映画で創りだされた私の人生。映画業界に貢献する、映画ソムリエとして。
「映画ソムリエ」としてフリーで活動する東さん。広告代理店でプランナーとして働いている最中、やっぱり私はこれがやりたい!と自分の信じた道を進む決断をされました。そんな東さんの人生の礎になっている映画、そして映画と共に歩まれたこれまでの人生、そしてこれからの思いについて、お話をお伺いしました。
東 紗友美
ひがし さゆみ|映画ソムリエ
広告代理店勤務後、自身がつくり出した「映画ソムリエ」として、フリーで活動中。
ヒガシアター
映画の世界に魅了された小学生時代
小さい頃から、本や映画がすごく好きな小学生でした。私の両親が映画や舞台好きで、私も5、6歳のころから一緒に映画を観ていた記憶があります。母が毎晩私に本を読んでくれたり、毎年区の読書感想文のコンテストに応募していました。その頃から映画を観た時や、本を読んだ時に、登場人物と同じ気持ちになって、一緒に笑ったり、悲しんだり、気持ちが揺れ動く感覚が好きでした。
中でも頻繁に観ていた映画が特別に好きで、6歳のころに見た『銀河鉄道の夜』は大のお気に入りでした。カムパネルラとジョバンニという親友同士の猫が別れるシーンがあるのですが、カムパネルラがジョバンニと旅をともにしていた汽車を降り、列車にとり残されたジョバンニは、しばらく車両を歩いてからはっと我に返って「カムパネルラ!」と涙ながらに叫ぶシーンがあるんです。私、親が共働きで留守にすることも多かったので、このシーンに無性に共感したんですよね。
確かに、自分も親が家を出てって暫く立ってから寂しさを感じるなぁと思い返し、「人にとって本当に悲しいことは、その瞬間よりもしばらくしてから悲しみが押し寄せてくるものなんだなぁ」なんて思いました。そんな風に自分に投影したり、共感できる映画がどんどん好きになっていきました。
後押ししてくれた、映画の台詞
中学生からは、都内の中高一貫の女子校に入学しました。変わらず映画が大好きだったのですが、学校の友達とは新しいお菓子やコスメを教え合ったりして、情報を交換することが好きでした。私は基本的に人が好きで、人に共感してもらいたいという気持ちがすごく強かったんですよね。私の言ったことで、その人の為になることが何より嬉しくて、果敢に新しいものを取り入れて、良いと思うものはすぐに友達におすすめしていました。(笑)
そんな中学時代を過ごしていたのですが、規則が厳しい学校で自由を感じることが出来ず、自由な校風の他の学校に憧れるようになっていましたね。
そんなとき、「ニューシネマパラダイス」という映画を観たんです。その映画の中にある、「何をするにしても、自分のすることを愛せ、子どものころ映写室のことを愛したように」という台詞が、自分のもやもやしていた心に突き刺さりました。私も、自分が行きたい道に決めて、それをやり抜こうと考えさせられたんですよね。
それから予定していた附属高校へは進まずに、受験をして、高校からは成城学園附属高校に進学しました。高校では放課後は友達と遊んでその帰りに最新作の映画を観る、という生活を送りました。カラオケなども好きだったのですが、私はとことん映画が好きだったんです。デートの場所は決まって、映画館でしたね。(笑)
自分の興味、好きなことを伝えたい
そのまま附属大学に進学し、ミーハー精神で興味があったマスコミ学科に入りました。その学科はアナウンサーになりたい子がたくさんいたのですが、そんな子たちと一緒にいるうちに、私もアナウンサーになりたいと考えるようになって、アナウンサースクールに通うようになったんです。
そのスクールで知り合った人との出会いをキッカケに、テレビ神奈川やTBSをはじめ、いくつかの番組で女子大生レポーターとして出演させてもらうことになりました。
初めは憧れの世界に入れたということが嬉しかったのですが、回数を重ねるごとに、ナレーションや原稿を読んだりすることに物足りなさを感じるようになっていったんです。もっと自分の意見や想いを、自分の言葉で人に伝えたいと思ったんですよね。それに加え、テレビに出てみたい!というミーハー気持ちが満たされて(笑)、いつの間にかアナウンサーになりたいという気持ちは消えて、就職活動を迎えることになりました。
そこで改めて自分は何をやりたいのかを考えた結果、自分の好きな映画の素晴らしさを、自分の言葉で人に伝えていくことだと考えたんです。
