「最も耐え難い痛み」がある場所のために。
後悔したくないから本気でやり続ける。
日本で唯一のソマリアに特化したNGO「日本ソマリア青年機構」の全体代表を務める永井さん。何度も「君には何もできないよ」と言われながらも、どうしてそこまでソマリアにこだわるのか。根底にある後悔とは。お話を伺いました。
永井 陽右
ながい ようすけ|ソマリアの紛争を解決する
日本で唯一のソマリアに特化したNGO「日本ソマリア青年機構」全体代表を務める。
いじめへの後悔。弱きを助けたい
生まれも育ちも神奈川県海老名市です。小さな頃から、世界には自分しか存在しないかのように、わがままで好き勝手に生きていました。悪ガキグループの一員で、学校では先生の話を聞かないし、クラスでは目立たない子をいじめていました。何をしても先生は体罰をできないからと、舐め腐っていたんです。
親の言うことも全然聞きませんでした。中学受験をするように言われていたんですけど、当時バスケットボールにハマっていたので「勉強は無理です」と断って。中学、高校とバスケばかりしていましたね。
バスケは技術の差が如実に出るのが好きだったんです。サッカーだと、実力差のあるチームを弱者が倒す、いわゆるジャイアントキリングがよくありますが、バスケは他のスポーツに比べてああいうのほとんどないんです。レベル差によっては、それこそ相手をギタギタにすることができますし、練習をすれば自分が確実に上達していくのが分かるのも好きでした。
バスケ漬けの毎日でしたが、高校2年生の夏休み、2日間だけ練習が休みになったんです。そこで、ここぞとばかりに、クーラーを効かせた部屋の中パソコンでおもしろ動画をひたすら見ていたんですが、そんな時ふと、南太平洋に浮かぶ小さな群島国「ツバル」の特集が目に留まりました。なんとなく目を通すと、ツバルがバチカンに次いで世界で2番目に人口の少ない小国であること、その美しさから「天国に最も近い島」と言われていること、そしてその島は近い将来、地球温暖化による海面上昇で海に沈んでしまうのだと書かれていました。
これを知った時、言葉にできないほどのショックを受けました。ひとつの国が、ある日ポトンと沈む。そこに暮らす人たちも皆死んでしまう。その未来を想像した時、この世界にいる「自分以外の存在」を初めて強く意識したんです。ごく当たり前のことですが、自分が知らないところでも、人は暮らしている。知らず知らずのうちにその人たちの暮らしを奪ってしまうなんて酷いこと。とにかくツバルが沈むのを止めなければ、という使命感のようなものが自分の中に湧いてきたんです。
同時に、これまで自分が他人にしてきたことを深く後悔しました。それまで意識したこともない、会ったこともない他人の気持ちを推し量ると、これまで学校で自分がいじめてきた人たちがどんな気持ちだったか、どれだけ苦しい思いをさせてきたかが、何となく分かり始めたんです。
思い返してみると自分だって一時期、周りから変なアダ名で呼ばれて、すごく自尊心が傷つけられたことがあった。誰だってあんな思いはしたくないよな、と。
この時の休みは2日間だけだったので当然ツバルまで行くことはできなかったんですが、何かしたいという想いだけは、その後もずっと自分の胸に残っていました。今まで他人に酷いことばかりしてきたけど、これからは弱い立場にいる人を助けるために生きていきたい。そんなことを考えはじめた時に、今度は、ルワンダという国を知りました。歴史の資料集を眺めていた時に、その地で何万人もの人が虐殺されたと知ったんです。
人間は何て酷いことをするんだろう。ルワンダはツバルよりももっと大変な状況、何とか手を打たねばこれから先もっと多くの人が死んでしまう。自分に何ができるかは分かりませんが、とにかくルワンダに行こうと決めました。
今ここにある「痛み」のために
高校最後のバスケの引退試合は、私に強い後悔の念を残しました。本来は私が相手のエースのディフェンスにつくべきところを、体力が持つか不安だったので、私の次に身長の高いメンバーに任せたんです。私はオフェンスに専念したかったので。しかし結果、11点差で敗北。相手のエースが44点取ってたのに対し、私は33点。ちょうど11点の差で負けたわけです。
つまり私がもう少し頑張って、相手のエースをマークしつつ、同じだけのオフェンスを発揮すれば、ひょっとしたら勝てたんじゃないか。自分で限界を決めて本気を出さなかった後悔が、心の中に深く残っています。今でもランニングなんかをしていると、その時の記憶が急によみがえってきたりします。いじめとバスケ、その二つでとことん後悔しているので、もう二度とそんな後悔を持ちたくないという気持ちを持ち続けているんです。
