田舎で親子孫三世代が過ごせる町をつくる。
日本一忙しい小児科医の挑戦。

日本一忙しい小児科医として、1日平均200名近くの診察を行う鈴木さん。医師として多忙にもかかわらず、親・子・孫の三世代が集まれるような地域づくりにも力を注ぎます。小児科医がなぜ町づくりに挑むのでしょうか。お話を伺いました。

鈴木 幹啓

すずき みきひろ|小児科医・三世代が暮らせる町づくり
和歌山県新宮市にて、「すずきこどもクリニック」を経営する傍ら、新宮MCスクエアを経営する「株式会社やさしさ」代表取締役を務める。

理容師ではなく、医師に


三重県伊勢市で生まれました。父は理容店を経営。父方、母方どちらも生粋の理容師家系で、私も将来は理容師になると思っていました。中学卒業後は理容系の専門学校に進もうと考えていました。

ただ、勉強は得意で、通知表の評点は5段階評価でオール5だったので、先生や親は私に「進学してほしい」という想いがあったようです。

勉強が得意になったのは、祖母の影響があります。両親の仕事が忙しくて、小さい頃は祖母の元に預けられました。祖母は、私を連れて散歩に行くと、近所の人に「この子はいい子なんだよ」と私を紹介しました。祖母に言われ続けるうちに、自然と「いい子にしてなきゃいけないのかな」と思うようになり、学校でいい子にしていると、勝手に成績が上がっていきました。一度いい成績をとり、周りから「優等生」と見られ始めると、その状態を変えたくないと思い、好成績が保たれていました。

中学生になると、親や先生の気持ちを考え、理容師以外の進路を考え始めました。親には「医者になるなら、床屋にならんでええよ」と冗談っぽく言われました。医師をかっこよく描いたテレビドラマを見たり、医師の物語を読んだりするうちに、本当に医師になりたいと思うようになりました。医師こそ本当の意味で世の中に求められる仕事だと感じたんです。医師に憧れを抱くようになると、他の選択肢は一切見えなくなりました。

医学部に進むために勉強に打ち込み始めましたが、中学時代は勉強があまり面白いと思いませんでした。どんなに頑張っても100点以上の結果が出ませんから。100点を取ってしまうと、その先に目指す目標がありません。しかし、高校に入ってからは、学校だけでなく全国模試などもあって、どんどん上を目指せます。上限がない環境で上を目指し続けるのが面白くて、勉強する深みにはまっていきました。

卒業後、一浪の末、自治医科大学に進学しました。自治医科大学は各都道府県が出資している大学です。学費は奨学金で賄われるのですが、その代わり、医師になったら各都道府県の医師不足の病院に戻ることが求められます。この時、将来は地域の病院で働くという進路が決まりました。

耐えられない子どもの死


大学ではラグビー部に入りました。小学生から高校生まで野球を続けていたのですが、野球部はあえて選びませんでした。自分のレベルと比べ、大学の野球部はあまり強くなかったので、これ以上は成長できないと感じたんです。ラグビーは、ほとんどの人が大学から始める初心者なので、頑張り次第でいくらでも上を目指せると思ったんです。

「常に上を目指せる環境にいたい」というのは、私の行動原理のひとつで、勉強でも同じです。医学の勉強は奥が深く、やってもやっても天井にたどり着きませんので、頑張り続けることができます。最終的には、医師国家試験の模試で、学年3番、全国で30番になりました。嬉しかったですね。同時に、学年で3番にもかかわらず全国で30番ということは、自分の大学は優秀な人が多いのだと分かりました。優秀な人の近くで切磋琢磨できることにも喜びを感じました。

6年間の大学生活を終え、医師国家試験に合格。三重県の総合病院で研修が始まりました。現在は2年間の研修が必修となり、様々な診療科を回る総合診療方式ですが、私が医師になった頃は違いました。ですが、自治医科大学は、総合的に医療を提供できる医師を育てる大学なので、卒業後2年間は、様々な診療科での研修が義務付けられていました。

内科を中心に、外科や小児科、麻酔科などで多くの臨床研修を行いました。内科では、がん患者をはじめ、病気で亡くなるたくさんの方をお見送りしました。初めて見送った時、こみ上げてくる感情を抑えきれずに、涙が流れるのを精一杯耐えました。冷静に看護師に指示をしたり、ご家族に気を遣ったりすることはできませんでした。

現場での経験を重ねるうちに、次第に、医師として人が亡くなることを受け止められるようになりました。命を軽んじているわけではありません。人は誰しも、いつか亡くなる日が訪れます。その日までに、できることを全て尽くすこと。その上で、人生最後の死を演出するのが、医師の仕事。感情に流されずに、冷静に死の時期を見つめ、ご家族にお別れをする機会を作ってあげる。それが、医師としての死への向き合い方だと考えるようになりました。

