ラテンとフットボールを広める、新たな挑戦。中南米へのサッカー修行で得た納得感と可能性。

「ラテン」・「フットボール」をテーマとした原宿のカフェでショップディレクターとして働く有坂さん。プロサッカー選手を目指し19歳でブラジルに、5年のブランク後、再びプレーヤーとして25歳でコスタリカに渡った有坂さんが挑戦の先に得たものとは?環境を変えて挑戦を続ける背景にはどんな思いがあるのか、お話を伺いました。

有坂 哲

ありさか てつ|ラテン・フットボールをテーマにしたカフェ運営
ラテン・フットボールをテーマにしたカフェ「futbol&cafe mf」にてショップディレクターを務める。

大学中退、19歳で単身ブラジルへ


僕は東京都練馬区に生まれ育ちました。小さい頃から野球をしていたのですが、小学生のある時、友達から「一緒にサッカーをやらない?」と誘われ、嫌々ボールを蹴ってみる機会がありました。

すると、初めて思い切りボールを蹴った瞬間、身体中に衝撃が走ったんです。蹴る動作自体日常に無いためとても新鮮で、何か解き放たれたような、抑えられていたものが解放されるような感覚がありました。

それ以来、サッカーにのめり込んでいき、中学校でもサッカー部に入りました。弟も一緒にサッカーをするようになり、僕が中盤や守備のポジションを担うのに対し、弟はフォワードで得点を取る機会も多かったので、「お兄ちゃん負けているじゃん」と常に比べられるのは嫌でしたが、うまくなりたい一心で練習をしましたね。

そして高校からは地元の都立石神井高校のサッカー部に所属し、地域の選抜にも選ばれるようになり、本格的にサッカーで上に行きたいと考えるようになったんです。そのため、卒業後はサッカーに力を入れていた私大に公募推薦で進学することを決めました。

その後、卒業後の進路も決まった高校3年の1月頃、部活の練習を終えて区民館のトレーニングジムに行くと、見知らぬサッカーチームのユニホームを着てトレーニングをしている人を見かけました。個人的にサッカーのユニホームについてはマニアと言える程詳しく、日本のものは全て分かる自信があったからこそ、どうしてもそのことが気になり、「どこのユニホームなんですか?」と声をかけてみることにしたんです。

すると、元々ブラジルのチームで6年間プレーしていた方で、その時のユニホームだということがわかりました。そして、その方は日本に帰国しJリーグを目指して練習をしているとのことでした。最初は興味本位だったものの、プロを目指し、ブラジルでも選手としてプレーした方の話を聞けるのはすごく印象的でしたね。それ以来、一緒にトレーニングをさせてもらうようにもなりました。

高校を卒業後は私大のサッカー部に入部し、寮生活が始まりました。しかし、サッカーに打ち込みたいという思いを持って入学した分、周りとの温度差もあり、入って半年程立つ頃には、部活を辞めようと考え始めたんです。

同時に、地元のジムでの出会い以来、自分もブラジルに行ってみたいという気持ちも抱いていました。大学の先生からは反対され、母子家庭だったこともあり、経済的な面での後ろめたさもあったのですが、挑戦してみたいという気持ちは日に日に増していきました。

そこで、部活とともに大学を辞め、知人を介して環境を紹介してもらい、3ヶ月後にブラジルに出発することを決めました。最終的には母親からも「あなたがそう思うなら、やってみれば」と言ってもらえたこともあり、19歳のタイミングでブラジルへ渡ることにしたんです。

プロへの挑戦と、指導者という新しいやりがい


ブラジルでプロチームの寮に寝泊まりして、プロと高校生の間のチームや、プロのチームの練習に参加していました。言葉はわからないまま行ったので、話せないのは当然で、本当にゼロから積み上げていく感覚でした。

ただ、寮の食堂で勉強をしていると周りが興味を持って話しかけてくれ、いじめ等を受けることもなく、むしろ周りに助けてもらうような日々でした。

しかし、いざサッカーとなると本当に激しい環境で、プレーをしていて生まれて初めて「怖さ」を感じました。ボールを奪いに来る時に、身体ごと削りに来るので、それに慣れるまではすごく大変でしたね。

