弁護士、上場を経て辿りついた故郷。新たな岡山県津山市を、仲間と作り上げたい。

弁護士、ベンチャー企業の上場を経て、地元を拠点に新たな挑戦に踏み出す山田さん。自分への矛盾と葛藤を乗り越えるために選択する日々。自分の心に正直に、好きな仲間と好きなことがしたい。故郷、岡山県津山市に戻り、地域文化のため新たな道を歩み始めた山田さんに、お話を伺いました。

山田 邦明

やまだ くにあき|地域を楽しむ人
岡山県津山市にて、好きな仲間と好きなことをモットーに、地元支援や地域文化のため、幅広く活動している。また、自身の「きりくちぶろぐ」というブログで日々情報、考え方等の発信を行っている。

嫌われて、そこから逃げて


岡山県津山市という人口10万人の街に生まれました。この街は、一般的に言われる「ど田舎」という感じではなく、生活することに不便はないけど、特におもしろいものがあるわけではないという中途半端な街でした。

小さい頃は、大人に「なんで?」と、何度も何度も聞く子どもでした。そのため、僕のことを嫌いな大人は先生を始め結構多く、よくめんどくさがられていましたね。一方で、物凄く可愛がってくれる先生も多く、そういった先生とは、今でも交流があるくらい仲良くさせてもらっています。

小学1年生の時に、地元でも強いと言われるサッカーチームに所属しました。サッカーは好きだったので続けていたのですが、中学2年生の時、それまで仲が良かったチームメンバーから嫌われるようになりました。生意気で自信家だったので、まあ嫌われるのもわかるな、という感じなのですが、当時は理解ができませんでした。サッカーをしに行くたびに「嫌われているわけがない、うん」と決心して行くのですが、嫌われているとしか思えない出来事が続く。「あー流石にこれは俺嫌われているな」と思った時は、色んな感情から涙が止まらなかったです。

その後、辞めるでもなく逃げるようにサッカーに行かなくなりました。そうすると、元チームメートと会うの気まずいんですよね。中学校ですれ違うとき、悪くないのにこそこそしてしまう、そんな感じでした。元々お調子者で児童会長をやるような性格だったのに、できるだけ目立たないようにしたくなって。教室の隅で本読んで、外を眺める生活になりました。

そんな時救ってくれたのが、ヤンキーの友達と担任の先生でした。ヤンキーの友達は「くんちゃんが嫌なら、サッカーも学校も行く必要はないんで?」と言ってくれました。これは衝撃的でした。小学校から続けていたサッカーと学校は、変えることができない所与のもの。それに行かないという選択肢があるということを、ヤンキーの友達が気付かせてくれました。やっぱヤンキーは、居場所のない奴の味方ですね。

また、担任の先生からは「山田は目が死んでるな。それは、お前に目標がないからだ」と、地元の津山で一番入学難易度の高い高専の過去問を5年分渡されました。サッカーをやらなくなって特にやることもなく、無気力で暇だったので、過去問を解いてみることにしました。そのうち、解けないのが悔しくなり、気がついたら勉強にはまっていました。もやもやした気持ちを考えるよりも、勉強することが楽でしたね。いい意味で、勉強に逃げていました。

ヤンキーの友達に支えられ、勉強という逃げ場を用意してもらえたことで、高専に進学することできました。

逃げとしての弁護士


高専での生活は僕にとってぬるま湯でした。ただぐだぐだと数年過ごし、付き合っていた彼女と仲良くしていました。ただ、その彼女が大学に行き、大学に行ってから20日位で振られてからは、女々しくも1年くらい引きずりましたね。夜思い出して辛かったので、疲れ果てるまで町中を走って、死んだように眠るみたいな生活をしていました。

とはいえ、流石にこれが一生続くのは嫌だなと思い始めて、考えました。「どうやったらこの苦しみから開放されるのか?」と。そこで辿りついた1つの解が、「日本で一番難しい試験に挑戦しよう」でした。経験から、勉強というのはいい逃げ場になることを知っていましたし、なんとなく弁護士はかっこいいなとも思っていたので。

弁護士になる、司法試験に受かる、ということを決めてからは、その方法論として、ロースクール(法科大学院)に入ろうと思いました。そのためには大学に編入しなければならないので、大学に進学することにしました。ロースクールでは法律を学ぶから、それまでは他のことを学びたいなと思い、筑波大学社会工学類経営工学科へ進みました。

辛いことと向き合うのではなく、勉強に逃げたおかげで、勉強にのめり込むことができました。

編入での出会いとロースクールでの挫折


筑波大学では、編入した学生同士で集まり、よく遊んでいました。大学の編入という少し変わった進路を選んでいる人たちは、考え方も変わっており、有り体に言えばおもしろい人間でした。後に入社することになるベンチャー企業、株式会社アカツキの創業者もここで出会いました。そんなメンバーで、日夜ああでもないこうでもないと答えのない問いについて議論したり、あほみたいに飲んでりして過ごしました。

一方で国の仕組みや政治に興味があったので、議員のインターンシップや選挙の手伝いもしてみました。泥臭い人間関係、お金の動き、人がどのように動くのかなど、とても勉強になりました。

