みんなの背中を後押しして希望を与えたい。 音楽からベンチャーへ、元プロドラマーの挑戦。

人気ロックバンド「Aqua Timez」のドラマーとして13年間活動した田島さん。音楽業界を離れ、選んだセカンドキャリアは、女性向けのライフキャリア支援サービスを展開するベンチャー企業でした。音楽業界を離れ、企業に転職した背景とは。お話を伺いました。

田島 智之

たしま ともゆき|株式会社 LiB人事部・新卒採用担当
高知県出身。 NHK紅白歌合戦にも出場し、2018年まで活動したロックバンド「Aqua Timez」のドラム担当。2019年1月、株式会社LiBに入社。

環境を変えた1つの選択肢


高知県高知市で、4人きょうだいの末っ子として生まれました。父は物事を強制しない自由な人で、一度も「あれをしなさい、これをしなさい」と細かいことは言いませんでした。父の影響もあって、自由にのびのびと育ちましたね。

小学5年生の時、家の購入を機に引っ越し、市内の別の地区の学校に転校しました。転校先でいじめに遭いました。転校生を受けつけない雰囲気だったんです。担任の先生も理不尽で、味方をしてくれる感じはありません。この先、何もしないとずっといじめられ続ける、何とかしなければと思いました。

この問題を解決するために、2つの選択肢が浮かびました。同級生や先生に立ち向かうか、環境を変えるために違う中学校に行くかです。自分の力だけでいじめに立ち向かうのは難しいと思い、環境を変える選択肢を選びました。勉強して私立の中学校に行くため、親に「塾に行きたい」と言いました。親に心配をかけたくなかったので、いじめられているのは、内緒にしていましたね。

進学した中学校ではいじめを受けることもなく、バスケットボール部に入り、3年間打ち込みました。仲間と青春の汗を流し、たくさんの友人もできて本当に楽しかったですね。

音楽、ドラムとの出会い 


中高一貫校だったので、受験せずに高校に進みました。1年生の時、仲の良い友達が突然、「俺はギターを弾きたい。バンドをやる」と宣言しました。「僕も加わりたい」と思い、小学校の時に鼓笛隊で小太鼓を叩いたことがあったので、ドラムを担当することに。4人組のバンドを結成し、練習を始めました。

「ドラムはめちゃくちゃ面白い。バンドは楽しい」と思いました。演奏している時に「音と音」だけでなく、「想いと想い」が繋がる時があるんです。自分たちが思い描いた音楽を奏でられた時の高揚感や喜びは色あせませんでした。

「バンドをやる」と宣言した友達は、早々に挫折してギターをやめてしまいましたが、僕は飽きることがありませんでした。部活にも入らず音楽三昧の毎日で、「音楽でプロになる」と決心しました。

高校3年生の時、高校生バンドの日本一を決めるコンテストの全国大会に出場しました。数千組の中から予選を勝ち抜いて、18組しか出場できない舞台に立ったんです。うれしかったですね。

決勝の舞台は横浜スタジアムでした。 バンドの演奏は大成功で、ギタリストのメンバーが賞をもらいました。メンバーの活躍が誇らしいと思うと同時に、ドラマーとしての力量不足を痛感していました。「お前のドラムは最高だ」といつも仲間が言ってくれていたので、少し天狗になっていたんです。学校では1番かもしれないけど、全国にはもっとうまいドラマーがたくさんいた。それがすごく悔しくて、猛練習しました。

高校卒業後は、東京の大学に進学しました。親が進学を期待していたのもあって、メンバー全員で上京してバンドをやるのが得策だと思ったんです。オリジナル曲ばかり演奏していると音楽の吸収が足りないと思い、バンドの他に大学では、コピー曲を中心に演奏するの軽音楽同好会というサークルにも入りました。

学生時代、自分のバンドでは思うような成果が出ず、メンバーの意欲にバラツキが出てきました。本気でプロを目指すメンバーがいる一方で、音楽は趣味でもいいと考えているメンバーもいました。これでは、絶対プロになれないと感じ、大学4年の時にバンドは解散しました。