それでも、ブラジルでもそこまでレベルが高いチームではなかったこともあり、ずば抜けて上手い選手がいるわけでもなく、ある程度通用する感覚はありました。また、周りも皆サッカーで勝負したいという気持ちが強かったため、僕自身、日本でJリーグに挑戦したいと考えるようになっていきました。

そこで、20歳のタイミングで日本に帰国し、関東圏のチームを中心にJリーグの入団テストに挑戦しました。しかし結果はどこも不合格。受かるかもしれないなという手応えはありましたし、実際に入ってもなんとかやっていける感覚はありました。ただ、「絶対通用する」という感覚までは至らなかったのも正直なところでした。

その後は、プロではないものの、関東リーグでアマチュア選手としてプレーする傍ら、石神井高校のOB会から声をかけていただき、母校のコーチも務めるようになりました。選手としてのトレーニングにもなると思えたことに加え、昔から人に教えることは好きだったので、始めることに迷いはありませんでしたね。

すると、実際に指導をしていくうちに、教え子が上達していくことに予想以上の楽しさを感じたんです。自分が伝えたことを一つずつやって少しずつうまくなっていくことが新鮮で、とてもやりがいがありました。そんな背景もあり、元々、週末は自ら選手として出場する試合と、コーチとして教える学校の試合が被ってしまうことも多かったのですが、次第に指導者としての活動に時間を費やすようになっていきました。

25歳、口だけの大人になる危機感からコスタリカへ


しかし、母校の高校のコーチや、他のチームでも指導者として経験を重ね25歳を迎えると、自分の中で「このままで良いのかな?」という危機感を抱くようになりました。僕がコーチをしていた母校は部員が150人程いて、僕が話をし始めると、すごく純粋に話を聴いてくれていました。その姿勢に対し、嬉しさを感じながらも、同時に「口だけの軽い大人になってしまうんじゃないか」という危機感もあったんです。

環境に適応する能力に自信はある反面、その環境に流されやすいというところもあったので、高校生の前で語っている心地よさに浸ってしまい、まだ20代なのにそこで止まってしまいそうな不安がありました。特に、選手は一つのミスで一喜一憂するものの、指導者は成果が長期スパンだということもあり、それまでに比べて緊張感も異なる環境でした。

そこで、このままではダメだという気持ちから、もう一度選手として、自らの行動がダイレクトに跳ね返ってくるような挑戦をしたいと考えたんです。「指導者の視野も持った上で、選手として再び海外でプレーしたい」というのが、僕がたどり着いた結論でした。今の環境を捨てることへの不安もありつつ、ゼロからのチャレンジへのワクワクが大きかったですね。

そして、行き先を考えてみると、ブラジルでラテンの雰囲気と相性が良いことが分かったため、南米か中米に行こうと考えました。その中でも、中米は未知の領域だったこともあり、どうせなら日本人がいない場所に行きたいという思いから、日韓ワールドカップに出場していて知ったコスタリカという国に行ってみることにしたんです。正直、行ってみないとわからないことだらけだったので、最悪現地から移動することも選択肢に、コスタリカへ飛び立ちました。

実際に現地に訪れると、思った以上に過酷な環境が待ち受けていました。ホームステイ先だけ見つけて行ったため、最初の半年はトレーニングしかできず、膝の調子が良くなかったこともあり、病院やアパート探し等、色々と苦労しましたね。

「やるところまでやった」と言い切れる経験


しかし、拠点が決まり、その近くで行われていた草サッカーに参加し始めると、少しずつ世界が広がっていきました。積極的に面倒を見てくれる友人に出会うことができ、彼の紹介で様々な人と出会い、最終的には コスタリカでは国民的英雄の、プロチームの監督も紹介してもらえたんです。

