僕がドラクエに救われたように。
人に生きる勇気を与える勇者になりたい。

子どもの頃からドラゴンクエストに夢中だった鈴木さん。親友の自殺と放射線医としての挫折をきっかけに、生きづらさを抱える人たちに寄り添いたいと思うように。コンテンツの街・秋葉原にクリニックを開業した鈴木さんが、医師として実現しようとしている本当の“回復”とは。お話を伺いました。

鈴木 裕介

すずき ゆうすけ|秋葉原内科saveクリニック院長
内科医。秋葉原内科saveクリニック院長。高知大学附属病院、細木病院、一般社団法人高知医療再生機構に勤務後、ハイズ株式会社でコンサルタントに。

勇者になりたい


愛知県安城市で生まれ、2歳からは千葉県船橋市で育ちました。子どもの頃はファミコンにすっかりはまって、特に『ドラゴンクエスト』に夢中でした。小学5年生の時に、ドラクエの世界を描いた『ダイの大冒険』という漫画で「勇者とは、勇敢な者のことではなく、人に勇気を与える者のことだ」 という言葉に出会って、僕もそんな勇者になりたいと思うようになりました。

小中学校では成績が良く、学級委員をやったりして、そこそこ人気者でした。ところが高校に入った頃から、溢れ出る「モテたさ」から自意識過剰になり、コミュニケーションに苦手意識を持つようになりました。すぐに顔見知りにはなれても、いわゆる「中距離の人間関係」がとても苦手で、そこから深い友達になれないのです。せっかく顔見知りになって興味を持ってもらっても、そこから近づくコミュニケーションが上手くないために、「思ったより面白くない人だな」って去られてしまう感じです。

その分、それを乗り越えて深い友達になってくれた人のことは、ものすごく大事にしようと思っていました。本当に「近い」と感じられる人たちとのコミュニケーションで得られるものを大事にしたい。そう思うようになりましたね。

大学は医学部を目指しました。医者が多い家系だったので、小さい頃からなんとなく医者になろうと思っていたんです。

ただ、現役での受験は、ことごとく失敗。生まれて初めてできた妖精のような彼女に3か月でフラれたことがあまりにもショックで、あろうことか、カッコ悪い自分を変えるためにと、受験真っ只中の高3の秋からストリートダンスにハマってしまったんですよね。学校の成績は下から3番目くらいでしたが、浪人すればなんとかなると思っていたんですよ。

浪人になって初めて気づいたのは、「医学部受験って、難しい」ということでした。医学部を目指すクラスに入りましたが、高校3年間ほぼ勉強していないので、全くついていけません。さらに不運だったのが、『風来のシレン』という超名作ゲームに出会ってしまったんです。受験期やテスト前にやるゲームって、背徳感も相まって、ただでさえめちゃくちゃ面白い。そこで、よりによって究極の名作に出会ってしまったんです。

さすがに親に申し訳ないのでゲームは夜にやるんですが、面白すぎて朝までやってしまって、昼間も勉強ができない。そんなことが続きましたね。結果、ほとんど成績が伸びず、一浪目は散りました。

ようやく本当に勉強を始めたのは二浪目の時。高校の時から片思いしてる竹原さんという女の子がいて、受験中にくじけそうなときに、他愛もないコミュニケーションで何度も支えてもらっていました。「この人にもし何かあった時、人任せにはしたくないな」と思いスイッチが入ったんです。

医者になれたら、自分がこころに決めた人を守ることができる。そう気づいて、なんとなく目指してきた医師への道が、ようやく自分ごとになった気がしました。ゲームも封印して、本気で勉強するようになりました。

その結果、高知大の医学部に、下から2番目の成績でなんとか合格しました。合格発表をホームページで見た時は家中が大騒ぎでした。高知に旅立つ時、見送りに来た母が泣いているのを見て、改めて、身近な人たちのために働くのが僕の役目だと実感しました。広くあまねく人のためっていうのはあまりイメージ湧かないけど、自分の目の届く範囲の大切な人に自分の力を使いたいと。

大学ではダンスばかりやってました。他には、学園祭の運営に夢中になったり、バンドを組んだり、楽しく過ごしましたね。

卒後後は、放射線科医になろうと考えていました。医学としての興味は特になかったんですが、教授に惹かれたんです。放射線科の教授は、僕が、こころの不調で休んでいた親友のぶんまで小テストを出したことがバレて留年しかかった時に、助けてくれたんですよね。どうせ働くならこういう人情家の下で働きたいなと。また、コミュニケーションが苦手で、手先は不器用、手術が嫌いで体力がない僕でも、消去法的に放射線科は向いているはずだとも思いました。