27歳、初めて人生を見つめ直す


その後別のバンドを組み、学生生活終了後はアルバイトをしながら活動しました。他のメンバーも働いていたので練習する時間もなかなか取れず、精神的にも肉体的にもきつかったですね。先が見えない中、どんどん年齢を重ねていく状況に「才能はあるのか。本当にプロになれるのか」と焦りや不安が出始めました。

主なアルバイトはコールセンター業務でした。長い期間在籍していたので役職も与えられ、あるとき2週間ほど中国に出張することになったんです。日本から中国にコールセンターを移管する企業からの依頼で、中国のコールセンタースタッフを教育する業務です。しかし、現地に行くと1週間後に移管が決まってるのに、全く教育が進んでいなかったんです。現地の社員はのんびりしていて、驚きましたね。このままだと、お客から苦情が来るだろうと焦りました。

これではダメだと思い、現地の社員に仕事の指示を出したんです。アルバイトの分際で生意気だ、クビだと言われたら仕方ないと思いました。ところが、指示を出したことが意外に気に入られ、現地の社員も評価してくれたんです。指示を聞いてくれたみんなの頑張りもあって、期限までに移管できました。

帰国する時、依頼先の部長が「バンドをやめることがあれば、連絡してほしい。それなりのポジションで入社してもらいたい」と言ってくれました。一つ課題を解決できたことも、そこに評価が付いてきたことも嬉しかったです。それまで音楽のことしか考えていませんでしたが、仕事に対して初めて喜びを感じた瞬間でした。

27歳の時、音楽への道筋が見えなくなりました。メインで組んでいたバンドで、なかなか成果が出なかったからです。元々は大学生の時にプロデビューをする予定だったので、遅れていることに限界を感じてしまったんです。

仕事の成功体験もあって気持ちに変化も出てきて、自分の人生を初めて根本的に見つめ直しました。最終的に、27歳まで音楽をやってプロになれないなら無理だと思い、ビジネスパーソンに方向転換する決意をしました。

決意から3日後の自問自答


アルバイトではなかなかキャリアアップは望めないと思ったので、ずっと続けてきたコールセンターの仕事をやめて、まずは派遣社員で働き始めました。本気で働いたときに、ビジネスの世界がどんなものか知ってみたい気持ちがあったからです。

働き始めて3日後、1本の電話がかかってきました。電話の相手は大学時代の軽音楽同好会の先輩。テレビ出演を果たすほどの人気バンドのメンバーで、活躍する姿を見ていました。

その先輩が「実は数カ月後にバンドがメジャーデビューするけど、ドラマーがやめることになった。君にドラムを頼みたい」と言ったんです。びっくりしましたね。

音楽をやっていたときなら、二つ返事で「もちろんやります」と言ったと思います。ただ、自分はもう音楽をやめて働き始めている。気持ちに一度区切りを付けて、ビジネスの世界で成功すると腹をくくったんです。この電話だけですぐに音楽に戻るのか、自問自答しました。先輩が「まずは1回会おうよ」と言ってくれたので、一度会ってバンド曲のデモ音源をもらいました。

家で曲を聴いて、雷が落ちるほどの襲撃を受けました。日本語の素晴らしさを感じる歌詞、独創的なメロディー、そして様々な音楽性の楽曲を高い完成度で演奏するメンバーのスキル。「このバンドに絶対入りたい」と心から思いましたね。

ドラムをやりたい。返事をすると、1週間後にメンバーとスタジオで音を合わせることになりました。これはオーディションです。力量が足りなければ新メンバーとして認めてもらえません。

この時、小学生の時と同じように選択肢が2つ浮かびました。1つはオーディションに落ちたときのことも考えて、仕事をやめずに練習を重ねる。もう1つは、3日前から働き始めた会社をやめて退路を断ち、ドラムに専念する。

