五輪招致を通じて明確になった、日本人の価値。
和を以て貴しとなす精神で持続可能な世界を。
グローバルに展開する外資系コンサルティングファームのアクセンチュア株式会社で、SDGsの推進やイノベーションの創出、アクセンチュア自身のブランディングなどを行っている加治さん。五輪招致に携わり、さまざまな業界でマーケティングや戦略にかかわる経験を積んだ加治さんが実現したい世界とは。お話を伺いました。
加治 慶光
かじ よしみつ|アクセンチュア株式会社チーフ・マーケティング・イノベーター
銀行、広告会社を経てケロッグ経営大学院でMBA修了。日本コカ・コーラ、タイム・ワーナー、ソニー・ピクチャーズ、日産自動車で活躍後、2016東京オリンピック・パラリンピック招致委員会に出向。帰任し、Nissan LEAF世界導入に参画。2011年より内閣官房官邸国際広報室参事官に。2014年2月より現職。
車や映画を通して文化を知る
愛知県大府市で生まれました。父が自動車のパーツ関係の会社で働いていた影響で、小さい頃から自動車に興味がありました。家にたくさんあった自動車関連の本を、よく読んでいましたね。車種が違っても同じワイパーを使っているとか、かなり細かいところまでチェックしていました。
地元の小学校に通ったのち、中高一貫の仏教校に進学しました。その学校では、「他の命によって支えられ、生かされている自分を自覚し、共に生かし生かされ合う」という、「共生」の思想を大切にしていました。
昼食は学校独自の食作法にのっとって、「本当に生きんがために、今この食をいただきます。与えられた天地の恵みに感謝いたします。いただきます」と唱えてから食べるんです。毎日それを繰り返したことで自然と、食べられることが当たり前ではなく、ありがたいことなんだという感謝の気持ちが生まれました。
中学生から高校生の間は映画をたくさん見ていました。年間300本ほど見ることもありましたね。たくさん見るうちに、だんだんと作品にその国の文化やマナーが表れていると感じるように。一本一本の作品というよりは、映画が国ごとの文化とどう対応しているかを中心に見るようになりました。
これは小さい頃から好きだった車も同じでした。車一台一台にも、作られた国の「らしさ」が出ているのが面白くて。たとえば、日本車は壊れにくくて誠実だけど派手さに欠けるとか、イタリアの車はすごくかっこいいけど壊れやすいとか。
一本の作品、一台の車を楽しむうちに、だんだんと映画や車そのものだけでなく、プロモーションの方法や産業の成り立ちについても興味が湧き、調べるようになりました。映画や自動車の産業自体に興味が出てきましたね。
人生を見つめ直した25歳の誕生日
高校卒業後は、東京に行きたくて都内の大学を受験し、無事合格。大学では、勉強よりも映画、英語、テニスやスキー等サークル活動に打ち込みました。
就職活動が始まったころには、映画産業の中でもマーケティングやプロモーションに関心を持つようになり、広告業界を志望しました。しかし、就活中に金融業界で働く先輩から「趣味を仕事にすると辛いよ。俺も理想はあるけど、その通りにはいかないから趣味を仕事にはしないんだ」と言われ、その通りかもしれない、と思いました。
加えて、これからは金融業界でもマーケティングが必要になると、銀行に誘われたんです。安定した業界で興味のある仕事ができるなら、映画や車などの趣味を仕事にしなくてもいいかと思い、就活人気ランキングが1位だった銀行に就職を決めました。
しかし、実際に働き始めると預金集めなどいわゆる銀行の通常業務しかできず、マーケティングには全く関われない日々が続きました。
そんなあるとき、会社の行事で運動会が行われることになり、バレーボールの試合に出場することに。バレーが得意ではない僕は、運動神経抜群の先輩に特訓してもらうことになりました。