親友の自殺が人生を変える


研修医になって2年目の時、大学でずっと一緒にいた親友が自殺しました。彼は運動部のキャプテンで、成績も優秀で、めちゃくちゃ優しいやつで、人が気づかない他人の魅力に光を当てるのが得意で。彼の周りにはいつも人があふれていました。これから先、ものすごく多くの人を幸せにするだろうと感じさせる存在でした。

そいつが、研修のストレスもあって、うつ状態になって、亡くなってしまった。医者のくせに、何もできませんでした。あんなカリスマみたいなやつにそういうことが起こるってことは、自殺というのは本人の性格うんぬんの話じゃないんだと痛感しました。

その後、臨床研修医は、3割の人がうつになるほどの、世界共通のハイリスクな職業だと知りました。つまり、本人だけの問題ではく、仕組みや環境の問題なんです。組織というのは、放っておくと研修医や新人職員のような「最も立場が弱い人」に負担が集中します。マネジメントがない組織は人を不幸にすることを強く感じたんです。

親友に起こったようなことが二度と起こらないように、研修医のメンタルヘルスを守る「セーフティスクラム」という自助団体を同級生と一緒に立ち上げました。研修医の中には「命が助かりました」と言ってくれる人もいて、ものすごく意義を感じました。

メンタルヘルス問題のセンシティブさ、難しさも感じましたが、活動は県に認められて臨床研修の仕組みに入ることに。そこから、研修医たちが自らの研修環境を改善していく「コーチレジ」という活動に繋がっていきました。

そういった活動をする一方で、自分自身の職場では全くと言っていいほど成果が出せませんでした。後期研修医として所属した大学病院の放射線科での仕事ぶりは、本当にポンコツでした。とにかく正確性が求められる仕事だったんですが、僕はミスやエラーだらけの人間なので、見事なミスマッチでした。

指導医には「給料泥棒」と言われたり、ミスを医局会で吊るし上げられたり、どん底でしたね。セーフティスクラムなどの医局外の活動についても、ほとんど理解してもらうことができませんでした。消去法で選んだつもりの放射線科が「合わない」と分かったときは、絶望的な気持ちになりましたね。

医局から逃げた


放射線科を2年やった後、とにかくその医局から逃げ出したくて、県内の市中病院に異動することにしました。同時に、内科医に転向しました。放射線科が合わなかっただけでなく、医療現場の根本的な問題であるマネジメントに取り組むために、内科医ならより一般的に医療と関われると思って選びました。

また、県との取り組みにもより力を入れるようになりました。医局では何をやってもうまくいかないのに、高知県全体の医療環境を良くする活動は比較的に評価していただいたので、実現したいことの難易度と組織の大きさは比例しないことに気づいたんです。もう少し高知県の医療環境を良くする仕事をやってみたくなったし、その方が向いているかもしれないと思ったので、医療広報や、メンタルヘルス支援、キャリア支援など業務に携われる高知県医療再生機構にも入りました。

内科医として病院に勤めながら、県庁の中でも働くというスタイルです。多くの人のキャリア相談やこころの相談を受けているうちに、次第に「人の人生に関わるのって面白いな」と思うようになりました。

しかし、段々と、大きく変えられる部分が少なくなってきたように感じていました。過去の成功事例をメンテナンスするような業務の割合が増えて、飽きてしまったというか、歯ごたえを感じなくなってしまって。今のレベルの僕にできることはやりきった感じがあり、モチベーションが下がっていました。

それに、「もっとこうすれば」と新しいことを思いついても、それを実現するために組織を動かすには根回しや大人の振る舞いが必要ですが、僕はそういった保全的な作業がまるっきり苦手で、停滞を感じるようになりました。

そんな時、お世話になっていた東京の医療機関向けコンサルティング企業の社長から、「うちの会社に来ないか」と誘われました。社長は元外科医で「医療機関経営にマネジメントの考え方が浸透すれば、日本の医療はもっとよくなる」というビジョンを持っていて、僕は共感していました。

また、その方から紹介されて出会う人がみなエキサイティングで、「この人ともっと話したい」と思える人ばかりで。それが楽しいし、居心地がよかった。だから「僕のやりたいことは、これなんじゃないか」と考えるようになったんです。

さらに、経営者の知人に「どうして高知なの?今やっていることはフルタイムで高知にいないとできないことなの?君が5倍のスピードで成長できる場所へ行って、5分の1の労力を割けば済むことなんじゃないの?」と言われて、返す言葉がなかったんですね。「ああ、本当にその通りだなあ」って。

