生駒市の現場から日本を変える提案を。 市民と協創する「面白い」まちづくり。
奈良県生駒市の市長として「自治体3.0」を掲げ、市民と市職員が協創するまちづくりを進める小紫さん。環境庁で政策の立案に携わっていた小紫さんが、縁もゆかりもない生駒市で市長を務めることになった背景、そして先進的な施策を打ち続ける想いとは。お話を伺いました。
小紫雅史
こむらさき まさし|奈良県生駒市長
大学卒業後、環境庁に入庁。NPO法人プロジェクトK(新しい霞ヶ関を創る若手の会)を設立し、副代表理事に就任。2011年、環境省を退官し公募で生駒市副市長に。2015年、生駒市長選で初当選し、生駒市長として市民と職員が協創するまちづくり「自治体3.0」を掲げている。
自由からの逃走
兵庫県小野市で生まれました。幼い頃から活発で、何にでも挑戦する子どもでした。そろばんや将棋やファミコン、水泳にソフトボールなど、興味のあることには積極的に手を出していましたね。目立つのも大好きで、児童会長を務めていました。夏休みにはガンガンに日焼けして遊び回って、毎日楽しかったです。
ただ、学年が上がるにつれ徐々にハツラツとした明るさがなくなり、高校では優等生キャラでした。生徒会もスポーツもやっていたので楽しく過ごしてはいましたが、なんとなく世界が狭いような気がしていましたね。さらに、高校は全寮制だったこともあって、丸刈りじゃないとだめとか、マンガ雑誌を読んじゃだめとか、規則も厳しくて。大学は東京に出て、思う存分好きなことをしようと決めました。
大学入学当初は、いろんな部活に入って自由に過ごしたいと考えていました。しかし、最終的に、週6日練習する水球部に入ることを選んだんです。週6日やることが決まって、ちょっとホッとしている自分がいました。自由になりたかったはずなのに、いざ自由を手にして不安になっていたんですよね。水球部に入ることで、何をしたらいいかわからない不安、自由から逃走したんです。
中学、高校、大学とすごく楽しかったですが、自分の中ではなんとなく「小さくまとまってるな」「視野が狭いな」という感じがしたまま卒業しました。
霞ヶ関を創る若手の会
父が地方公務員だったこともあり、高校生くらいから漠然と将来は公務員になりたいと考えていました。就職活動の一環でいろいろな省庁を見て回る中で、惹かれたのは環境庁でした。環境庁の先輩から新しいことにどんどん取り組もうとしている攻めの姿勢を感じて、面白そうだと思ったんです。内定をいくつかもらったのに国家公務員試験に落ちてしまったりして1年留年しましたが、なんとか環境庁に入庁できました。
入ってからも、環境庁の印象は変わりませんでしたね。法律や権限などの既得権益が少ない分、環境やエネルギーなどの分野でどんどん新しい企画を出していくことが求められる職場でした。入庁して間もない私も、「なにか面白い企画はない?」とアイディアを求められる環境でしたね。
入庁した年、京都で地球温暖化の会議が開かれました。地球温暖化防止の機運が高まることを見越して、ハイブリッド車の税金を下げるプロジェクトが立ち上がり、私も参加することに。それまで売れば売るほど赤字だったハイブリッド車をこのタイミングで応援しようと、税の勉強をし、他省庁の職員とも一緒に施策を練りました。
主体的に考えて作ったものが、関係者との調整や激論の中で形になっていくのがすごく面白かったですし、「政策ってこういう風に作るねんな」と学べました。それからも、幹部の応援もあり、主体的に企画を練り、形にする経験をたくさんさせてもらいました。主体的にどんどん動くスイッチが入り、いろんな人と一緒に楽しみながら企画を形にしていく面白さを知ったのは、まさにこの時期ですね。
その後、しばらくアメリカへ留学しました。霞が関を離れ、職場を客観的に見てみると「働き方が変だよな」と強く感じたんです。後輩が倒れたとか、鬱になったとかいう情報も入ってきていました。みんな不眠不休で頑張っているのに成果が出ないし、評価されない。これはなんとかしなくてはいけないと問題意識を持つようになり、同じく霞が関で働く友人と一緒に、「プロジェクトK(霞ヶ関を創る若手の会)」というNPOを立ち上げました。
霞が関を批判する声はそれまでにもありましたが、それらはすでに省庁をやめた人間からの無責任な声に聞こえました。対岸からの声では、現場はなかなか変わらない。霞が関の内側から、若手だからこそできることをやっていくべきだと思ったんです。
プロジェクトKでは、主に業務改革、官邸機関の強化、人事の3つを主軸に活動しました。自治体の職員や民間企業の社員、NPOや学生、いろいろな人たちの架け橋として、シンポジウムや意見交換会を開いて交流したほか、官邸にも説明に行ったり、メディアにも取り上げていただいたり。さまざまな人と話し、つながることでプロジェクトが形になっていく。それがすごく心地よくて、こんなに楽しい場所はないなと思いました。