高校卒業後、1年浪人して早稲田大学に進学しました。入学初日には早速、ルワンダと関われる学生団体を探し、4ヶ月後の8月、ついに自分の足でルワンダの地を踏みました。ジェノサイド記念館で、100万人以上が殺害された事件の記録を見ていくうちに「こんなことをした奴がいるなんて」と、虐殺を行った人、それを指示した指導者に憎悪に近い感情が湧きました。
ただ、それは過ぎ去った過去の話で、私が訪れた時には、ルワンダは既に平和な国でした。「アフリカのシンガポール」と呼ばれるほど経済発展が著しく、変な話、肩透かしにあったような感覚でした。
モヤモヤした気持ちを持ちながら、私はルワンダを後にしました。せっかくなのでもう少しいろんな場所を見たいと思い、帰りは経由地のナイロビで、数日滞在することにしました。ナイロビはヨハネスブルグに次いで「世界で二番目に治安が悪い都市」と言われている所。ちょっと怖い気持ちもあったんですが、この目で見てみたかったので、現地で仲良くなったタクシードライバーに、スラムなどにも連れて行ってもらいました。
その中で「イスリー地区」という場所の近くを通った時、ドライバーは明らかに憎しみを込めた目で周囲を見ていました。そして「ここはテロリストのソマリア人が住む地域だよ」と私に教えてくれました。ソマリア人と言われても、僕の目には他のケニア人と変わらないように見え「彼らは本当にテロリストなのかな?」という疑問が残りました。
その時のタクシードライバーの言葉が忘れられず、帰国すると私は、イスリー地区やソマリアについて調べ始めました。飢餓。内戦。無政府状態。出てくる言葉はどれも不吉な言葉ばかり。そして極めつけは国連のWEBサイトでした。ソマリアのことが「比類なき人類の悲劇」とはっきり書かれていたんです。写真や映像を調べると、見るも無惨な惨憺たる光景が目に飛び込んできました。
激しい怒りを覚えながらも感じたのは「ルワンダのジェノサイドと同じだ」ということ。今この時も、想像を絶する様な事態がこの世界において現在進行形で起きている。こここそ今、最も耐え難い痛みがある場所だ。その瞬間、ソマリアに行くと決めたんです。
ルワンダの時と同じです。何ができるかなんて分かりませんでしたが、大変な状況にある人のために何かをしたいと思ったんです。すぐさまソマリアで活動している国際NGOを探し始めました。
ところが、情勢が悪すぎて、NGOやNPOがソマリアで活動しているなんて情報は見つかりませんでした。唯一前線で活動していることが分かったのは「国境なき医師団」でしたが、医者ではない私を相手にしてくれるはずもありません。その国境なき医師団ですら、後にソマリアからは撤退してしまいました。その後何度もアフリカで活動している人たちに相談してみましたが「無理だよ」「諦めなさい」「今の君には何もできないよ」「最悪死ぬよ」と、否定的な意見をもらうばかりでした。
そんな時に出会った言葉があります。
「『本当に意味のある国際協力』とは、自分がやりたいことをやって『自己満足にひたる』ものでも、自分に専門性があることをやるのでもなく、『それ』が必要なことであれば、自分がどんなにやりたくないことでも実行し、専門性が必要ならそれを身につけていこうと努力してゆく、『姿勢』を言うのである」
これは国境なき医師団に長年携わってきた、山本敏晴さんの言葉でした。まさにこれだと思いました。私はソマリアが好きなわけでも、役に立てる専門性や知識を持っているわけでもない。だけど、今ソマリアでこうして「痛み」があるのだから、それを解決するために何か行動を起こすべきだ。その姿勢こそ、本当に意味のある国際協力なのだから。どんなに否定的なことを言われても私は諦めようとは思いませんでした。
若者だからこそできることを
どうにかソマリアとの繋がりを持てないかと思っていた時、一つのニュースが飛び込んできました。「ソマリアの遺児2人が早大合格」。それを見てすぐに私は、彼らが入った学部の建物の前で待ち伏せをすることにしたんです。
それから6日目、ついにソマリアから来た兄妹を見つけました。慣れない英語で「My name is Yosuke. I want to help Somalia.」と伝え、ソマリアを助けたいと思っていることを熱心に話しました。すると、手を打って喜んでくれ「一緒に世界を変えよう」と、その場で誓いの握手を交わすことができたんです。そして彼らの兄が以前所属していた、ソマリア人の若者がソマリアのために活動するNGOを紹介してもらいました。
それから、現地のソマリア人メンバーに加え、日本人メンバーとともに「日本ソマリア青年機構」を立ち上げ、本格的にソマリアのための活動をスタートさせました。