ただ、映画コメンテーターのなり方がよくわからないし、既に活躍されているコメンテーターの方を見ていても、コメントできる立場になるには、ある程度の年次が必要になるなぁと思っていたんですよね。そして、やりたいという気持ちを持ってさえいれば、何歳からでもコメンテーターになれると考えて、就職を選ぶことに決めました。
元々、エンターテイメントが好きだったり、メディア系の仕事をする親の影響もあって、大学卒業後は広告代理店に就職し、広告プランナーとして働き始めるようになりました。実際に働き始めてからは、仕事を通して色んな方とお会いする機会に恵まれたり、広告プランナー賞を受賞したりと、仕事はすごく楽しかったですね。
映画への思いが確信に
社会人生活4年目の春に、大学時代のテレビ出演を知っていた知り合いに紹介を受けて、ラジオ番組に出演するようになりました。その番組内で一度、「今週のおすすめの一本は?」という私のコーナーをいただき、そこで私がリスナーのみなさんに、おすすめの映画の紹介をするという機会があったんです。
その時、やっぱり私はこれがやりたいことなんだな、と確信しました。自分の大好きな映画を多くの人に発信できることが、何より嬉しかったんですよね。
それから、映画に関わる時間を意識的に多く取るようにし、仕事と映画関連の予定を両立しようと試みたのですが、それぞれの大事な予定がぶつかってしまう日が頻繁にできるようになってしまったんです。
このままではどっちも中途半端になるし、これは何かのメッセージだと感じて今後は映画一本でやっていこうと考えるようになりました。
ただ、仕事もすごく楽しかったので、当然その仕事から離れることが寂しい気持ちもありましたね。また、今まであった安定した収入がなくなるということも不安だったのですが、それ以上に映画の仕事がしたい、という気持ちがはるかに勝ったんですよね。ラジオに出演させていただいて数か月後に会社を辞め、フリーで活動していくことを決めたんです。
フリーになってから、まずは「映画ソムリエ」という肩書をつくりました。学生の時は、名刺に書いてある評論家とか研究家ってどうやってなるんだろうと思っていたのですが意外と、みんな自分から名乗り出して呼ばれるようになってるなぁと感じたんですよね。そこで、私は「映画ソムリエ」として、あなたにあった映画を提案します、というスタンスでやっていこうと考えました。
それに伴って、「ヒガシアター」という自分のホームページを立ち上げたんです。そこで、ただの映画好きじゃなくて、本気で映画が好きでプロになりたいんだということを伝えようと思ったんですよね。まずは、自分が観た映画の感想を書いたり、色んな映画館を取り上げることから始めました。
記事を書いているうちに、そのホームページを見た方からウェブサイトで映画の連載をやらないかと声をかけていただいたんです。それから少しずつメディアから声がかかるようになり、それらが実績となって次の仕事につながるようになったんですよね。また、自分からも雑誌の編集部や新聞社へ手紙を書いて営業するようになり、連載を5、6ほど持つようになりました。
映画ソムリエ、東紗友美として
今後は、映画をおすすめするだけではなく、「映画ソムリエ」として映画館に寄り添った存在になりたいなと考えています。
ある時、年間600本も観た中で一番いいといった映画を家族や親友に薦めたときに、「DVDになるんだったら観るね」と言われたことが、すごくショッキングだったんですよね。人と映画をつながる間に映画館があるのにも関わらず、その映画館の存在が、今の世代の人達から離れていってるかもしれないと感じました。
あの大きいスクリーン、スピーカーがある映画館だからこそ、映画館で映画を観ると、その映画を忘れないし、誰と観たとか、どんな季節だったとか、思い出ができ、より一層楽しめると思うんです。映画は、映画館で観るために作られているのだから。
だからこそ私は、映画館に寄り添った存在になりたいです。
そうした思いから、現在は個人的に映画館の取材をさせていただいています。映画を紹介するだけじゃなくて、それを提供してくれる箱まで紹介できる人になりたいんです。
そうして、私が映画の発信者となって、多くの人が映画を通して人生にたくさんの思い出をつくり、良い人生を歩んでほしいし、映画業界に貢献できる存在になりたいと思っています。
2014.10.20