生駒市の副市長になる
国家公務員としてチャレンジする一方で、段々と「県や市町村に行きたい」という気持ちが大きくなってきました。国は全国的に必要な政策を作りますが、実際に実行するのは県や市町村。省庁で政策を作っても、実行まで関われないんです。現場でいろいろな人と話しながら、政策を立案・実行する側にも回りたいと思うようになりました。
自治体は国よりも規模が小さいため、新しい取り組みを始めやすいはずなんです。たとえば、スーパーのレジ袋の規制は、国が先進的な自治体やスーパーマーケットの取り組みを真似て始めたものです。同じ様に、全国に横展開できるような新しい取り組みを、県や市町村から生み出せるのではないかと考えました。
しかし、環境省では、地方自治体に出向する機会は回ってきませんでした。外務省に出向して、3年間アメリカの日本大使館に行ったりと、官僚としてはありがたいポジションをいただいたのですが、地方行政に関わりたいという思いは消えませんでしたね。
さらに、アメリカから環境省に戻ってくると、地球温暖化対策を行う部署に配属され、再び激務が始まりました。文字通り仕事に忙殺される日々で、睡眠時間は毎日3時間以下。それに加えて政権では、政治主導の名の下に、複数の政治家が勝手な方向性を示すなどなかなか意見や方向性がまとまらず、政策を作っていても形になる気がしませんでした。寝ずに身を粉にして働いても、やるべきことが山積みで、それが形になるかもわからない。体力だけなら何とかなるのですが、不毛さが精神的にしんどかったんですよ。
そんな状態で働き続けた結果、ある日、急にスイッチが切れました。午前中の国会対応業務が終わった昼休み、ランチ中に上司が話しかけてきても、返事をする気にならない。一言も言葉を返せず、反応できなくなってしまったんです。心身のエネルギーが尽き果てた状態で、午後は何をしていたか覚えていません。
その夕方、もう仕事を続けるのは無理だと思い、家族に電話してから人事課長に会いに行きました。人事課長からは「今、突然やめても次どうするか決まっていないだろうから、まずは少し休んで、将来のことをしっかり考えなさい。次にやりたいことが見つかってから環境省をやめるなら応援するから。」と、ありがたい言葉をいただきました。
この人事課長は採用時からずっとお世話になっていた尊敬する上司。彼が人事課長じゃなかったら自分はどうなっていたかわかりません。ともあれ、結局仕事をしばらく休んだのち、民間企業と環境省との合弁会社に出向することになりました。
そこで私は仕事のかたわら、自分や家族の将来について改めて考えました。ちょうど2人目の子どもが生まれ、自閉症の診断を受けたところ。私まで体調を崩してしまったら家族はどうなるのか。今の仕事を続けて子どもとの時間をまったくとれなくても良いのか。このまま霞が関で働き続けることは難しく思えました。
ただ、前向きに考えた場合、この休みはもともと興味があった自治体での仕事や、霞が関以外のキャリアへの挑戦について考えるチャンスでした。民間の事業会社やコンサルティング企業などいろいろな道を探る中で、ある日ふと、副市長の公募に目が止まったんです。
奈良県生駒市。まったくゆかりのない土地でしたが、調べてみると市長も市民も面白そうで、興味をひかれました。行政が住民とのワークショップで環境基本計画を作っていて、「面白そうなことやってるな」と思ったんです。自治体に強い興味があったので、この公募になんだか運命みたいなものを感じてしまい、副市長に手を挙げることにしました。
その結果、371名の候補者の中から無事採用されました。妻は、2人の子どもをかかえ、3人目の子どもがお腹にいる状態だったので不安も大きかったと思います。家族にとっても大きな決断。私の選択を受け入れてくれた妻には感謝しています。
しかし、一つだけ妻から条件を提示されました。それは、私から4歳になる長男に話をすることでした。長男は海外生活から日本に戻り、必死で環境の変化に対応して、ようやく幼稚園で新しい友達ができたところでした。
私はお風呂に入っている時、話を切り出しました。「パパお仕事が違うところになったから、引越ししないといけないんだ」と伝えると、長男は「わかった、でも幼稚園は一緒のところに行けるんでしょ」と言いました。
私はすでにこの時点で涙が止まりませんでしたが、気力を振り絞って「いや、幼稚園も新しい幼稚園になっちゃうんだよ。ごめん」と言いました。
どのくらいの時間でしょうか。おそらく30秒くらいフリーズして。そのあと、「でも頑張る」と。ようやくできた友達と一緒にいたいだろうに、それでも頑張ると言ってくれた。二人で泣いたその日のお風呂を、私は生涯忘れることはありません。
面白いことやってください