「お前はドラムの腕が鈍っているのに、悠長なこと言っている場合じゃないだろう!」。答えはすぐ出ました。自分の心と向き合った結果、会社をやめ、1週間をドラム漬けにして自分の腕を取り戻す決意を固めました。会社とは当然もめましたが、「もう一度、自分の夢に賭けたいんです」と何度も想いを伝え、謝罪してなんとか退職を認めてもらいました。

ドラムに打ち込んだ1週間を経て臨んだ音合わせ。練習の甲斐あって、メンバーとして迎えてもらえることになりました。

メジャーデビューしてからの数ヶ月は、プレッシャーがすごかったです。いきなりデビューシングルが、全国放映の映画の主題歌に決まったんです。少し前まで全然芽が出なかったバンドマンが急にステップアップしたと思ったら、映画の主題歌のドラムを叩く。訳が分からない状況でした。

ドラムはバンドの土台となる楽器です。プロである以上、加入したばかりとは言え、当然高いレベルを要求されます。プレッシャーでかなり追い込まれましたが、元々負けず嫌いな性格なので、絶対に成功させると思い、やり抜きました。デビューの年には紅白歌合戦にも出場できて、最高の親孝行もできました。

もう一度、希望を伝えたい


辛いと感じる余裕もないほど忙しく活動しました。5周年を迎えたタイミングで数カ月のお休みをいただいて、初めてデビューからの時間を振り返るタイミングができました。5年間走り続けてきたので、バンドはガス欠状態。この状態からどこへ向かうのか、メンバー内で徹底的に話し合いました。

その中で出した結論は、自分たちのアイデンティティである「ボーカルの歌詞を届けること」を、一番大事にすることでした。それこそが、バンドが最も大事にしていて、ファンにも支持されていることだと再認識したんです。それに合わせて、歌や歌詞がきちんと届くように、曲もアレンジし直しました。

バンドの新しい方向性が定まった頃、音楽業界全体の売上は減少傾向で、CDの売上も落ちていきました。業界全体がCDではなく、ライブを重視するようになったんです。それに合わせ、バンドもライブパフォーマンス重視に移行していきました。

そんな中、僕はバンドマスターになりました。いいライブをするには、スタッフとのコミュニケーションが重要です。メンバーの話をまとめ、スタッフに伝える役割として活動しましたね。

5人で頑張った結果、ライブの評価は上がり、大型フェスにも出演でき、支持してもらえるようになりました。そんな、メジャーデビューから12年ほどたったある日、ボーカルが「このまま走り続けるのは難しい」と言いました。「これ以上のものを作り続けるエネルギーがもう持てない」と。

僕自身は、これまでずっと「絶対にバンドを守るんだ」と思って活動してきました。20代のころいくつものバンドを渡り歩いて、僕だけがプロのステージに立っている。一緒にやってきた仲間の夢や思いも背負っているから、この椅子を絶対に自分からは放棄しないと決めていたんです。さらに、ファンの方への想いもありました。いろいろな言葉やお手紙をいただく中で、ファンの人生を預かっているんだという責任感がありました。

でも、ボーカルの言葉を聞いたとき、「確かに難しいね」とすんなり受け入れている自分がいました。これ以上、5人で続けても素敵な音楽は届けられないと思ったんです。5人とも音楽に対して真摯に向き合っていたので、常に高い理想を掲げていました。もっと自由に楽しく音楽と向き合えばよかったのかもしれませんが、自分たちは作品を作るたびに、さらに高みを登らないといけないと思っていました。自分たちで高いハードルを設定し、それを超えなければならないことにみんな苦しんでいました。特にボーカルは作詞作曲をしているので、音楽の責任を背負って一番苦しんでいたのはわかっていました。

解散する。みんなでそう決めた後も、ファンを裏切ってしまったのではないかという思いもありました。実際に、解散を発表すると「バンドがなくなったら、喜びや希望がなくなる」という言葉をたくさんいただきました。

