紛争に直面して感じた憤り。取り柄のない私が専門家としてできること。

紛争地域の課題解決や人材育成に努めるNPO、日本紛争予防センター(JCCP)にて、理事長を務める瀬谷さん。とりたてて優れた才能がないというコンプレックスを持ちながら、紛争予防・解決の専門家として世界各国で活躍するようになるまでに、どのようなストーリーがあったのでしょうか。お話を伺いました。

瀬谷 ルミ子

せや るみこ|紛争予防・解決の専門家
日本紛争予防センターの理事長として、紛争地域の課題解決や環境改善に努める。

※本チャンネルは、TBSテレビ「夢の扉+」の協力でお届けしました。
TBSテレビ「夢の扉+」で、瀬谷 ルミ子さんの活動に密着したドキュメンタリーが、
2016年2月7日(日)18時30分から放送されます。

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ルワンダ虐殺の記事から感じた使命感


群馬県桐生市で生まれ、三人姉弟の真ん中で育ちました。小さい頃から、姉弟と比べても、同級生と比べても、これといった才能がないことがコンプレックスでした。常に、人と違うことをしないと生きていけない、と感じていましたね。

小学生の時、3つ上の姉の英語の教科書を見て、これは同級生の誰も知らないことだと感じ、英語に興味を持ち始めました。中学生になってからは、お年玉で大人用の英語教材を買い、熱心に勉強したので、英語の成績はとても良かったですね。将来は漠然と、通訳者や翻訳家など、英語を使う職業に就きたいと考えていました。

高校に入ると、英語を使いこなす帰国子女や留学経験者という人たちが世の中にいることを知りました。「この人たちには英語で敵わない」と感じてしまい、英語プラス何かを必要とする自分にしかできない仕事を見つけなければと思いました。ただ、それが何なのか見当もつかず、将来のことを考えるのを先延ばしにしていました。

卒業が近づき、先生に「進路が決まってないのはお前だけだ」と言われ、ようやく進路を考え始めました。情報収集のために新聞を読み漁る中、ルワンダ虐殺の記事で、亡くなりかけている母を子どもが泣きながら支える写真が目に留まりました。

それまでも紛争地のニュースを見たことがありましたが、その時初めて、紛争地で暮らす人と自分との間に共通点を見いだしました。

バブル崩壊、消費税増税、汚職事件。常に、「偉い人が勝手に決めたことに巻き込まれている」「自分も進路が決まらないし」と不満を持っていました。ルワンダの親子も同じで、自分から虐殺に巻き込まれたわけではありません。同時に、置かれた状況に圧倒的な差があるとも痛感しました。日本で暮らす自分は、努力すればいくらでも道が拓けるのに、不満ばかり言っている。彼らは声をあげても、その声は拾われすらしない。激しい怒りと憤りを感じました。この問題を見過したくない。「これって解決できないのかな」と思いました。

どんな仕事につけば紛争をなくせるのか調べて行き着いたのが、紛争解決の専門家でした。日本には、そういった人達がいないことが分かりました。頭の中で化学反応が起きた気がしました。専門家が誰もいないこの分野なら、自分が必要とされる可能性がある。平和や紛争解決に関わる仕事をしようと決めました。

現地で感じたスキルの必要性


高校卒業後、外国語教育が充実していて、色々なことを学べる環境もある中央大学総合政策学部へ進学しました。部活やサークルに入らず、アルバイトでお金を貯めて、長期休みに海外を回りました。アメリカやオーストラリアなどに行き、実践的な英語力を磨きました。

並行して、大学の図書館で、海外の紛争関係の本や雑誌を読み漁りました。特に、ルワンダについて知りたいと思っていました。ルワンダについて詳しく書いてある本がなかったので、3年生の夏休みにルワンダへ行くことにしました。

現地では平和活動を手伝いたいと思っていたのですが、全く役に立てませんでした。何かできるだろうと淡い期待を持っていましたが、20歳そこそこの、何のスキルもないただの学生に本気で頼ろうとする人はいませんでした。現場で必要とされる人間になるには、スキルが必要だと痛感しましたね。

帰国後は、スキルを身に付けるために、ルワンダを支援するNGOでインターンを始めました。大学卒業後、専門的な知識を身に付けるため、イギリスのブラットフォード大学院の平和学部に進学しました。

大学院には、紛争地帯の現場を知る元兵士など、様々な同級生がいました。世界中の人と真剣に意見交換できる初めての場で、非常に新鮮でした。私の研究テーマは紛争後の和解でした。得意な分野では何とかクラスの最高点を取ることもでき、国際社会でやっていけるのかなという小さな自信がつきましたね。

大学院修了後、大学時代にインターンしていたNGOのルワンダ事務所立ち上げに参加しました。ルワンダに駐在して、現地の方への職業訓練などをしました。

以前ルワンダに行った時よりも、役に立てる感覚はありましたね。ただ、大学院で学んだことは理論でしかなくて、現場での実践力をつけるには経験を積むしかないとも感じました。

ルワンダで半年ほど働いた後は、専門誌に寄稿していた現地調査の論文を読んだ団体から声を掛けられ、シエラレオネの国連PKOに参加しました。シエラレオネでは、大学院時代に専攻したいと思いながら指導教授が見つからず断念していた、除隊兵士の社会復帰に携わりました。

