物語を作ることで現実逃避してきた学生時代。映像による、社会の変容を起こしていきたい。
物語を書くことで、両親の不仲や学校でのいじめなどの辛い現実から逃避してきた田村さん。大学進学時に映像のキャリアを断念するも、ある友人と出会ったことで人生が一転。寝る間も惜しんで努力を重ねた結果、ついに作品が認められます。映像の力で社会を変えていきたいと話す田村さんにお話を伺いました。
田村 祥宏
たむら やすひろ|株式会社イグジットフィルム代表取締役社長
企業のブランディングムービーのほか、社会問題をテーマにした映像制作やプロジェクトのクリエイティブ・ディレクションを手掛けている。映画のようなストーリー性を持った映像表現が特徴。
物語を書くことで現実逃避
千葉県船橋市で生まれました。両親の仲が悪く喧嘩ばかりで、しょっちゅう怒鳴り声が響いていました。そういう時、僕のお決まりの逃げ場所はお風呂場で、浴槽に勢いよく水を出し、その音で外の喧騒が聞こえないようにしていました。水の音を大音量で聞いていると、外界から意識が遮断されて、僕の見たい架空の物語の断片が眼の前に浮かんでくるんです。
小学校2年生の時に童話『ごんぎつね』の続きの物語を書くという宿題があり、自分の書いた物語が表彰されました。珍しく両親がふたり仲良く褒めてくれたことがすごく嬉しくて、それから密かに自分のオリジナルの物語を作り始めるようになりました。
小学校では、友達がなかなか出来ませんでした。何しろ自分に自信が無く、それでいて負けず嫌いな性格。アンバランスな人間でした。中学校ではいじめも始まり、不良グループに目をつけられて常にビクビクとしていました。二人組を作る時には必ず余るタイプで、部活でもいじめられ、放課後の居場所がありませんでした。現実から目を背けて、頭の中で物語を夢想することが、次第に現実逃避のツールとなっていきました。
演劇制作が成功体験となる
中学校のクラスには「クラス日報」というものがあって、僕はそれに面白おかしく嘘の物語を書いていたんです。それを見たある先生に誘われて、1年生の途中からなぜか生徒会に入ることになりました。生徒会の子たちは、誰かを疎外することがなく、自分のことも仲間として受け入れてくれました。担当の先生もすごく良い人でした。
中学1年生の時に、3年生を送る会の催しとして生徒会で出し物を作ることになりました。生徒会の先生に「やってみる?」と言われて、自分が書いた推理ドラマを演劇でやることになったんです。
僕にとっては突然降って湧いた、自分のこれまでの集大成の場となり、全校生徒の前で自ら主演した演劇を披露することができました。たくさんの歓声をもらい、上級生からの評判も良く、演劇が終わった後に、生徒会の会長とハイタッチをしたんです。その瞬間が強く心に残り、忘れられない出来事になりました。
それまで団体競技が苦手で、誰かと一緒に何かをやり遂げることにやりがいを感じたことがありませんでした。演劇の体験を通じて初めて、みんなで協力して何かを達成する喜びを知り、自分の中での大きな成功体験となりました。
しかしその頃、家の貧困が深刻化し、食事も出来ないような状況にまで追い詰められました。家に借金取りが来るような状況で、夜逃げ同然に家を出て、地下一階のゴキブリだらけのアパートに住むようになりました。名字も変わり、ポッカリとアイデンティティーを失ったような状況で、その虚無感を物語を空想することで埋める日々でした。
高校に進学してからは、更に自分の殻に閉じこもるようになり、ひたすら物語を書くことに没頭していきました。現実では、死んでしまいたいと願うような孤独な日々でしたが、一方で将来は、脚本家になって映画を作りたいと思うようになりました。中学1年生での演劇制作の体験が忘れられなくて、自分で考えた物語を形にしていきたいという思いが強くなっていったんです。頭の中をそのまま実写化したいので、小説などの文章ではなく映像で表現したいと思いました。
ある友人との出会いから映画の世界へ
映画がやりたいと考えてはいましたが、どういう進路やキャリアを選んでよいのか、深く調べようともせず、踏み込めずにいました。加えて就職氷河期。家が貧しかったこともあり、迷惑を掛けないよう手に職を、という思いが強くありました。結局は臆病な気持ちから、憧れている世界に飛び込むことが出来ず、情報系の大学を選択しました。
大学では、ある友人と出会ったことが人生の大きな転機となりました。彼は高校の時にすでに起業していて、仲間を作るために中退予定で入学してきた変わり者。誰に何を言われようと、好きな服を着て好きな音楽を聴く。自分が好きなことに正直に生きていました。一方の自分は、それまでずっと好きなことを隠して、あのお風呂場のような安全な自分の世界に閉じこもっていました。映画を作りたいという思いも、周りから否定されるのが怖くて声に出せなかったんです。
彼の口癖は「人生一度きり。明日死んでも俺は絶対に後悔しない」。やりたいことを全力で、人生を懸けて体現している人間でした。自分はやりたいことを、やってみようともしないまま人生に絶望していたので、躊躇いもなく独自の人生を切り拓いていく彼に強く憧れました。行動に移さないような弱めの自殺願望はまだあったのですが、「いつ死んでもいいなら、やりたいことをまずやりきろう」と思うようになり、大学2年の時に彼と同じタイミングで大学を辞めました。