それで、高知を離れて、東京で医療機関向けの経営コンサルタントをすることにしました。ものすごく良いメンバーに恵まれて、本当に楽しかったです。マネジメントのスペシャリストになろうと、がむしゃらに働きました。

根源的な生きづらさに寄り添う


3年間コンサルタントとして色々な案件に携わらせてもらいましたが、次第に「あれ?俺、ひょっとしてマネジメントじゃないかも?」と思うようになりました。マネジメントの要素は「ヒト、モノ、カネ、情報」と言われているんですけど、僕は「ヒト」以外のことには興味を持てないと気づいたんです。

そんな矢先、大阪にいた知り合いの研修医の女の子から、相談を受けるようになりました。彼女はバリバリ働いていましたが、話を聞くと、本当はもう体を動かすこともできないくらいの精神状態だとわかりました。

大阪まで話を聴きに行くと「そもそも生きたいと思ったことがない」「自分がこの世の中に生きていいと思ったことがない」と言うんです。単純に病院の環境の話ではなくて、もっと根源的な「存在レベルの生きづらさ」を抱えていた。いま生きている世界を信頼することができず、恐怖の対象でしかなかった。「死にたい」と思うのが日常だったんですね。

僕が関わったときは、とくに恐怖がつよくて、病院から電話がかかってくるだけで怖くて数日間寝込んでしまうような状況でした。まず、彼女の希望を聴きながら、直接コミュニケーションを取らずに病院を辞める手続きを仲介しました。また、生活を建て直すための安心できる環境を作るため、馴染みがありサポート資源も豊富な高知県で家を探し、信頼するセーフティスクラムのメンバーや精神科の先生に繋いだりしました。

本当に聡明で魅力的な子で、この子の「死にたい」が「生きたい」に変わる瞬間を支えることを、みんなで夢見ていました。そういう可能性を感じさせてくれる、不思議な存在でした。


彼女が引っ越してからも、月に1,2回くらいのペースで高知に会いに行きました。風通しの良い新しい家を気に入ってくれたのか、少しずつ元気を取り戻していくように感じていました。

会ってもするのはドラクエの話くらい。彼女の「死にたい」が無くなることはなかったけど、きっとそれは時間がかかることだろうと思っていました。

「死にたい」という希望に対して、医師は「死なないように約束する」のがセオリーです。でも、彼女が生きている苛烈な世界を目の当たりにして、「僕に免じて死なないで」なんて約束を押し付けることがいかに傲慢であるか、やりとりの中で痛感したんですね。「死んでほしくない」というのは、僕のわがままでしかなかった。それでも、なんとか生きてほしい。「もしかしたら、この世界には、安心して希望を持てる場所があるのかもしれない」という可能性を信じてほしかった。

他愛もない雑談の中で、ドラクエの3作目まではやったと彼女がいうので、僕は「面白いから、4もやろうよ。ドラクエ4は名作だから、やらないと損だよ」と言ったりして。すると次に会った時に彼女が「結構面白いですね」と言ってくれたので、「4やったら次は8がいいよ」なんて言って、どんどん次の約束をして。コンテンツでつなぎとめている感覚でした。

「今度ドラクエの11が出るから、それは一緒にやろうよ」と約束をしました。「死なないで」という約束はできなかったけど、また一緒にゲームを一緒にやろう、という約束はできた。ひとまずは、それでいいと思いました。「僕らのために死なないで」は無理でも、コンテンツが持つ力によって、死へ向かう気持ちが少しでもそれて、こっち側に傾いてくれればいいなという思いでした。

しかし、彼女はドラクエ11の発売日の翌日に亡くなってしまったんです。最後に高知で会った日の、1週間後の出来事でした。

その日から僕はドラクエ11以外何もしなくなりました。ショックから、ゲームに没頭することで逃れようとしたんです。ドラクエの世界に逃亡することで、実際にショックをいくらか和らげることができ、救われました。コンテンツの力を強く感じました。

でも、メンタルヘルスの問題に積極的に関わるのはもうやめたほうがいいかもしれない、と迷っていました。これだけ本気で関わっても、結局失ってしまうときは失ってしまう。そうなってしまった時のつらさに、もう耐えられないんじゃないかな、と思うようになりました。

そんなときに、大切な友人からから夜中に「私、死んじゃうかも」というメッセージをもらったんです。反射的に「行かなきゃ」と感じ、駆けつけて朝まで話をしました。それで彼女は今まで誰にもしてこなかった生きづらさの話を全て打ち明けてくれました。最後には笑顔も見せてくれました。