ロースクールは、京都大学法科大学院へ進みました。ロースクール時代は、「できない自分」と徹底的に向き合いました。今までいたコミュニティーでは、頑張れば出来るのが当たり前で、頑張っている自負があった自分は、そこから自信を得ていました。しかし、ロースクールでは、自分が何度やってもわからないしできないことを、さらっとやってしまう人がいました。そんな時は、「自分の頑張りになんの価値があるんだろうか?」と何度も何度も自分に問いかけました。結局答えはないのですが、「誰かが凄いからといって、自分が頑張らない理由にはならないな」と思って自分を鼓舞していました。

だからこそ、結果にはこだわっていました。絶対に1回で合格する、それだけが頑張っている自分を唯一保っているプライドでした。そのため、司法試験の合格に必要なこと以外一切やらないと決めていました。元々誘惑に弱い性格だとわかっていたので、誘ってくれる友達たちとも距離を置き、一日の勉強時間を決め、その時間を超えるまで絶対に勉強をやめない生活に。ストップウォッチで時間を測り、トイレ休憩はそのストップウォッチを止める徹底ぶりでした。

それだけ自分を徹底的に管理して挑んだ司法試験ですが、合格することができませんでした。正直意味がよくわかりませんでした。「え、番号ない?え、なんで?」と。更に一緒に勉強していた友達は軒並み合格し、これから1年間1人で勉強するということを考えると、かなり暗い気持ちになりました。

そんな時に支えてくれたのは、無駄だと思って切り捨てていた友達たちでした。「いや、お前が受かる受からないとかしらんけど、俺はお前のこと好きじゃで?」と僕のことを受け入れてくれたんです。そんな友達たちのおかげで、自然体で試験に向かうことができ、無事2回目で合格することができました。

「弁護士」への無関心 


心の底から望んでいた「司法試験の合格」を得て、いわゆる一般的な「弁護士」としての仕事を始めてからびっくりしました。「あ、俺この仕事全く興味ない…。」と。それもそのはず、元々苦しいところから逃げるために定めた目標なんです。目標の達成自体には充実感を感じましたが、「弁護士」としてやりたいことは特にありませんでした。必死に勉強してなった職業なので、なんとかその中で生きる道を探しましたが、中々ピンとくるものはありませんでした。

そんな折、大学の同級生から、「ちょっと手伝ってくれない?」と誘われ、彼らが創業した、アプリやゲームなどを提供するベンチャー企業アカツキを手伝うこととなりました。株式会社アカツキの人は、優秀なのに青臭くて、鋭いのに優しくて一緒に働くのがどんどん楽しくなりました。そして、非常に優秀で尊敬できる上長が入って来て、その上長と一緒にアカツキを上場(IPO)させるプロジェクトを開始しました。

このタイミングで、アカツキに社員として転職することとしました。そこからは、いわゆる一般的な弁護士としての仕事ではなく、IPOプロジェクトにかかりきりとなりました。

IPOプロジェクトといえば凄そうに聞こえるのですが、実際に行う業務は書類の作成と、関係各所との調整にとどまります。いわゆるクリエイティブなことは何もなく、やらなければならないことを粛々としっかりやりきる。そして環境的にかなりの無理難題を突きつけられたとしても、決して折れることなくあらゆる手段を使ってやりきる。そういうお仕事でした。

そういう仕事の中で、何度も苦しい場面に出会い、今までの考えではどうしてもその苦しさから逃れられなくなり、考えをより高い次元に昇華させて乗り越えてきました。この時の苦しい経験、できない自分を許した経験、仲間と乗り越えた経験は、今の自分をしっかり支えてくれています。

自分にとって大切なもの


IPOプロジェクトを無事やり遂げた時、一度0になろうと思いました。今まで自分を形作っていたモノ、具体的には、仕事、可愛い女の子と遊ぶこと、お金、情報、居場所等々、一度全てを剥がして行きました。そうすると、自分の大切なものとして、家族、友人とならんで地元の岡山県津山市があることに気づきました。

これは正直、いやかなり、意外でした。結構きらいだったんですよね、地元。閉塞感があるし、なにか新しいことやろうとすると鼻で笑われるし。20歳になるまで出たくて出たくてたまらなかったです。

だから、現時点でなぜ、「なくしちゃいけない大切な物リスト」に入っているかは正直良くわかっていません。ただ、そう思ってしまった以上、素直にそれに殉じてみるのも一興だと感じています。そこで、地元に帰るためにアカツキを退職することとしました。

退職を決意し、改めて地元岡山県津山市で活動をしてみると、新しく多くのものが見えてきました。まず見えたのは、行政や地元企業の抱える課題、新しいことをしようとした際に足を引っ張る空気感、縄張り意識等々ネガティブなものでした。しかしその次に見えたのは、津山を良くしようともがいている若い人、行政と一緒に仕事を作っていくローカルベンチャー起業家、地元の祭りでおもしろいことをしてやろうとしているおじさん連中の姿でした。そのような人たちと夜遅くまで、「津山をどうするか」という答えのない問いについて語り合うようになりました。

そんな中で、まだ帰って1ヶ月程度ですが、津山産業支援のアドバイザー、ローカルベンチャーの新規事業開発、津山高専での講義、コミュニティースペースのコーディネーター、ゲストハウスの設立、地元祭りの踊り参加、学童保育等が決まりました。これらのことを今自分自身物凄く楽しみながら行えています。

このように日々楽しみながら生活し、その結果、津山のためになっていたら最高だなって考えています。あんなに嫌っていた津山なのに、今は津山のために自分の時間を使えているのは凄い幸せだなって感じています。

2016.08.23

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