“カットのみ”で、小顔とツヤを実現する。
人生を素敵に導く、ヘアデザイナーの仕事。
オートクチュールカットという独自のカット技術を用い、個人売上は日本一だとも言われる、美容師のミスエッセンスMAYUMIさん。モットーは、感覚的ではなく、理論的に一人ひとりに合ったスタイルを提案すること。「美容師という素敵な仕事の価値を、多くの人に伝えたい」と語りますが、美容専門学校に入った頃は、美容師になりたい気持ちが「1%もなかった」そうです。ミスエッセンスMAYUMIさんが美容師の道で生きていこうと考えるようになった経緯とは。お話を伺いました。
ミスエッセンスMAYUMI
ミスエッセンス まゆみ|ヘアデザイナー(美容師)
美容室「ミスエッセンス」オーナー。名古屋・東京青山の2拠点でサロンワークを行う。ツヤカット・頭蓋骨修正カットを考案し、美しい女性を世に送り出し続けている。ファッションにも精通しており、トータルアドバイスを求めて通う顧客が、国内外問わず多い。全国にてセミナー・カット講習・オーナーや店長クラスの英才教育を500本以上勤める。業界内では似合わせの女王と呼ばれている。
いじめられるのは、自分が弱いから
岐阜県岐阜市で生まれました。小さい頃から童話や絵本が大好きでした。5歳位の頃、幼稚園で、大好きな白雪姫のお芝居をすることがありました。白雪姫役になりたいと思っていたのですが、私に言い渡された配役は、白雪姫にいじわるをする王妃の役でした。
白雪姫になりたいと思っても、なれる人となれない人がいる。何かが原因で見た目が可愛くなくて、白雪姫にはなれなかった。その時から、どうしたら可愛く見えるのかを人一倍考えるようになりました。
家族がお洒落だった影響もあります。祖母は、明治時代に女学校を出るほど裕福な旧家出身で、品がとてもいい人でした。祖母は、叔父の経営する美容室に毎週のように洗髪に行っていました。私もよく祖母に連れられて行き、幼いながらに美容室のおしゃれな雰囲気を肌で感じました。一方で、住み込みで働く美容師さんの大変さも感じて、自分は美容師さんにだけはなりたくないと思いました。
両親からのしつけは厳しくて、自由はあまりない家庭でした。しかし、小さい頃からお洒落だけは自由にさせてくれました。デパートの洋服売り場ではなく個人経営のお店に連れて行き、買うものは自分で選ばせてくれました。
おしゃれな帽子。紐で結ぶ白いブーツ。大人用の革のバッグ。子どもとは思えないファッションでした。ディズニーの腕時計がお気に入りでいくつも持っていました。外出する前にはいつも、どの腕時計にしようかと悩んでいました。両親は、服だけではなく家を建てた時も、家中の壁紙やインテリアなどを小学生の私に選ばせてくれました。
自然と「全体をコーディネートする」という感覚が身につきました。将来は、ファッションに関わる仕事をしたいと思っていました。
学校では、いつも明るく見せていました。本当は人見知りで、ひとりで本を読むのが好きでしたが、何となく、人前では明るくしなきゃと思っていたんです。人のお願いもよく聞いていて、クラス委員に推薦されたりすることが多かったです。
中学1年生の時、いじめにあいました。もともと、6人のグループでよく一緒にいました。男女それぞれ、クラスで成績が上から3番までの6人で仲良くなったんです。私は女子の中で3番でした。
ところが、1学期の終わり、夏休みの前に、グループの男の子3人それぞれからの告白を断ってからから、状況が一変しました。夏休みが明けた2学期の初日から、5対1でいじめられるようになったんです。
男の子たちが、私が3人全員断ったのを2人の女の子に話したんでしょう。私としては、付き合ってほしいと言われても、付き合うこと自体の意味がよく分かっていませんでしたし、1人とだけ特別な関係になるのではなくて今まで通り6人で遊べばいいと思っていたので、告白を断っただけでした。