生駒市に着任すると、市長から「面白いことやってください」「政策をどんどん作ってください」と言われました。副市長の仕事は、市長のサポートや職員の統括、議会との交渉、現場でのコミュニケーションなどさまざまです。しかし私はそれらの仕事よりも新しい企画を生み出したり、改革を進める仕事を中心にやらせてもらいました。
まず取り組んだのが、採用の改革です。それまで生駒市では積極的な採用活動をしていませんでした。しかし、それでは優秀な人材は民間企業に流れてしまうし、これからの少子高齢化が進む時代に必要な「新しいことに挑戦する人材」を確保できなくなる。その危機感を自治体も持つべきだと思ったのです。
まずは、行ける大学の就職説明会には全部行き、採用プロモーションを始めました。また、従来の公務員試験を廃止し、民間企業が採用選考で導入している適性検査「SPI」を導入しました。公務員試験には、歴史の知識など民間企業では問われない一般教養が盛り込まれています。そのため、試験対策をしている人しか受験しにくい現状がありました。しかし、歴史の知識がすぐに公務員に役に立つわけでもありません。公務員試験をすぐにやめ、SPIを導入することで、民間就職を考えている人も受験しやすくしたんです。
より良い人材を採用するためには、はじめから公務員一本で考えている人だけでなく、民間就職を考えている人にも受験しやすい環境を整える必要があります。さらに、試験の時期も早め、民間企業との併願をしやすいようにしました。ほかにも、積極的に情報発信を行ったり、ポスターをスタイリッシュなデザインに変えるなど、さまざまな施策を行っていきました。
結果的に、たった1年で受験者が1000人にまで増え、人物重視の採用ができるようになりました。民間と併願する人も増えて、新入職員の質が変わっていくのを感じましたね。成果が出ると人事担当職員もやる気が出て、主体的に動けるようになる。採用改革から手をつけてよかったと思います。
また、採用改革のかたわら、私自身は、下水道や道路や消防など、他分野のことを勉強しました。様々な分野を知らなければ、市政は務まりません。生駒市はしっかりした職員が多く、仕事を教えてもらうことが圧倒的に多かったです。それが楽しかったですし、横軸が広がっていく感覚がありました。
職員と市民がともに汗をかくまちづくり
副市長として充実して働いていた矢先、市長が県知事選に出馬することになりました。その時、初めて自分が市長になる可能性を意識しました。
それまでは、副市長として実績をあげた後は、他の自治体に雇ってもらうか、大学の先生を目指そうかと考えていて、生駒市長になるシナリオはありませんでした。市長も若かったので、まだまだ続けると思っていましたから。ただ、市長がやめるなら、副市長として3年半働いてきた自分が立候補するのが、生駒市にとって自然だろうと思ったんです。
不思議と、「落ちたらどうしよう」というのはあまり考えなかったですね。結果としてなんとか当選して、生駒市長を務めることになりました。
市長になり掲げたのが「自治体3.0のまちづくり」というビジョンです。これまでの生駒市は、市民をお客様と捉え、市民のニーズに応える「自治体2.0」の状態でした。これに対し、市民をお客様ではなく、共に汗をかき協創していく仲間と捉えて、みんなでまちを楽しみ課題を解決していくのが「自治体3.0」。行政主導ではなく、市民と一緒にまちづくりをしようと考えたのです。
たとえば音楽祭。それまではプロの音楽家の先生にプロデュースをお願いしていたのですが、これを抜本的に見直しました。市民からコンサートの企画を提案してもらい、よさそうなものを組み合わせて「市民みんなで創る音楽祭」としたのです。
市民から提案の応募がなかったらどうしようと内心ひやひやしていましたが、どんどん応募がありました。結果的に、従来のクラシックだけでなく、ジャズや邦楽、民族音楽など音楽のジャンルも広がりましたし、子どもから高齢者まで楽しめるイベントになりました。聴きに来た人の満足度も参加者数も、大きく伸びました。
しかも、音楽祭に呼ばれた地元在住のアーティストが「生駒のために音楽で何かしたいという気持ちが芽生えました」といって、音楽を絡めたまちづくりを考え、実施してくれて。こんな音楽祭はどこにもないだろうな、すごいなと思いました。
もう一つ、生駒市の原点とも言える事例が、高齢者のボランティアです。高齢者の介護は通常、衰弱していくスピードをいかに落とすかというのがコンセプト。しかし生駒市では、高齢者に本気で元気になってもらうつもりで筋トレマシーンなども使って介護に取り組んでいます。
さらに、元気になった方にはそれでおしまいではなく、「みんなのおかげで元気になったんだから、後から続く人たちのために体操教室や脳の若返り教室のボランティアをやってくださいよ」とお願いしているんです。おじいちゃんやおばあちゃんは「人使いの荒いまち、生駒」って言ってます(笑)。