活動の中で、私たちがこだわっていたのは「若者だからこそできること」でした。資金の援助をするなら、当然大人と組んだほうが早い。だがそうではなく、若者だからこそできることが必ずあるはずだし、それをするべきだと。
ですが、一体どんなことができるのか、その答えはなかなか見つかりませんでした。ソマリア人が「日本人」に求めるのは、まずもってお金だったので「お金のない若者にいったい何ができるのか?」と言われてしまうんです。
そんな時、アフリカで活躍している建築家の坂田泉さんに「Realization」という言葉を頂きました。Realizationには「気づく」といった意味と「現実化する」といった二つの意味があるのですが、まずはソマリアの人とお互い気づき合い、しっかりした関係性を作り、それからできることを現実化していこう、という助言でした。それを聞いた時、葛藤の中に希望の光が差し込んだような気がしました。
それから、まずはソマリアで本当に求められていることは何なのかを把握し、きっちりと理解することを心がけました。ソマリアに住むメンバーと、毎週数回のオンライン会議を重ねるだけでなく、直接、現地の人の話を聞くために、ソマリア人の難民や移民が集まるケニアのイスリー地区に行くことにしました。
イスリー地区の人たちに、私たちに何を期待するかを聞いて回った結果、出てきたのは、一つは「治安の改善」。もう一つは「教育を受けさせるためにソマリア人を日本に連れて行ってほしい」ということでした。そのニーズに応えるために何ができるか。治安改善は自分たちが取り組むには少々大きすぎる問題だと思い、教育のほうに的を絞り、日本の学校に留学するためのプログラムを企画したり、現地との関係を創り上げるべく日本からサッカーボールを送りスポーツを通じて関係構築するプロジェクトを立ち上げたりしました。
ただそれでも「自分たちじゃなきゃできないことって、本当にこういうことなのかな?」という疑問は心に残り続けました。そして気づけば、あっという間に大学3年生になっていました。
ギャング自身が考え、行動する
その後も毎年、日本のメンバーで代わる代わるイスリー地区に足を運び、現地のニーズ調査をしていました。出てくる答えはいつも一緒で、治安と教育。治安改善に関しては私たちの手に負えないと思って、それまで触れずにいたのですが、ふと思い立ち、治安が悪いというけど、いったい何が原因なのかを現地メンバーに聞いてみました。
すると若者ギャングの存在を知りました。ソマリアの武装勢力の幹部がギャングのトップを務めており、彼らが若者を牛耳っているから、ソマリアの治安が悪化しているとのことでした。
それを聞き、ピンときたんです。若者ギャングをこちら側に取り入れることができたら、治安を改善できるんじゃないかと。というのも、ギャングはそれこそ僕たちと同じ若者。同じ世代の僕たちだからこそ、彼らとの間に、人としての繋がりを作れるのでは、と感じたんです。これこそ、私たちがずっと探し求めていた、自分たちにしかできないことでした。
それで早速、「Movement with Gangsters」というプロジェクトを始めたんです。これは、イスリー地区のギャングを10人から15人ほど集めて「イスリー地区にどんな問題があるか?」を話し合ってもらい、さらには、彼らに問題解決の行動まで促すものです。彼らをギャングだからといって駆逐するのではなくて、その思いを汲み取ることで仲間として受け入れるんです。
このプロジェクトのポイントは、ギャング自身の口から「ギャングの存在が問題だ」と言わせること。こちらから言うのではなく、自分たちで気づいてもらうんです。それを通して、問題を解消するためにいったい何が必要なのかをみんなで一緒に考えていくんです。
すると、学校に通えなかったり、途中でやめてしまったりしたことで社会に復帰できなかったという話が、ギャングの口から多く出てきました。そこで、学校と協力し、ギャングが小学生の前で話す機会を作ったんです。ギャングたちは自分の生い立ちを語った上で、子どもたちに「自分たちみたいなギャングになるな」と言って聞かせました。彼らからのこうした言葉は、日本人である私たちの言葉よりも、何百倍も説得力がありました。何よりギャングである彼らが、自身を問題と認め、そのようになるなと啓蒙をしたわけです。
こうしてプログラムを重ねていき、ギャング自身が問題を考え、その問題を解決するべく実際に行動し、それを称賛しつつ職業訓練やドラッグ対策などのサポートを包括的且つ長期的に提供するというカタチが出来上がりました。ギャングに自分たちが若者のリーダーだと自覚してもらい、アクションを起こしてもらう。そのアクションの方法はいろいろあって毎回変わりますが、根本の構造は全て同じなんです。
彼らとずっと友達であり続けるために