その先輩は一生懸命仕事に取り組む、正義感が強い人でしたが、担当しているのはお客さまに大きなリスクがある金融商品でした。そのギャップに違和感があり、ある夜、飲みに行った席で「あの商品を売っていていいんですか?」と聞いてみました。すると、先輩から「俺には他に行く場所がないんだ。高卒でここに来たから、言われた事を一生懸命やるしかない」と答えが返ってきました。
その言葉を聞いて、誰もが伸び伸びと望む人生を送れるような世の中になるとよいな、と感じました。そのような社会にしていくためにはまず自分が望む仕事を求めようと思い、かねてから興味があったマーケティングに関わろうと、広告業界への転職を決めました。25歳の誕生日でした。
MBA取得のため32歳で休職・留学
転職したのは、あるグループの中の外資系クライアントを主に担当する広告会社でした。世界中で愛されている商品の広告を手がけ、国際的なマーケットを対象にしたマーケティングの仕方を学ぶことができました。何もかもが新鮮で大変勉強になりました。
まもなくして、別の外資系の広告会社から声がかかり、再度転職しました。グローバルな会社で、会議での公用語は英語。前の会社でも英語には触れてきたものの、実際に会議に出席すると発言者があまりに早口で、全く聞き取れませんでした。
絶望的な気持ちになりましたね。「この会社でどうやって生きていくんだろう、人生終わった」と思いました。このままではダメだと困って、会議の内容を録音させてもらうことに。その音源を聞いて、発言内容を全て紙に書き出し、必死に英語を勉強しました。
その甲斐あって、少しずつ英語を理解し議論もできるようになった頃、シカゴで開かれた社内会議に参加しました。世界各国の社員が集まってチームを作り、マーケティング戦略と実行計画を創る会議でした。チームは、イギリス人・フランス人・イタリア人・マレーシア人・台湾人と僕の6人。6人みんな英語で話していて言葉は通じるのですが、自分だけが何か違うことを言っている感覚があり、衝撃を受けました。他の5人が使っているビジネスの共通言語を、僕は使えなかったのです。
日本には「阿吽の呼吸」と言われるように、1から10まで全部言わなくてもわかるような感覚がありますよね。しかし、グローバルな会議ではそれが通じない。チームメイトと意見を交わすためには、世界共通の経営用語を使う必要がありました。
今後も広告業界でグローバルに仕事をしていこうと決めていたので、世界で通用するようビジネスをきちんと学ぼうと考えました。休職して32歳でアメリカに渡り、MBAを取得するためにシカゴ近郊にあるケロッグ経営大学院に入学しました。
日本人は特殊な存在
大学院には世界60カ国から経営を学びたい人が集まっていました。多様な学生と議論することで、経営に関する知識や英語の語学力が格段にあがりましたね。また、普段の会話の中で、語学以外にも気づきがありました。それは、日本人が世界的に特殊だということです。
日本人のほとんどは生まれてからずっと国内で暮らします。でもビジネススクールの友人たちは、パリに住んでいたけど彼女のいるイギリスに引っ越すとか、暖かい地域で働きたいからイタリアに引っ越したとか、国境を意識しない生活が当たり前だということに気づきました。
日本人は世界の中で稀な存在なんだと理解したのと同時に、その特異性を生かした世界への貢献の仕方があるんじゃないかと漠然と感じました。やがて、平和で民主主義と資本主義がある程度機能しており、GDP世界3位の日本だからこそ、世界の中で果たすべき役割がある、と考えるにいたりました。
2年生になる頃、学んできた経営理論の実践場として、世界トップクラスのコンサルティング会社でインターン生として働きました。世界市場で活躍する優秀な人たちに囲まれて仕事をして、まだまだ自分には英語のスキルが足りないことがわかりました。これからグローバルな現場で働いたとしても彼らと対等には戦えないと感じ、海外で働くことへの限界を感じましたね。そこで、自分の価値を発揮できるよう、日本を拠点に外国との接点となって世界に貢献をしようと思いました。
