神奈川県横浜市で生まれ、伊勢佐木町で育ちました。小学生のころ両親が離婚し、父と母の間を行ったり来たりする生活を送っていました。父とも母とも関係性は悪くありませんでしたが、どことなく居場所のなさを感じ、両親にもわがままを言えない子どもでした。寂しさを感じないように、日々ゲームをしたり漫画を読んだり、友達と遊ぶことを考えたりして過ごしていましたね。

最終的に小学4年生のころ、自営業をしていた母に引き取られ、一緒に暮らすことになりました。父は僕に対して優しかったので、なんとなく引き剥がされた感覚があって。父と一緒にいたいという気持ちはありましたが、安定して暮らせる母と一緒にいた方が良いこともわかっていました。母とともに引っ越し、父とはそれ以来会わなくなりました。

中学ではサッカー部に入り、勉強も部活もそつなくこなしていました。自分自身が学歴がなくて苦労した経験から、母が大学に行けというので、エスカレーター式の私立高校を受験することに。高校受験のころ、血便が出るようになりました。おかしいなと思いましたが、特にそれ以外はなんともなかったのでそのまま放っておきました。

志望した高校には無事合格。ところが1年生の夏ごろ、原因不明の高熱にうなされるようになりました。薬を飲んでも良くならず、一カ月くらいその状態が続きました。全身を検査し原因を探す中で、医師に「もしかして血便出てた?」と聞かれました。はいと答えると内視鏡検査を受けることになり、そこでやっと潰瘍性大腸炎だと判明したんです。

潰瘍性大腸炎は大腸の粘膜に潰瘍ができる病気で、腹痛を引き起こします。治療のための食事制限が厳しかったので友達と外食もできず、どんどん疎遠になっていきました。かつて家庭で感じたように、学校でも自分の居場所がなくなっていくような気がしました。

病気のせいで、通学中に何度もトイレのために電車を降りていました。ある日の朝、途中下車したら、「もう学校に行かなくていいかな」という気分になって。降りた駅にとどまって、そのまま街で遊ぶようになりました。
 
そんな生活を続けるうち、「不景気だし病気もあるから就職できないだろう」とか、「就職しないなら大学に行く意味もないだろう」と考えるようになったんです。本気ではないですけど、居場所がないから死にたいと感じるようになりました。今を楽しく生きていれば、いつ死んでもいいや、と。

そのまま高校を卒業し、ぶらぶらとフリーターをしていたある日、急に目の前がチカチカして意識を失いました。腸管穿孔という大腸に穴が開いた状態になり、6リットル以上の大出血。体中の血液を全て入れ替えるくらいの輸血をし、本当に死にかける体験をしました。

前から死にたいとは思っていましたが、本当に死にかけて初めて、自分がぬるいことをしていたと気が付きました。どうせ死ぬなら、自分らしく生きてから死んだ方がいい。日々全力で生きて死を迎えないと、後悔するなと思いました。

死の淵からは戻ったものの、気がつくと人工肛門という状態で。人工肛門は人工的に作られた便や尿の排泄口のことで、これをつけると皮膚から腸が突き出した状態になります。こんな見た目ではモテないだろうと思ってショックでしたが、一方で食事制限がなくなったため、またみんなとご飯を食べに行ったりできるようになったのは嬉しくて。意外と慣れることができました。とはいえ、表に出て大勢の人に会うことには抵抗があり、パソコンを使って家でできる仕事をしようと決意しました。