2015年に大学を卒業し、1年間イギリスの大学院で学ぶことにしました。紛争解決のニーズに対応するためには、高度なノウハウや専門知識が必要なので、それらを今、大学院で学んでいるんです。同時に、南スーダンの和平プロセスに関わったり、平和維持センターで武装解除の研修なんかにも参加しました。
10年20年のスパンで解決を図っていくマクロなアプローチももちろん必要ですが、現場レベルにフォーカスをあてるもっとミクロなアプローチも同時に必要です。そのような領域はとにかくハードで様々な困難が常に付きまといますが、やはりそこが重要なわけです。非常に高く緊急のニーズがあるわけです。
大学院を出た後は、紛争解決やカウンターテロリズムに従事する予定です。そこで、政府側が捕虜にした過激派の兵士や降伏した過激派を、いかにして脱過激化し社会に統合させるかという仕事をします。
できれば、政府直属の「アルシャバーブへのソフトアプローチチーム」に入りたいと思っています。政府側がどんなことをしているか、ブラックボックスになっている部分もあるので、そこで何が行われているかをきちんと知りたいですし、何より紛争解決の最前線で実際に行動しているのは当事者である政府だからです。ソマリアの場合、特にハイリスクの元アルシャバーブ兵士や外国人の元兵士などへの脱過激化プログラムなどは、極めてセンシティブなものなので、諸外国政府はもちろん国連ですら完全にアクセス権がありません。
その一方で、ソマリア政府だけでやりくりしているので予算や人的リソースが絶対的に不足しています。また、社会復帰とか脱過激化って、いかにその人の主体性を引き出すかが一つキーなので、「もう過激じゃなくなりました!」って本人が言っても、それが本当かどうか分からないなど、様々な問題が出てくるわけです。銃口を向けて無理やり社会復帰を迫って、首を縦に振らせても、意味が無いうえそれが再過激化の原因になることもあるんですよ。他にも、過激派の基準を設けず、現場でのあいまいな判断で兵士を牢屋に入れ続けたり、ソマリア軍の判断で即刻死刑にしたりなどといった問題もあります。
捕虜の脱過激化なり武装解除が進まないと紛争解決もままならないので、これは非常に重要なことです。今までの武装解除は、紛争が終わってからやる平和構築のプログラムだったんですが、ソマリアはそれを、紛争が終わっていないどころか活発な最中に、紛争解決の一手段として行うという、複雑な状況なんです。まさに今、紛争解決やカウンターテロリズムに沿った新しい形のDDR(武装解除・動員解除・社会復帰 )が求められています。
日本ソマリア青年機構の活動に関しては、現行のスキームである限り、プロジェクトの運営や各種マネジメントだけ行って、現場からは少しずつ離れていく予定です。いずれ私が30歳を超え、ユースでなくなる頃には、ギャングたちとも同じ目線では話せなくなり「あいつは誰だ?」みたいになってしまいますから。
でもこれからは、紛争地帯の最前線にいる若者が同世代。やっていくことはMovement with Gangstersに近くて、彼らをいかに主体的に武装勢力から離脱させるか、ですね。これが軍人ではない私ができる、僕だからできる紛争解決への極めて直接的なアプローチです。それに則して、もしかしたら日本ソマリア青年機構のスキーム自体が大きく変わるかもしれません。
ソマリアの活動を続けてもう5年が経ちました。私はこれからも初志貫徹で気高く生きていきたいと思っています。もう二度と、自分の限界を決めて挑戦から逃げることはしたくないんです。
初めてソマリアのモガディシュに行った時には、中心地で自爆テロがあり、私のお世話をしてくれていた方の甥っ子が亡くなりました。これまで、助けたいと偉そうに語りながら、何もできない無力さを何度も痛感してきました。
ですから私は、自分の生活ややりたいことを第一にしてキャリアを考えたくないんです。これまでソマリアのみんなと共に生きようなどとと言ってきたくせに、いざ大学を卒業して自分のキャリアを選択するときに、私だけ一回活動をストップして基盤を整えるとか、そういうのはしたくないんです。基盤を整えている間に一緒にやってきたメンバーが亡くなることだって十分に考えられるし、それでまた後悔するのは目に見えてます。
彼らとずっと友達であり続けること。それこそが、私が後悔しない、歩むべき道。今存在しない過去や未来を軸に行動するのではなく、今ココに拘泥して生きていくことで達成できることもある。そう信じています。
2016.07.29
永井 陽右
ながい ようすけ|ソマリアの紛争を解決する
日本で唯一のソマリアに特化したNGO「日本ソマリア青年機構」全体代表を務める。
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