その後、MBAを取得し帰国。大規模な広告を打つ大手飲料メーカーの日本支社に入社し、マーケティングを担当しました。ちょうど時期が合って、オリンピック・パラリンピックに関する広告を手がけることもできました。その後、ヘッドハンターや知人から声をかけられ、複数の映画会社でマーケティングを担当。好きな映画に携わることができて楽しかったですね。
しかし映画は、圧倒的にアメリカが強い産業でした。そのため次は、映画と同じように昔から好きだったことに加えて、日本が世界に貢献できる産業という視点から自動車業界に関わりたいと思うように。たまたま大学院の先輩が働いていた自動車メーカーに入社することができました。
持続可能な車をつくる
自動車メーカーでは、高級車のマーケティングを担当しました。「速さ」を追求した名車を復活させるプロジェクトに携わり、2年に一度行われる車の祭典「東京モーターショー」で披露しました。
我々のブースは盛況でしたが、東京モーターショー全体としては入場者が減少傾向にあり、世界からの日本の自動車業界への注目が弱まっている可能性があると感じました。
さらに、新興国の技術者たちが最新の機械を使って車の構造を分析するのを見て、「新興国がすぐに近しい性能の車を作ってくるだろう」と危機感を覚えました。このままでは日本の自動車産業に未来はない、新しい産業の在り方を考え、創造していかなければと思いました。
車は人の移動手段なので、今後は速さよりも、エネルギーに困らず長く乗ることができる車が重宝されるだろうと考えました。そこで、持続可能な車として注目されていた電気自動車の普及に注力することにしました。
そのころ偶然、五輪の東京招致に携わる方に出会い、東京五輪のテーマがサステナビリティで、招致によって電気自動車や太陽光発電を推進しようと考えていることを知りました。
聞くところによると、五輪招致を始めたのは、当時の東京都知事だった石原慎太郎さん。彼は研究者から「知的生命体は惑星にダメージを与え、環境変化により、100年か200年ほどで生命体そのものが滅びる」という話を聞き、人類が滅びずに生きていけるよう政治家として環境問題に取り組むことにしたそうです。五輪招致もその一環でした。
そんな話を聞いて取り組みに共感し、すぐさま五輪招致に関わりたいと会社に休職願を出したところ、電気自動車の推進は会社にとってもプラスだと出向させてもらえました。
それで、2016年に開催される五輪・パラリンピック招致のエグゼクティブ・ディレクターに就任。東京を開催地に選んでもらうため、国際オリンピック委員会の総会で行うプレゼンテーション内容を考えました。しかし、結果は落選。悔しかったですね。
日本の良さを伝え、五輪招致に成功
総会後は、会社に戻って電気自動車の推進を担当しました。会社は電気自動車を世界中で広めようと、クルマそのものの開発やマーケティング戦略の構築に加えて充電器の設置や価格帯の検討など、日本をはじめ各国政府との調整を試みていました。
電気自動車の導入が終わり、より広く国や世界に貢献したいと考えていた時に、内閣官房総理大臣官邸の国際広報室のポジションの公募があることを知人から教えてもらい、応募しました。世界に向けて日本の良いイメージを発信する部署で、その一環として電気自動車技術の普及等、日本の技術の優位性を世界に発信することにも取り組んでいたんです。
広報室に入って3カ月後の2011年3月、東日本大震災が起こりました。各国に対して震災や原発事故の状況を一生懸命説明し、日本のイメージ回復に努めました。原発事故の詳細を知っていく中で、自動車だけではなく、エネルギーを持続可能なものにすることも重要な課題だと考えるようになりました。
さらに2年後の9月に、2020年の五輪・パラリンピックの招致が行われることに。2016年の雪辱を果たすべく、再び招致のお手伝いをすることになりました。前回とは違う中央政府の立場から、文部科学省、外務省、東京都、招致委員会等と連携を取りながら戦略を練っていきました。
