうような恐怖を感じました。魂の抜けてしまった父の姿を見ながら、私はただ立ちすくむしかありませんでした。

葬式の日が来ると、ようやく父の死を受け入れ、事態が認識できるようになりました。父からは「将来、オレが亡くなるときはお前が喪主をやれ」と、すでに言われていました。ですから言われた通り、私が喪主をやりました。そこで父の知り合いの方などいろんな方々と話をしましたが、式が終わった時、私の心には静かな決心がありました。「もっと強く生きよう」と思ったんです。私の家族は、もう母親と姉しかいません。姉や私にとっても父の死は辛いものですが、一番辛いのは母親だと気付きました。

一家の大黒柱だった父が亡くなったので、家庭の経済事情も一変しました。私たち家族の生活を支えるため、母は昼も夜も働きに出るようになりました。私はちょうどその時、高校進学を前にして人生の岐路に立っていました。オファーもすでに頂いていた、念願だった高校への進学に、迷いが出てきたんです。そこは私立でしたし、おまけに県外でしたから。

仕方なく地元の高校へ進学することを考えだしていたのですが、そんな私に母が言いました。「子供が自分の夢をあきらめることほど、親にとって悔しいことはない。家庭のことは気にせず、大地は自分の夢を追いかけなさい」と。この言葉は私の心をえぐりました。友人や父の死をきっかけとして私は、この世に当たり前なことなど一つもないんだな、と改めて感じていました。そして周囲の人々に対して改めて感謝の気持ちが芽生え、「生きる意味」や「人生の目的」についても真剣に考えるようになっていました。

だからこそ、自分の夢に対しても真剣に考えたんです。母だって辛いのに、こんな自分のために、さらに身を粉にして働く覚悟でいるのです。私はご縁のあった埼玉県の高校へ進学することを決め、同時に、母の思いを決して裏切らないよう、本気で頑張ろうと思いました。入学直前に東日本大震災があり、避難所生活を送ったことも、思いを強めるきっかけになりました。

夢を叶えた姿をみせてやりたい


そうして埼玉県の強豪校に進学し、野球を始めました。しかし、入部して間もなく、手術が必要なほどの大怪我をしてしまったんです。悲壮な覚悟を持って入部してきたのに、練習したくでもできません。心の中は悔しさでいっぱいでした。野球ができないのにここにいても意味ないんじゃないかと考え、また実家にいる母親のことも心配だったので、何度も辞めようかと思いました。

それでも辞めなかったのは周りの影響が大きかったのだと思います。ただ1人の身で野球をやっているのだったら、すぐ辞めていたかも知れませんが、小さい頃から一緒に夢を追いかけてきた仲間がいました。そんな仲間たちを含め、応援してくれる方々に支えられてこれまでやってきたのです。辞めて、地元に帰ってしまえば、そんな仲間たちのこともがっかりさせてしまいます。だから、少しでも希望があるなら、最後まで頑張ろうと思いました。

頑張って復活し、自分が甲子園のマウンドに立っているのを想像すると、支えてくれる人たちの笑ってる顔が想像できたんです。僕が頑張ることで、みんなを喜ばせることができる、そう思った時に、決してここで諦めちゃいけない、最後までやり遂げようと思いました。単なる言葉ではなく、夢を叶えた姿を見せてやることが、一番の恩返しになる。その最高の形は、私が甲子園のマウンドに立つことこと。それこそが母や父、周囲の人への、最高の恩返しだと思ったんです。

野球に代わる「次の夢」


残念ながら、その後も怪我が続き、結局、甲子園に行くことはできませんでした。高校を卒業すると、AO入試で東京の大学に入学しました。入学してしばらくは、生活費を稼ぐため、寝る間も惜しんでバイトをしていました。同時に、野球で燃え尽きてしまった私は、目標を見失っていたので、何か没頭できるものを探し回っていました。

そんな時、知人からソフトバンクの代理店でiPhoneの営業の仕事を紹介されました。始めてみると、初月から3ヶ月連続売り上げ台数一位という好成績を打ち立てることができました。これによってそれなりに充実感は得られたのですが、それでも「自分が本当にやりたいことって何だろう?」と、ずっと頭の中がモヤモヤしていました。成果を出し、充実感を覚えても、まだ何か満足できない気持ちがある、この原因は何だろう、と思ったんです。

私は販売から少し視点をずらし、今まで世の中になかった新しい価値を生み出すサービスをやりたい、と本格的に思うようになりました。何のサービスがいいかは、はっきり分からないけれど、私のイメージにあるのはたった一つ。そのサービスによって、いろんな人を笑顔にする。そしてそれは、全ての夢の入り口となるようなもの。それを自分の手で作ってみたい、と思うようになっていきました。

両親の結婚式の写真が糸口に


実家へ帰ると必ず真っ先に父の仏壇に手を合わせるのですが、ある時、いつものように仏壇に手を合わせていると、仏壇の横に、両親の結婚式の写真が飾ってあるのに気付いたんです。元からそこにあったのかも知れませんが、急に目が留まりました。両親の幸せそうな顔がとても印象的で、心がふわっと暖かくなるような気がしました。2人の間にはかつてこんなに幸せな結婚式があったということに、初めて思いを馳せました。

そこから私はブライダルに興味を持ち、業界のことを調べていきました。ブライダルにまつわる本を手当たり次第に読んでいくと、本当に魅力的な業界だな、と思いました。人生で唯一自発的に行う式であるという点にも惹かれましたね。そんな素敵なことを仕事にできる人がいることに魅力を感じ、何とかこの業界に潜り込むことができないかと考え、ブライダル企業の経営者の方に、自分の結婚式への熱い思いを記した手紙を送ったりしてみました。