それでも、子どもの死には耐えられませんでした。ある時、病院内で夜中にすすり泣く声が聞こえました。それは小児科病棟からで、子どもを亡くした家族の泣き声でした。その様子は、他の大人の方が亡くなった時と何かが違うように感じました。人の死に慣れているはずの私でしたが、この時、自分の担当でもない子どもの死に対して感情が抑えきれなくなり、ただただ茫然とするしかありませんでした。

この時、命の重さには、差があるように感じました。子どもの命を助けたい。ちょうど、世の中では小児科医不足が叫ばれていました。小児科医になることこそ自分の使命だと感じ、2年間の総合研修を終えてからは、小児科での専門的な研修を受けることにしました。

田舎に骨を埋める覚悟


2年間の小児科研修を終えると、医師が不足している和歌山県と三重県の県境にある田舎の病院に配属となりました。赴任当初は、患者さんからの信頼を得られず、苦労しました。26歳と若く「この人で大丈夫か?」と不安がられ、患者さんに信頼してもらえないんです。

地域の方々に信頼してもらうため、自分なりにたくさん勉強しましたし、患者さんの心をつかむための工夫もしました。365日24時間、いつでも病院にすぐに駆け付けられる場所で過ごすと決めたんです。休みの日や勤務外の時間も、常に病院から30分以上かからない場所にいるようにし、車で行くような大型スーパーにも行かず、病院付近で全ての用事を済ませました。

そんな生活を送っていると、地元の方からだいぶ信頼してもらえるようになりました。2年経ち、転勤が決まった時には、子どもたちから「行かないで」と言ってもらえる程でした。

次の勤務先は、伊勢市の総合病院でした。そこでは、田舎の病院では難しい、高度な医療技術を学ぶことが求められていました。

3ヶ月ほどした時に、前の病院の患者さんだった子どもたちが遊びに来ました。驚きましたね。前の病院から、3時間以上かかる場所なんです。しかも、別々に二組の子どもたちが来てくれたんですよね。「どうしてここまで来てくれたの?」と聞くと、子どもたちは「帰って来て欲しかったから」と言いました。

この時、自分の進むべき道が見えました。継続的な医療を提供できる地域に根ざした医師にならなくては、と思ったんです。

総合病院での研修を1年間で終えると、以前いた和歌県の田舎の病院に戻りました。3年ほど働いた後、和歌山県新宮市に小児科医を開業しました。34歳。小児科開業医としては、最少年齢に近い年齢でした。

新宮市は人口3万人ほどの田舎の町です。それでも、多い日には一日に350人を超える患者さんを一人で診ます。平均して毎日200人近くの患者さんを診るので、朝の8:30から夜まで、休む時間はほとんどありません。食事やトイレに行く時間もないほどです。次第に「日本一患者数の多いクリニック」と呼ばれるようになりました。

親、子、孫の三世代が集まれる町


和歌山県で働くようになってから、趣味で釣りをしていました。海の幸が豊富な地域なので、どうせなら自分で釣って新鮮な魚を食べたいと思ったんです。

道具や船を出すのに少しお金がかかるので、釣り仲間は、自分よりも上の世代の方がほとんどでした。仕事をリタイヤされた方や、確固たる地位を築き上げた方が多いんです。釣りをしているとそんな人たちと、上下関係なしに仲良くなるんですよね。例えば、自分のところで育てている野菜を届けてくれたり、私が「その釣り竿かっこええな」と言えば、「やるよ。でもリールは高いからやらん」なんて言い合うような仲です。

10年以上も一緒に釣りをしていると、仲間が弱ってくるのを感じました。70歳だった人は80歳に、60歳だった人は70歳にと、年を取ってくるんです。「独身と聞いてるけど、この先どうするのかな?」と思ったり、釣りを一緒にしているときは元気でも、普段は酸素吸入器を使っているとか、しばらく見ない人がいると思えば入院しているとか、ことあるごとに心配する場面が増えました。

次第に、仲間に介護が必要になった時、私以外の事業所の人に見てほしくないなという思いが芽生え始めました。仲間は皆、様々な経験をされてきた尊敬すべき人たち。ひとつでも年上なら尊敬する私にとって、40歳も離れた人に対してはとても大きな尊敬の念を抱かずにいられませんでした。そういう人たちが、必要な配慮もされずに画一的な介護を受けるのかと思ったら、心が痛くなってきて。そんな思いをしてほしくない。それなら、自分で介護施設を作ろうと思ったんです。

私が突然、介護施設を作るなんて言うものですから、周りからは反対されました。でも、人生はひとつしかありません。やりたいことはやりたい。迷いはありませんでした。

分刻みのスケジュールの中で、高齢者施設を作る準備を始めました。高齢者施設は、安全な場所に建てる必要があります。太平洋に面している地域なので、水害などを考慮すると、海から離れた郊外に作る必要がありました。しかし、郊外に高齢者施設があると、家族がなかなか会いに行けないので、利用者にとっても家族にとっても、あまり親切ではないと感じました。そこで、高齢者施設だけでなく、同時に、親、子、孫の三世代が集まれる町づくりをすることにしました。