アフガニスタンで感じた限界


1年経った頃、日本政府から連絡がありました。アフガニスタンでの武装解除を日本が担当することになったので、外交官として働かないかと。他の国連機関からも誘われていたので、すごく悩みました。結局、今まで経験したことがない環境に身を置こうと思ったので、アフガニスタンで外交官として働くことを決めました。

アフガニスタンにおいて、日本以外の国が軍の再建や警察改革、司法改革などを行う中で、日本は国連とともに古い軍閥の武装解除を担当していました。私は、武装解除の専門的な知識を持つ数少ない日本人だったので、駐アフガン大使の補佐として、アフガニスタン大統領へ提案や提言をしたり、閣僚会議へ参加したりしました。大きなプレッシャーを感じながらも、非常にやりがいがありました。

しかし、働くうちに、もっと力があればより良い提案ができるのではないか、と悩むようになりました。アフガニスタンの治安は徐々に悪化しており、テロが増えていました。誰しもがそれに気づきながら、具体的解決策を提案しない。私も解決策を見いだせず、無力さを痛感しました。

国連PKOでの活動と異なり、外交官として取り組んだアフガニスタンでの仕事は政治的な交渉が中心でした。それまで、同じ武装解除の分野でも、元兵士への訓練など、現場での実践を中心に経験してきました。26、7歳の若手の私には国際社会の政治的なしがらみを超える力はなく、現場の専門家として技術をつけるだけでは越えられない壁があることを感じましたね。

気づけば、目の前の業務をこなすだけの状況になっていました。自分の能力の限界、日本が国際社会で果たすべき役割に葛藤していました。

何も考えない時間を作ってリフレッシュするため、一度仕事から離れることに決めました。

日本の立場から現場の役に立ちたい


しばらくの間、日本で過ごしたり、世界を放浪したりしていました。南フランスに遊びに行こうとフランス出身の元同僚に連絡を取ったところ、彼女はコートジボワールで働いていたので、コートジボワールに行ってみました。

現地は紛争状態にあり、国連で武装解除を担当していた友人から、定期的に武装解除について相談されました。アフガニスタンでの経験や専門的な知識を必要とされていました。現地の国連PKOから職員としてのオファーをもらい、再び紛争地で働くことを決めました。

「何もしない期間を置けば頭が整理されて、アフガニスタンで感じた問題の答えが見つかる」と思っていましたが、フラフラしていても結局何も見つかりませんでした。「現場で動き出して新しい知識を入れることでしか答えは見つからない」と気づきました。抱えていた問題をなかったことにして逃げるのも嫌だったので、現場に復帰することにしました。

実際には、コートジボワールでは国連PKOが蚊帳の外に置かれていて、あまり価値を発揮できませんでした。フラストレーションを感じ、国連でない立場から何かできないかと考え始めました。

個人的には、日本として何かしたいと考えていました。コートジボワールに限らず、紛争地で復興支援に携わる日本の団体は数少ない状態でした。また、日本の紛争解決への関わり方についての質問を受けるたびに、「日本は、お金は出すけどなかなか専門家がいないからね」と答える自分が無責任に感じ、課題感を持っていました。

そんな時、国連PKOではない海外の研修機関や訓練施設から、武装解除の講師をしてほしいと頼まれました。国連の看板に関わらず、個人として頼られたことに自信を持てました。組織を問わず、スキルを認めてもらえるようになったんだな、と。

そこで、国連の組織を離れ、日本の組織で世界の紛争解決に取り組もうと決めました。30歳の時でした。そして、紛争予防や平和構築を行う日本紛争予防センターの当時の理事長から声を掛けられ、日本を拠点に働き始めました。

紛争地の課題に、日本の専門家として役に立ちたい


現在、日本紛争予防センター理事長として、治安情勢が不安定な地域に対して、紛争の予防や再発防止のための仕組みづくりをしています。紛争が起こった後の緊急支援だけでなく、長期的に現地の人材を育て、紛争が起きる根本の問題を解消しようとしています。

現地の警察官や住民へ研修などを行う「治安の改善」、被害者への職業訓練や心のケアなどを行う「自立支援」、対立や争いが起きた時に暴力や武力を使わずに共存する仕組みを作る「信頼醸成」の3つが軸です。

私たちの目標は、現地の人が自分たちの手で問題を解決し、平和を構築できるようになることです。そのために、現地にノウハウの提供や人材育成などを行って、最終的には自分たちの仕事がなくなれば良いと考えています。

原動力は、紛争に直面した時の怒りや憤りです。国内にも問題はたくさんありますが、紛争地では助けに対応する受け皿としての仕組みや制度が存在しない、誰にもその声すら届かないことがほとんどです。紛争地では「声を上げる」という選択肢がないことを知ってしまったからには無視できません。

この領域では専門家が足りません。取り柄がない私でも、何か価値を発揮できると思えました。

今後は、日本国内でも、一人一人が平和のためにできることの選択肢を増やしたいですね。世界の紛争や平和について考える機会は多いのですが、日本で「平和のために何ができるか」という議論が起きると、政府がお金を出す、自衛隊を送る、デモを起こすくらいの選択肢で終わってしまう。それ以外に、紛争地での実務的支援とか、専門性などを生かした日本での技術協力、双方向のコミュニケーションを生むクラウドファンディングなど、一人ひとりができることを増やして、「こういうことをすると、現地に対してこんな効果があるんだ」ということを発信していきたいです。

2016.02.01

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