映画に関わる仕事を選んだ5人の人生まとめ

大きなスクリーンで、人々に感動や喜びを与える映画。そんな映画に関わる仕事をする人生をご紹介します。



私の両親が映画や舞台好きで、私も5、6歳のころから一緒に映画を観ていた記憶があります。
母が毎晩私に本を読んでくれたり、毎年区の読書感想文のコンテストに応募していました。
その頃から映画を観た時や、本を読んだ時に、
登場人物と同じ気持ちになって、一緒に笑ったり、悲しんだり、気持ちが揺れ動く感覚が好きでした。

中でも頻繁に観ていた映画が特別に好きで、
6歳のころに見た『銀河鉄道の夜』は大のお気に入りでした。

ただ、映画コメンテーターのなり方がよくわからないし、
既に活躍されているコメンテーターの方を見ていても、
コメントできる立場になるには、ある程度の年次が必要になるなぁと思っていたんですよね。
そして、やりたいという気持ちを持ってさえいれば、
何歳からでもコメンテーターになれると考えて、就職を選ぶことに決めました。

元々、エンターテイメントが好きだったり、メディア系の仕事をする親の影響もあって、
大学卒業後は広告代理店に就職し、広告プランナーとして働き始めるようになりました。
実際に働き始めてからは、仕事を通して色んな方とお会いする機会に恵まれたり、
広告プランナー賞を受賞したりと、仕事はすごく楽しかったですね。

そんな社会人生活を過ごした4年目の春に、
大学時代のテレビ出演を知っていた知り合いに紹介を受けて、ラジオ番組に出演するようになりました。
その番組内で一度、「今週のおすすめの一本は?」という私のコーナーをいただき、
そこで私がリスナーのみなさんに、おすすめの映画の紹介をするという機会があったんです。

その時、やっぱり私はこれがやりたいことなんだな、と確信しました。
自分の大好きな映画を多くの人に発信できることが、何より嬉しかったんですよね。

それから、映画に関わる時間を意識的に多く取るようにし、
仕事と映画関連の予定を両立しようと試みたのですが、
それぞれの大事な予定がぶつかってしまう日が頻繁にできるようになってしまったんです。

そして、このままではどっちも中途半端になるし、これは何かのメッセージだと感じて
今後は映画一本でやっていこうと考えるようになりました。

東紗友美さんのインタビュー全文はこちら


映画がやりたいと考えてはいましたが、どういう進路やキャリアを選んでよいのか、深く調べようともせず、踏み込めずにいました。加えて就職氷河期。家が貧しかったこともあり、迷惑を掛けないよう手に職を、という思いが強くありました。結局は臆病な気持ちから、憧れている世界に飛び込むことが出来ず、情報系の大学を選択しました。

大学では、ある友人と出会ったことが人生の大きな転機となりました。彼は高校の時にすでに起業していて、仲間を作るために中退予定で入学してきた変わり者。誰に何を言われようと、好きな服を着て好きな音楽を聴く。自分が好きなことに正直に生きていました。一方の自分は、それまでずっと好きなことを隠して、あのお風呂場のような安全な自分の世界に閉じこもっていました。映画を作りたいという思いも、周りから否定されるのが怖くて声に出せなかったんです。

彼の口癖は「人生一度きり。明日死んでも俺は絶対に後悔しない」。やりたいことを全力で、人生を懸けて体現している人間でした。自分はやりたいことを、やってみようともしないまま人生に絶望していたので、躊躇いもなく独自の人生を切り拓いていく彼に強く憧れました。行動に移さないような弱めの自殺願望はまだあったのですが、「いつ死んでもいいなら、やりたいことをまずやりきろう」と思うようになり、大学2年の時に彼と同じタイミングで大学を辞めました。

田村 祥宏さんのインタビュー全文はこちら


そのなかで登壇したパネラーの一人が、パレスチナを訪れたときの経験の話をしたんです。私は「大学時代に訪れたシリアのために何かしたい」という想いを持ち続けていたので、興味が湧き、イベント後にその方に挨拶をしにいきました。そしてお話をしたところ、翌月に開催される、『ザ・デイ・アフター・ピース』という映画の上映会に誘ってもらったのです。

この映画は、1人のイギリス人俳優が、「365日のなかの1日から、戦いや争いのない日をつくろう」と国連へ「ピースデー」の制定を訴えかけ、それを実現した後、実際に紛争地に行き、ピースデー当日に本当に戦いがとまるよう働きかけ続ける、約10年間を追ったドキュメンタリーです。