その後は、バイトをしながら専門学校の脚本コースに半年だけ通いました。講師の人が映画監督だったので、撮影現場に手伝いに行くようになりました。次第に「自分でも映画は作れるんじゃないか」と思うようになり、21歳で映画制作を始めました。脚本と撮影は自分が担当して、役者などは知り合いに頼んでやってもらいました。
1作目はヒーロー映画を作りました。ホームページ制作の得意な友人に、映画の予告サイトさながらの宣伝サイトまで作ってもらいました。すると、ある映画会社から「作品を見せてください」と連絡が来て、上映することが決定したんです。
22歳で、自身の映画を初上映することができました。昼間の上映にもかかわらず、小さな劇場がお客さんでいっぱいになりました。評判もなかなか良く、自信が付きました。次はデカくやってやろうと意気込んでいましたね。
猛勉強のすえに道が開けてくる
次の上映に向けて、バイトで一気に稼いでは、貯めたお金で映画を作っていました。居酒屋とパチスロのバイトを掛け持ちして、ひどい時は40連勤、睡眠時間が1時間半の時もありました。しかし、いざ2作目を上映するという直前にあるトラブルに巻き込まれてしまい、上映できず大きな損失となってしまいました。
トラブルの原因は不可避な外的要因だったのですが、僕は自分の実力の無さがそれを招いたのだと思うようにしました。そこからは、猛烈に勉強を始めました。シナリオの書き方、撮影の仕方、編集ソフトの使い方など、がむしゃらに学びました。実践しては反省し学び、実践しては反省し学びを繰り返し続けました。居酒屋のバイトを夜中3時までやって、そこから朝の9時まで勉強をするという生活でした。介護施設に住み込みで働き始め、そこでも10時間の出勤時間以外は全て映像の勉強に費やしていました。
学生時代、物語を作ることに全ての時間を費やしてきました。あの時の自分を、意味の無かったことにしたくない。その思いが強く僕を動かしていました。
ある日、スピーチイベントを主催するTEDxという団体から、プロモーション動画をボランタリーで作ってみないかと声を掛けてもらいました。そこで、初めて企業の方々に自分のポートフォリオを見てもらう機会を得ることができました。結果、イギリス大使館の関連機関が手掛けている、社会問題を考えるプロジェクトのカメラマンに抜擢されました。1年間のプロジェクトで、それを機にフリーランスとして独立しました。
それからは、仕事が仕事を呼ぶ形で、大企業のブランディングムービーなども依頼されるようになりました。自分が作る映像の特徴は、企業や課題の当事者、誰かの伝えたいメッセージを、物語を通して表現すること。単なる情報を伝えるための映像ではなくて、それがドキュメンタリーであれドラマであれ、まるで映画のようなストーリーになっている映像を作ることです。次第に自分が考えた物語を評価して、作家性を求めてくれる人が増えていきました。
自分が頭の中で考えた物語を映像化すること。自分がやりたいと思っていた世界でした。仕事も順調に入り続け、31歳で株式会社イグジットフィルムという映像制作会社を設立しました。
クリエイターが身近な社会にしたい
現在は、株式会社イグジットフィルムの代表兼フィルムディレクターとして、ストーリー性を重視した映像制作を行っています。数々の海外アワードも受賞し、そこからまた仕事の依頼が増えています。
ブランディングムービーを通して企業の課題解決をするほか、地方創生やダイバーシティ、福祉関連、いじめ、教育、難民などの社会課題にも映像制作を通じて取り組んでいます。2018年には「いじめ」をテーマにした作品として、いじめを受けている男子中学生が、タップダンスを通して自身の尊厳を見出す姿を描きました。今後は、日本における移民について取り上げていく予定です。
また、僕らクリエイターが社会と密接に関わることにより、クリエイターの価値やクリエイティブそのものの価値を高めていきたいと思っています。クリエイターやアーティストなどの作り手が、社会の一員として、隣人として、世の中に居場所を持つこと。それが現代におけるイノベーションを生む第一歩だと思っています。そんな世界観そのものをデザインしたいと思っています。
仕事で海外に行くようになって、海外ではクリエイターの価値がきちんと評価され、身近な職業になっていることを実感しました。例えばデンマークでは、映像の授業が高校の普通科の必修授業でした。それは映像のディレクターを増やしたいわけじゃなくて、現代社会において、映像やメディアへのリテラシーは必須のスキルだと考えられているからです。日本でも、僕らクリエイターがもっともっと社会に出て行って、皆が映像の重要性を理解してくれるようになれば、双方にとってきっと良い世界が生まれるはずです。
自分は学生の頃、脚本家になって映画が作りたいと思った時に、声に出しづらい社会の雰囲気を感じていました。自分がやりたいなんて言うのは恥ずかしいとか、周囲からバカにされるんじゃないかと思っていました。最初から脚本の道を選んでいたら、もっと凄いことができたんじゃないかという後悔もあるんです。作品においても、そして僕自身の在り方においても、僕のような生きづらさを抱えた人たちの、何か助けになるようなものを生み出していきたいと思っています。
2018.12.05