彼女は別れ際、「裕介さんのライフワークって、こういうことだったんだね。今わかったよ」と言ってくれました。そのことで一番救われたのは僕自身でした。

「ああ、僕はこれを続けていいんだ」と思い、泣きそうになりました。「根源的な生きづらさを抱える人に寄り添うこと」を、ライフワークにしようと、改めて思えたんです。「生きづらい人に生きる勇気を与える、勇者になりたい」と。

彼女は今、パートナーと結婚・出産し、前を向いて生きています。「大切な人が生きている」という事実が、僕にとって、1億円稼ぐことよりも、100億円の事業を興すことよりも、リアルに自分の人生に意味を与えてくれると感じた。医師になって本当に良かったと初めて心から思いましたし、自分が世の中とどう繋がるべきかをようやく知ったように感じました。

そうした経験から、自分の周りの大切な人たちが「生きづらさ」を抱えているときに、その人生の回復の拠点になれるような安心の居場所を作りたいと思うようになりました。「よい大人」が集まる口実と場所があれば、そこに安心できる日常ができるはずだと。それで、会社をやめて、クリニックを開業することにしました。

誰かにとっての勇者であるために


現在は、秋葉原内科saveクリニックの院長をしています。僕自身がコンテンツに救われてきたので、コンテンツのつくり手の街を選びました。このクリニックでやりたいことは、主に3つあります。

まず、コンテンツの作り手にとっての医療の入り口になること。頭痛や肩こり、腰痛、不眠といった、ものづくりをする人に多い困りごとの解決を主眼に置いています。コンテンツ産業の方たちが来やすいように、診療時間も夕方から夜間を中心にしています。

次に、生きづらさを抱えた人たちの逃げ場になることです。人が生きづらさから回復するには、まず自分に正直でいられる逃げ場が絶対に必要です。逃げ続けてきた僕が言うので間違いありません。診療が受けられる場であることに加え、「人の回復のストーリー」が生まれる場にしたいと考えています。

生きづらさを抱える人が増えている背景には、既成のストーリーが自分に当てはまらなくなったことがあげられると思います。一昔前は、「郊外にマイホームを建てて大型犬を飼って暮らす」みたいな、幸せを象徴するような明確なストーリーがありました。しかし、現代は、それが定説ではなくなった。理想的に見える家庭から、考えられないほどの生きづらさを持った子が生まれてくることもしばしばです。

それに、他人の幸せそうなストーリーがSNSなどで流れてくる中で、みんな自分の人生のストーリーを疑う機会が増えました。既製のストーリーでは、もはや幸せになることが難しいように感じます。

必要なのは、他者の否定や自己批判に耐えうるストーリーを構築すること。それがあれば、自分に対しても外に向かっても幸せだと言えるようになります。そんなストーリーの構築をサポートできればと思っています。

具体的には、「コンテンツ処方ラボ」を作りたいと思っています。相談に来た人に、薬だけではなくコンテンツを処方しようというものです。よく分からない苦しみや生きづらさを持つ人に対して、例えばその人の持っている生きづらさとよく似たストーリーのコンテンツを紹介する。人はなにかの作品の中に自分を見つけたときに、自分の苦しみに輪郭をつけることができます。それだけで、ものすごく苦しみが軽減するんです。

たとえば、自傷行為は、よくわからないこころの苦しみを、体の痛みに置換することで受け入れやすくする、という側面があります。同じように、生きづらさや苦しみをさまざまな作品の描写の力を借りることで、言語化し、捉えやすくする。そのことで、自分のストーリーを再編集する手助けができるのではないかと考えています。もちろん、直接問題解決に繋がるような専門家の書籍なども紹介していきたいです。

また、このクリニックはスタッフにとっても安心できる居場所にしたいと思っています。むしろ、スタッフにとっての一番の安心でありたい。それはスタッフが僕にとって最も大切な人たちだからです。

僕自身がスタッフのさまざまな変化に、一番影響を受けています。人がポジティブに変化するためには、とにかくウソがなく本音が引き出される環境が必要です。それが「安心」ということなんじゃないかと思っています。

「仕事」という営みが行われる場で、それを得るのはものすごく難しいんですが、少なくとも「爆速成長」とか「拡大ありき」ではなくて、一緒に働く人にとってより幸福度の高いのは何か、という選択をしていきたい。幸せになるのが難しくなったと感じるからこそ、それを一緒に考えていける「高幸福型の組織」を目指していきたいんですよね。

2018.11.08

鈴木 裕介

すずき ゆうすけ|秋葉原内科saveクリニック院長
内科医。秋葉原内科saveクリニック院長。高知大学附属病院、細木病院、一般社団法人高知医療再生機構に勤務後、ハイズ株式会社でコンサルタントに。

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