だんだんとブライダル業界のことを深く知っていくと、希望に満ちた話だけではなく、問題点の方が多いように思えてきました。まずブライダル業界全体の縮小があります。人口も減少してきていますし、晩婚化の波も止まりません。そして業界の雇用形態、離職率の問題もあります。私みたいに純粋に「結婚式って素晴らしいな」と思って業界に入っても、しばらくするとみんな辞めていってしまうのです。

衰退を辿るこんな業界に、ベンチャーとして参入を図ることについては、否定的な意見もかなり頂きました。ですが、結婚式の本当の魅力を知り、その上で、そこにある問題点にも気づいた時に、この現実を知りながら向き合わずに他の事業をするのは、自分が納得できないと思ったんですよね。

今日も明日も結婚する人がいるのだから、1日も早く最高のサービスを世に出さなければいけない。業界を盛り上げるために、これまでになかった新しいサービスをやることはできないのかな、と。私がこの業界に入って、日本のブライダルにもう一度新しい価値を生み出すことはできないか、そこにはきっと私にしかできないことがあるんじゃないか、と思ったんです。

両親が結婚式を挙げたのは私が生まれる前でした。父が亡くなってから5年経っています。それでも母はその時の写真をずっと仏壇に飾り続けている。それだけ結婚式は2人の人生において「最高の瞬間」だったんです。私には葬式で喪主の経験しかありませんでしたが、最高の結婚式を作り上げる手伝いをしてみたい、そしてこの業界をもっともっと良くしていってみたい、と思いました。結婚式での両親の幸せそうな笑顔が、それを後押ししてくれているような気がしたんです。

感謝を伝える「本質的な結婚式」を


現在は大学の経済学部に在学しながら、2つの事業を行っています。1つは、結婚×旅×地域創生をコンセプトとして「本質的な結婚式」をプロデュースする株式会社FAMILYと、もう1つは、一つでも多くの夢の入り口になっていくため、昨年9月に創設した若い組織のDreamEntranceです。ブライダルや人生の分岐に関わるサービスの代理店・マッチング事業をしています。

どちらも創業から携わっていますが、DreamEntranceのほうは現在、マネジメントに周り、FAMILYに力を注いでいます。日常のほとんどの時間を、大学の勉強と、このFAMILYに使っている感じですね。これは自分と近い想いで繋がった業界経験の豊富な方々と走っていて、20歳の僕は最年少です。

FAMILYのプロデュースする結婚式のコンセプトは、ズバリ「本質的な結婚式」。業界をいい意味で変えていきたいと思っています。スタートに立ったばかりでまだまだこれからですが、私の立場はCOOといった形で、本質的な結婚式・滞在型のウエディングを企画し、お客様に提案します。この業界は情報の非対称性に溢れ、消費者はどんな結婚式があるのか、あまり分からないままで決めていることが多いんです。考える引き出しすらない状態がほとんどです。

「リゾート婚(沖縄・ハワイ)」が流行の兆しを見せていますが、私たちはあえて国内で、都市部よりも素敵なロケーションやランドスケープを持ち、ゲストが素晴らしい時間を過ごせる地方に着目し、地域との結びつき・交流を推進していきます。バスで結婚式場まで行き、新郎新婦がメイクをしている間に、ゲストに農業体験等をして頂く。そんな活動を通じて、ゲスト同士の親交を深めてもらいたいと思ってるんです。ただ結婚する2人を祝福するだけでなく、結婚式を体感することで、ゲストの満足度を追求していきます。オリジナルウェディングの多くは、新郎新婦の満足度は高くなるものの、そこに呼ばれるゲストの満足度は如何なものか、とかねてから疑問視していたんです。

結婚式とは、ゲストのみなさんに感謝の気持ちを伝える場でもあります。式にこの意味をしっかりと持たせることで、「本質的な結婚式」になると思っているんです。結婚式は2人にとってのゴールであると同時に、その先の人生をこれからも頑張ります、と誓う場でもあると思います。ですからその場は、やはりみんなが楽しめる場でなければならない。

実際に結婚式を挙げるカップルは、全体の60%程度と言われてますが、私たちは残りの40%の方々に向けて、結婚式の魅力をどんどん発信していきたいと思っているんです。何十回と結婚式に参加している人でも、「あいつの結婚式はよかったよな」と驚きと感動を提供できるような、そんな結婚式を目指します。

私の夢は、人生において自分にしかできないことを成し遂げたい、ということ。それをこれまでお世話になった方への感謝の気持ちとして表したいんです。私自身がいろんな支えられ、影響を受けたように、自分の夢をあきらめかけている人などに対して、影響を与えたいと思っています。それによって、この世の中にもっともっと夢や笑顔を増やしていきたい。それが私にとっての極限の夢です。ですから、ブライダルの先にもやりたいことはたくさんあります。私が夢を実現し続けていくことが、母や周りの支えてくれた人達への恩返しになると思っているんです。

大学生なんだから遊べるうちにたくさん遊んだほうがいいよ、などと言われることもありますが、自分も含めて、人はいつ死んでしまうか分かりません。これまでの経験からも、当たり前のことは何もないという感覚を誰よりも実感しています。やりたいことをやるのに早すぎることなんて何もないんです。こうして生きている限り、私は一人でも多くの人と、たくさん笑い合いたいんです。進化する時代の中で見失いがちな、心の底にある自分にとって本当に大切なモノを大切にしていたい。正解の道を選ぶのではなく、自分が信じた道を正解といえる生き方をしたい。そう考えています。

2016.07.27

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