小児科医に来る子どものお母さんから、近くに遊ぶ場所がないという悩みを聞いていた影響もありました。新宮に住む多くの家族は、休日になると、車で二時間くらいかけて隣町にある新庄公園というところに行きます。そこで昼間は遊んで、帰りに白浜の美味しいパン屋さんでご飯を買って、新宮に帰ってくる、というサイクルを繰り返しているのですが、それを新宮内でもできないかと思ったんです。

新宮にも公園自体はありますが、あえて休日に行こうと思えるほど面白い場所ではありません。それに、市内で消費が進む場所がある方が、市にとってもメリットです。家族が気軽に遊びに行ける場所を市内に作ろうと思ったことも、三世代集まれる町づくりに取り組み始めたきっかけでした。

診療の合間に準備を進めていき、2016年4月に、介護サービス付き高齢者住宅や子どもが遊べる公園、さらには商業施設がそろった「新宮MCスクエア」をオープンしました。

信頼してくれる人のために命をかける


現在は、小児科医として毎日の診療を行いながら、新宮MCスクエアの管理を行っています。朝は日が出る前に起きて、診療が始まる前には、基本、医療の勉強と新宮MCスクエアの仕事はどちらも終わらせます。打ち合わせなどの電話は日中、診療の合間を縫ってするようにしています。

診療をしていて「病気のことじゃないんだけど」と言って、いろんなことを相談してもらえるのは嬉しいですね。また、小児科は最初から重い病気の人が来るわけではないので、ちょっとした風邪の子でも「この子危ないかも」と大事をとって、結果、重病を未然に防げた時などは、ご家族の感謝もひとしおで、とても大きなやりがいを感じますね。

今も新宮MCスクエア内にどういったものを作ればいいかは、常に考えています。自分の子どもと遊びにでかけている時も、「こういうところに人が集まるんだ」とメモや写真を取っていますし、診療中に子どもたちに好きなことや、やってみたい習い事などを聞きます。自分が地元に根ざして仕事をしているからこそ、地元にとって必要なものを作れるのだと思っています。

新宮MCスクエアは、まさに三世代が集まれる場所です。子どもが遊ぶ「海賊公園」があり、建物内には無料の託児所もあります。また、福祉施設内では、健康な方でも受けられるリハビリやマッサージを提供していますし、認知症予防の集いなどもあります。

高齢者施設では、人生の大先輩である高齢者のみなさんが、最高の暮らしをできるような環境を作っています。私がいる時は、必ず朝礼をして、「人生の大先輩である高齢者さんを一番に思います」と、意識の統一をしてスタッフを教育します。また、予算度外視で高級ソファーを置いたり、送迎用に高級車を何台も用意したりして、心地よい環境を作っています。

高齢者にとって、残りの人生は長いとは言えません。だからこそ、残りの人生を最高に過ごせるように、できることは全てしたいのです。ここに入りたい、ここに家族を預けたい、そう思ってもらえる場所を目指しています。

親、子、孫がみんなで集える場所をつくることで、新宮を住みやすい地域にしたいですね。田舎だと、買い物や習い事など、何をするにも遠くに行かなければなりません。同じようなことは、他の地域でも起きていますし、これからさらに加速します。「このまま住み続けて、ここで介護を受けられるのか?」と心配になる若い人も増えると思います。

ですが、これからは、蓄積してきた田舎のノウハウを活かして、新宮MCのような場所を全国に作って「田舎でも大丈夫」ということを示していきたいですね。田舎に何でもできる便利な町を作り、人口流出を防ぎ、人口が増加するようなきっかけにしたいです。全国の田舎の地域にいる自治医科大学の仲間たちと、手を組んでいきたいですね。

診療と街づくりのどちらもやっていると、ほとんど休みはありません。実際、ここ2年間は、一日も休んでいません。正直、文句を言いたくなる時や、発狂しそうな時だってあります(笑)。でも、どちらも自分がやりたいことですし、自分に期待してくれる方々もいます。だから、少しも辛いとは思いません。

私を信頼し、私にしかできないことに期待してくれる人がいるなら、命をかけてそれに応えたい。それが私の生きがいなんです。

小児科医としての診療も、三世代が集まれる町づくりも、やりたいことは全てやっていきます。

2016.05.10

鈴木 幹啓

すずき みきひろ|小児科医・三世代が暮らせる町づくり
和歌山県新宮市にて、「すずきこどもクリニック」を経営する傍ら、新宮MCスクエアを経営する「株式会社やさしさ」代表取締役を務める。

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