1部チームのテストでは、挑戦する環境に向き合えず落選してしまい、正直日本に帰国しようかとも思いましたが、その親友から、「お前が来たことで、代わり映えの無い日々が変わった」と言ってもらえたことで、もっと挑戦を続けようと思い直すようになりました。

そしてその後、練習参加させてもらっていた2部チームから1シーズンのプロ契約を獲得することができ、ついに現地で本格的にプレーをする機会に恵まれました。また、そのチームではいきなりスタメンで起用してもらい、リーグ戦が進む中でレギュラーの地位を築くことも出来ました。チームはファイナルステージの前で負けてしまい、タイトルを獲得することはできなかったものの、コーナーキックやフリーキックを任せてもらい、本当に貴重な経験を積むことが出来ました。

アウェイでの観衆からの叩かれ具合はものすごいもので、相手選手のプレーの激しさや汚さも凄まじい環境でした。指導者を経験したことで見えてくるものもあるかと考えていましたが、そんな余裕は一度も感じることができなかったですね。(笑)

しかし、そういった環境でプレーする中で、元々「自分が納得するところまでやりたい」と思っていたのが、納得する日は来ないというような感覚を抱くようになりました。向上心は止まらないので、どこかで区切りをつけないと終わりは来ないなと。

そこで、1年目のシーズンを終えた後、1部リーグのチームのテストを受けてダメだったら帰ろうと決め、前回落ちた同じチームに再度挑戦することにしたんです。

迎えた本番、テストでのプレーはものすごく手応えのあるものでした。自分の中でも鬼気迫るものがあり、試合では得点も取り、「これで落とされたら大納得だわ」と思えるようなプレーでした。ただ、それでも合格をもらうことは出来ませんでした。28歳で日本人、プロ経験も無いということで、「たぶんこのチームは自分を獲得する気がないんだな」と感じましたね。

文字通り「やれるところまでやった」という感覚でした。そういった心境に至れたことが嬉しかったですね。そして、自分の挑戦を認めることができた僕は、日本に帰ることを決めました。

ラテンの魅力を伝える、新たな挑戦


日本に戻ってからは、知人の紹介で再び指導者としてサッカーを教えることを始めました。やはり、コスタリカの経験を通じて、自らが伝えられるものは増えたような感覚がありましたね。

ただ、その後数年間サッカーコーチを続けると、同じチームで教え続けたこともあり、得る物がありつつも、再び「何かを失ってしまうのではないか」という危機感を持つようになりました。

すると、そんなタイミングで、知人から原宿にある「futbol&cafe mf」という「フットボール」や「ラテン」をテーマとしたカフェで働かないかと誘っていただいたんです。

そのお店ではテーマに沿ったトークイベントも頻繁に開催しており、元々人の話を聴くことが好きだった僕は、それを仕事に出来たらと感じました。そして、試しに企画させてもらったイベントを開催してみると、多くの人に来ていただき、とても良い結果を収めることができたんです。そこで、お店で働き始めようと決心がつきました。

現在は、日々のカフェ運営からフットボールブランドのグッズ販売、トークイベントの企画から当日の進行までを包括的に行っています。ある時はサッカーの映画について、またある時はサンバやボサノバについてと、この店ならではの企画で日々賑わっています。

実際にお店で働き始めると、店を回す経験等無かったため、手探り感はありますが、人が好きなこともあり、毎日知らない人と関わることができるのはすごく楽しいですね。イベントを通じて新しい取り組みが生まれる時などは、特に非常にやりがいを感じます。

また、テーマの一つであるラテンについては、ヨーロッパに比べて日本では認知度が低いのが現状です。だからこそ、自分自身の可能性を広げてくれた、フットボールやラテンを広めていくことに、このお店を通じて貢献していきたいという思いもあります。

性分的に何歳までにこれをする、というのを決めるのは相性が悪いので、まずは自分が楽しいと思うことを形にすることに誠実に向き合い、その範囲を広めていくことに打ち込んでいければと思います。

そんな風に、新しい環境でも挑戦を続けていければと思います。

2015.05.22

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