でも、ファンには「そうじゃないよ」と伝えたかったんです。バンドがなくなっても、みんなの人生は続いている。その中で、新たな希望や生きる喜びはたくさんある。それに気づいてほしい。それがメンバー全員の願いでした。これまでの楽曲のメッセージの中でも伝えてきた「希望」を、解散までにもう一度伝えたいと思いました。

解散を決断してからは、これまでの葛藤や苦しみから解放され、素直に楽しく音楽ができました。バンドの解散ライブは、これまでで最高のライブでした。最後にはファンにも想いは伝わったと感じています。

社会のために働きたい


バンド解散後、新しく何をするか考えました。ジストニアという神経の病気を左手に患っていたので、満足のいく演奏ができず、ドラマーとして活動していくのは難しいと思っていました。プロとして活動をしていくことだけが音楽じゃないと思い、ミュージシャン以外の道を探すことにしました。

仕事探しをする中で、はじめは音楽業界への就職も考えましたが、今まで支えてくれたファンや仲間のことを考えたとき、社会のために働きたい気持ちが芽生えてきました。

若い頃は自分のため、音楽で成功することだけを考えていました。だけど、バンド活動をした13年間を通じ、ファンや仲間が僕にいろんなモノを与えてくれた。その人たちのことを考えたとき、これからは自分のためだけでなく社会のために生きたいという思いが強く芽生えたんです。

しかし、ミュージシャンからビジネスマンに転身しようとする40歳の男を普通に雇ってくれる企業は多くありません。そんな中、ありがたいことに多くの友人が手を差し伸べてくれました。その中の一人、中学時代の同級生である、ITベンチャーの幹部の彼が、いくつか会社を紹介してくれたんです。

複数の会社と面談を重ねる中で、魅力的な事業プランや夢を語る経営者に出会いました。特にITベンチャーの経営者は、バンドマンと同じようなキラキラした目で語るんです。そしてそれを現実にする実行力もある。そんな経営者たちに圧倒されました。

ある会社の面談で、社員を「仲間」と呼ぶ社長に出会い、ピンときたんです。社長も僕のことを気に入ってくれて、「仲間と会ってください」と会社の合宿に誘ってくれました。合宿には社長と幹部、社員たち20人ほどが参加していました。いい意味で社長と社員の上下関係がなく、みんなが会社を良くしようと議論を交わしているんです。しかも、みんな目がキラキラしている。その様子を見て、この会社は素晴らしいと思い、入社を決断しました。

みんなの背中を押す人生を 


現在は、女性向けのライフキャリア支援サービスを展開する会社で、採用担当として働いています。ライフステージに合った女性のキャリア形成を支援し、さらに労働力不足という社会問題の解決にも挑戦している会社のビジョンに共感しているので、この会社にぴったりの人材の採用に向けて動いていきたいです。

僕は、人生のターニングポイントでの決断が全て良い結果になっているので、とても強運だと思うんです。でもそれ以上に、いろいろな人に助けられて、背中を押してもらいました。これからは、関わってくれたすべての人の背中を僕が押して、その人の視界が開け、前向きになれるような活動をしていこうと思います。

ミュージシャンや芸人、俳優など、一芸を貫いてきた人のセカンドキャリアにも興味があります。僕を含め、彼らはこれしかできないと思いがちですが、それでは自分の可能性を自分で閉ざしてしまいます。可能性はたくさんあって、一つのことを突き詰めて頑張ってきた人は、他に軸を移しても頑張れるんです。僕がビジネスの世界で結果を出すことで、それを証明したいと思っています。

バンドの解散発表の時、ファンを裏切ってしまうのではないかと思いましたが、バンドを解散しても届けられる希望があることに気づきました。バンド時代に送り続けてきたメッセージ同様、新しい希望や生きる喜びがあることを、僕と関わってくれたすべての人に伝えていければと思います。

2019.11.20

インタビュー・ライディング | 木村 公洋編集 | 粟村 千愛
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