映画を観終わったとき、「ああこれだ!」と思いました。シリアをはじめ、内戦や紛争のニュースは、期間が長引けば長引くほど、みんなあまり注目しなくなります。でも、365日の1日だけでも世界で戦いが続いている地域に目が向けば、間接的ですが、シリアのような国々のためになるんじゃないかと思いました。また、まもなく終戦70年を迎える日本において、もう一度「平和」をみつめなおす機会になるんじゃないかと思ったんです。

そこで、この「ピースデー」の日本における認知度を高めるために、この映画『ザ・デイ・アフター・ピース』を、日本国内の大学100校の学生さんたちの手で上映してもらおう!というプロジェクト「You Are the One Project」を立ち上げました。

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母が映画で観た世界に憧れて夢を叶えたような人だったこともあり、
小さい頃から家族でよく映画を観ていたんです。
映画自体が楽しいのはもちろん、家族で一緒に映画を観るあの空間も好きでした。
魔法使いの映画を観たらホウキにまたがってみたり、
刑事の映画を観たら刑事になりたいと思ったり、
映画でいろんな世界を知るたびに、わくわくと夢を思い描くような小学生でしたね。

そうやってコロコロと夢は変わっていましたが、小学6年生の時に、
「これだけ影響を与えられる映画ってすごい」と、将来は映画監督になろうと決めたんです。

そこで、ビデオカメラと、紙切り芸の代わりに東急ハンズで買ったマジック道具を持って、貯金全部を使って一人でケニアへ。
実際に行ってみると、電気もガスも水道もない平和な村でしたね。
マジックは下手だったのでウケませんでしたが、仲良くなった子ども達はとても可愛かったです。

ところが、ある日彼らに将来の夢を聞いてみたら、みんな答えられませんでした。
また、誰かが「先生」と言うと、みんな「先生」と言い出したんです。

それがすごく印象的で。
日本の子ども達に聞くと、いろんな答えが返ってくるのになと。

もしかしたら、テレビもないこの村では、子ども達は身近な大人の姿からでしか、
将来の姿を思い描くことができないのかもしれないと思ったんです。

その頃は毎日気持ち悪くて体重も落ちていたので、もう自分は死ぬに違いないと思いました。
自分は夢も叶えられなくて、誰も幸せにできないまま死ぬんだと、派遣の事務仕事中、
トイレに入るたびに泣きながら過ごすようになりました。

そしてとても不思議なのですが、もうすぐ死ぬかもしれないと思った時に初めて、
自分のためではなく、誰かのために何かしたいという思いが溢れてきたんです。
自分が夢を諦めた分、夢を追いかけている人を応援したいなと。
そして夢がない人には、映画で夢のきっかけを贈ることができないかと考えるようになりました。

教来石小織さんのインタビュー全文はこちら


一方で相変わらず映画は好きでよく見ていて、
高校3年生の頃に、地元の大学の映画研究会が開いた上映会で
『デリカテッセン』という映画を見て、

「世の中には、まだまだ自分が知らない、マイナーだけど素敵な映画が沢山あるんだ」

という、映画の奥深さに気付き、漠然と「映画監督になりたい!」と思うようになりました。

とはいえ、具体的にどうすれば映画監督になれるのかわからなかったので、
適当に大学に進学して、なんとなく生きていければいいと考えていました。

学に入るまでは、しっかりと映画の勉強ができると思っていましたが、
実際は写真やCG、テレビの授業など「美術としての映像」という観点の授業が多く、
思っていたほど直接映画に関わる授業はありませんでした。

少し期待していた環境とは違いましたが、大学の中には映画好きの人は沢山いたので、
やりたい人同士で仲間を募って、自主映画を撮るようになっていきました。

それまでただ見ていただけの映画を実際に撮ってみると、思っていたよりも難しく、
力不足を感じてヘコむこともありましたが、やればやるほどの面白く、
1年生の後半には小さな賞を頂き、どんどんのめり込んでいきましたね。

1年半ほどたったある時、細々と続けていた仕事の取引先である制作会社の方に、

「直前で監督が決まらなかったVシネマがあるんだけど、お前やってみるか?」

と声をかけて頂いたんです。

正直、どこまでやれるかわからなかったですし、不安も沢山ありましたが、
いい加減この堕落したネトゲ生活から抜け出さないといけない、と思っていたので、
お話を受けることにしました。

しかし、いざ映画を撮り始めてみると、かつて自分が撮っていた自主映画とは全く違い、
職業意識を高く持った方が集まって作品に取り組んでいるので、
現場の雰囲気から、プレッシャーまで何もかもが違いました。


東海林毅さんのインタビュー全文はこちら

2014.11.10