【2月8日開催】福田秀世 写真展・トークイベント“Vivi e lascia vivere.” -思うままに生きよ。自分は自分、人は人-
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「医療福祉エンターテイメント」を社会へ。
母の死、一生拭えない後悔から歩み始めた道。

岡 勇樹さん/医療福祉エンターテイナー

はてぶ

エンターテイメントを通じて医療や福祉を身近に感じてもらい、業界の活性化に繋げる岡さん。 自分のような「そのへんの人」に医療や福祉を知ってほしいと考え始めた背景にある「一生拭えない後悔」とは、どんなものだったのでしょうか。

分かり合えない孤独を、音楽だけが埋めてくれる

東京都国立市に生まれ、3歳からサンフランシスコで育ちました。日本の記憶は少ししかなく、小学生の頃から自分はアメリカ人だと思っていましたね。パールハーバーの時期になるといじめられたり、アジア人であることを馬鹿にされたりしましたが、周りと同じようにHIPHOPを聴き、ナイキのスニーカーを履いて一緒に遊んでいました。

ダンスやストリートパフォーマンスなども好きでしたね。非日常的で特別なものに感じ、憧れていました。それは勉強でも同じで、主要教科の勉強は嫌いでしたが、考古学のように日常とは離れた勉強にはのめり込みました。

11歳の時、親の仕事の都合で日本に帰ることになりました。「絶対に帰りたくない!」と、とにかく反発しましたね。

結局、抵抗は実らず、帰国して日本の小学校に通うことになりました。日本とアメリカでは勉強の進み方が全く違い、とても苦しみました。また、カルチャーの違いが大きすぎて友達ができず、いつも一人でいました。

HIPHOPも、ナイキのスニーカーも共感してもらえませんでした。もういいやと思い、毎日CD屋に行って音楽を聴いたり、新聞に出ていた考古学のニュースを切り抜いたりしていました。

高校に入ってすぐ、軽音部の新歓ライブを見て衝撃を受けました。ある曲を聴いた瞬間にバーンて全てがはじけて、感動して。ハードコアの轟音に包み込まれたんですよね。「この曲誰の曲だ?」ってなって。やられちゃって。軽音部に入った奴に、あの曲のアーティスト名を聞いてくれと頼んで、その日のうちにアルバムを全部買って、聴きまくって。自分でもバンドを組んでドラムを始めて。そこから人生が始まったような感覚がありましたね。自分が何年も蓄えていた音楽を外に出せるようになりました。

高校1年の時に、町田のライブハウスに初めて行きました。数々のアマチュアのハードコアバンド・パンクバンドがたくさんいて、暴れているのをみて、「なんだこの世界、最高だ」と思って、その中に飛び込みました。

はあはあ言いながらライブハウスの外に出ると、「どっからきたの?」と話しかけられて、音楽を語れる友達が初めてできて、「なんだこのライブハウスって、ヤバい」と。もうどっぷりハマりましたね。ずっと通い続けました。

高校2年から、米軍基地で働くアメリカ人の友達と一緒に、クラブにも通い始めました。そいつが結構な暴れん坊で。「お前クラブ行ったことないの?」と言われて、町田のHIPHOPのクラブに行きました。ちっちゃい頃から聴いてきたHIPHOPが、爆音で流れているじゃないか、と新歓ライブの時の衝撃がまた起きたんです。それから、一週間のうち曜日を決めてライブハウスとクラブに通いました。

昼間は高校でヘッドホンをつけて一人で大人しく弁当を食べ、夜な夜なライブハウスやクラブに出かける毎日でした。

母の死、一生拭えない後悔