そのプロセスを通じて、日本人が大事にしてきた「和を以って貴しとなす」や「万物に神が宿る」など、どこかの世界や宗教が支配的になるのではなく、みんなが共存して仲良くしていく。そういった考え方こそが、これからの世界の役に立つ日本の価値だと考えるに至りました。
プレゼンテーションが終わった後、僕たち五輪招致チームのメンバーは会場内で、発表のときを待ちました。
結果は、見事当選。東京での開催が決まって、非常にうれしかったですね。特に前回負けたので、4年以上かかったわけです。人生で一番、喜びを現わにした瞬間でした。
招致が決まって3カ月経ったころ、国際広報室の任期が満了になりました。そのころ、世界最大級のコンサルティング会社、アクセンチュア・ジャパンのヘッドハンターから声がかかりました。
私が国際広報室に在籍当時、原発事故が発生したことで外資企業が撤退する中、アクセンチュアはこれまでお世話になった日本に恩返しがしたいと国内に新たな拠点を作った会社で、僕は好印象を抱いていました。加えて、社会を持続可能なものにしようと考えていることにも興味を惹かれました。
僕自身、電気自動車の推進や原発事故時の国外への対応、サステナビリティをテーマとした五輪・パラリンピックの招致などを通して、より良い未来をつくるためには持続可能性が重要であると感じていたからです。加えて、日本を拠点に、日本人としての良さを生かしてグローバルに活動できそうだと感じ、入社を決めました。
日本の良さを活かして世界平和を
現在は、アクセンチュアのチーフ・マーケティング・イノベーターとして、会社のブランド価値を日本国内で高める活動をしています。
アクセンチュアに対する世界共通の認識を確立し、日本でも浸透させるため、国内外で連携を取りながらブランディング活動をしています。そのほか、イノベーションを加速化させるためのスタートアップの支援や、コンサルティング活動のサポートなども行なっています。
これらの活動のベースには、SDGsの推進があります。社会全体が持続可能なものになるよう、働き方改革や地方創生、デジタル化などさまざまなプロジェクトを推進しています。
SDGsの活動の一環で、広島県とともに世界平和とビジネスやマーケティングを結び付けるための会議も開催しました。会議中、ある人が「世界平和は北極星みたいなものだ。」と話していました。宇宙のどこかに必ず存在することはみんな分かっているけれども、どうやって到達したらいいか分からない。そして、自分たちが生きてる間には到達できない可能性がある。でも、それを目指すことで、自分が正しい方向に進んでいることがわかる。日々の暮らしの角度が一度や二度でも変わるかもしれない。だから世界平和を目指すことが大事なんだ、と。
僕がやっていることも、ささやかですが、どこかで少しでも世界平和に通じたらよいなと密かに考えています。これでいいのか自問自答、試行錯誤の連続ですが。
今後は、SDGsを推進する中で、いろんな経験を通じて見つけた日本人の価値を生かしていきたいですね。これからの時代は、どこか一国が支配的になるのではなく、日本の良さである「和を以て貴しとなす」精神を生かして、みんな仲良く手を取り合って進んでいくべきだと思うんです。
日本は食べ物にも水にも困らないし、犯罪が少なくて財布を落としてもちゃんと戻ってくるような国。ここに生まれたことに感謝し、ありがたいという気持ちをモチベーションに、世界に貢献していきたいです。自分の国だけでなく、いろいろな国のことを考えられる人が、少しでも増えるといいなと思います。
2019.03.11
加治 慶光
かじ よしみつ|アクセンチュア株式会社チーフ・マーケティング・イノベーター
銀行、広告会社を経てケロッグ経営大学院でMBA修了。日本コカ・コーラ、タイム・ワーナー、ソニー・ピクチャーズ、日産自動車で活躍後、2016東京オリンピック・パラリンピック招致委員会に出向。帰任し、Nissan LEAF世界導入に参画。2011年より内閣官房官邸国際広報室参事官に。2014年2月より現職。
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