でも、一度元気になった高齢者が単なるサービスの受け手になるのではなく、提供側に回ることで、再び元気をなくすケースが明らかに減っています。出かける場所があり、仲間がいて会話でき、人の役に立てることで、人生に張り合いが生まれます。だからボランティアの方はいつまでもお元気だし、地域の人も助かっているんです。
ボランティアが増えると、それまで1カ所でしか開催できなかった体操教室が2、3カ所でできる。そこで元気になった方が次のボランティアになると、5、6カ所に増やすことができる。そうやって、元気な高齢者ボランティアとそれを生み出す仕組みを無限増殖してきたのが生駒流。厚生労働省からも先進事例として紹介されるほどになりました。
市民が主体となって動くことで、満足度や住み続けたい気持ちが高まる。市民に汗をかいていただいたほうが、行政が至れり尽くせりのサービスをするだけよりも住民満足度があがるんですよ。実際に市民や関係者の声を聞き、それを実感できました。
また、職員の意識改革にも力を入れました。私が赴任する前から、生駒市の職員は仕事の質が高くて、決められたことはしっかりやり、成果を出していました。市民からの評判も悪くなかった。
しかし、国や法令が決めたことをやるだけでは、これからの市町村は及第点をもらえないんです。地方創生の時代には、地域独自の課題に、地域の力で独自の取り組みを考え実行することが不可欠。その際、職員だけではなく、市民や事業者とともに汗をかいて対応することが重要。そのような考えから自治体3.0の方向に舵を切り替えました。
これまでの成功体験がある生駒市の職員には、戸惑いや不満もあったと思います。目指すものを変えたことで、考え方や行動を変えなければならなくなった。いきなり市長から「新しいことをどんどん考えろ」とか「市民を単なるお客さんと思わず、市民に汗をかいてもらうんだ」とか言われるんだから、最初は、「何を言ってるんだ、こいつは」という感じだったかもしれません。
それでも、市民と協創するまちづくりが必要だという思いを伝え続けました。職員が積極的に町に出て、面白いことをしている市民との接点を持ち、そこから新しい提案が生まれる。意識を変えるのはしんどかったと思いますが、施策の成果をしっかり広報したり、残業を減らしたりすることで、前向きに取り組んでくれる職員も増えてきました。
市町村から国を動かす
現在は、生駒市を全国初の「自治体3.0」にするため、新しい施策にも取り組んでいます。その一つが寄付。ふるさと納税だけではない寄付のあり方についても考えをめぐらせています。
市民に「手伝ってくれ、寄付をしてくれ」というのは、私らもものすごく覚悟がいることです。市政がボロボロだったら、市民に「税金もらってるくせに」と言われておしまいですから。でも、生駒市民からは、びっくりするくらいそういう声があがりません。生駒市職員の日ごろの仕事ぶりを、高く評価してくれているんです。「こいつらも頑張ってるんだから、俺らもできることをやらなあかん」「喜んで寄付させてもらいます」と。
そんな市民に支えられているから、職員も気を引き締めてこれまで以上の仕事でお返しする。そんな好循環を生むために、ボランティアや寄付を堂々と市民にお願いしているんです。もちろん、職員は今まで以上に現場に出ていかなければならないと思っています。生駒市が職員の副業を認めているのも、このような想いや考えに基づくものです。
市町村の仕事は、目の前に市民がいて現場がある分、霞が関に負けないくらい面白い。国のような縦割りでは見ることのできない、すべてのジャンルの現場がそろっています。ここで企画し、実行したことを全国のモデルとして横展開することもできます。成長できる魅力ある職場だということを伝え、いずれは市町村で働くことが一つのブランドだと認知してもらえるようにしたいです。
高齢者ボランティアを推進している生駒市の職員は、厚労省から現場の実情や制度への見解などについて相談を受ける存在になっています。その職員のように、全国から必要とされるキープレーヤーを、生駒市職員、生駒市民からどんどん増やしていきたいですね。
私個人としては、応援してくれる人がいるうちは、この生駒市で市長を続けたいと思っています。生駒市の人口は約12万人、これは日本国民の約千分の一にあたります。大きすぎず、小さすぎないので、ここでの成功事例は全国どこの自治体にも少しずつ共通部分があり、汎用性が高いはず。
生駒市から日本全体のモデルとなるような事例をつくり、地方創生を具体化していきたいですね。そして、国家公務員だったときに負けないくらい、それ以上に、この国に貢献できればと思っています。
2018.11.01