教科書を隠されたり、宿題が書かれたページを破かれたりといったことが毎日ありました。私が先生に怒られるように仕向ける、知能犯でした。美術の授業で完成間近の絵にバケツの水をひっくり返されたこともあります。
「何これ?」と思いましたが、いじめられるのは自分が弱いからだと思っていました。3番なんて中途半端な成績ではなく、1番になればいい。そう思ったんです。その5人が友達でなくなっても、友達は自分から作るものだと言い聞かせ、あまり話したことがない人にも積極的に話しかけました。
いじめられている中で、自分を納得させるには、相手ではなく、自分に矛先を向けるしかなかったんです。先生や周りの人には頼れない。自分で何とかするしかない。そんな考えから、どんどんたくましくなりました。
18歳。家出をしてロンドンに
高校を卒業したら、ファッション系の大学か、東京の大学に進学したいと考えていました。東京に出て勉強したい、幼い頃からの夢だったファッションに関わる仕事をしたい、と思っていました。私のいた高校は進学校で、周りは優秀な人ばかり。私も、周りの優秀な友人と同じように、大学で一生懸命勉強して、社会で活躍したいと思っていました。
ところが、父から、「女の子なんだから地元の大学に進学すればいい」と言われてしまいました。小さい頃から親の意向が強くて、自由の少ない家庭でした。東京に行きたくても、親の支援がなければ生きていけません。自分で学費を稼ぐなんてことは、考えられませんでした。結局、東京に行くのは諦め、地元の大学に推薦入学しました。
親からの束縛でがんじがらめの生活に嫌気が差し、高校を卒業したあとの春休み、親に内緒で、ロンドンに住む叔父のところに行きました。美容師とは別の叔父です。親元から逃げ出すなら、今しかないと思ったんです。
ロンドンで髪を切りたいと思っていたことも、叔父のところに行った理由のひとつでした。昔からお洒落が好きでしたが、髪型ではいつも失敗していました。父がモデルの「ツィッギー」が好きで、ツィッギーを真似てショートヘアにしていたのですが、うまくいかないんです。顔が長かったから、私にはショートヘアーが似合わなくて。
猿みたいと言われたことや、男の子に間違われたこともあります。可愛くなりたいと思っている私にとっては、とてもショックなことでした。髪型をどうにかしたいと思って中学生の頃から、東京の美容室に通いましたが、一度も満足できませんでした。
昔見たイギリスのファッション雑誌には、すごく綺麗なヘアスタイルが載っていました。ヘアデザイナーのヴィダル・サスーンのヘアスタイルで、いつかサスーンのサロンでカットしたいと思っていたんです。イギリスのファッションやカルチャーには大きく影響されていて、高校生の時にはパンクファッションに身を包み、ベリーショートのヘアスタイルだったほどです。
念願のロンドン、サスーンのサロンでのカットは、衝撃的でした。ベリーショートではなく、ショートボブのスタイルに切ってもらいましたが、日本で切ってもらった時と仕上がりが全然違って、私にとても似合っていました。
似合うヘアスタイルがある。ということは、私がうまくオーダーできていないから、日本の美容室では変になってしまうんじゃないか。私が美容師にちゃんと伝えられたら、日本でも可愛い髪型にしてもらえるはず。
そう考えて、サスーンの経営するヘアカットのスクールに通うことにしました。美容師になりたい気持ちは1%もありませんでした。カットの理論を学べば、美容室で希望通りのヘアスタイルが手に入ると思ったんです。
ヘアカットのスクールに行くことで、髪を切るのは、建設的なことなんだと知りました。学校に通うまでは、美容師の感覚で切っていると思っていましたが、違うんですよね。セクションごとに髪の束を分けて、理論的に髪の毛を切る。まるでアトリエの工房のような雰囲気で、髪を切ることって、理論で説明できる、合理的なものなんだと思いました。
なりたくなかった美容師の道へ
3ヶ月ほどロンドンで過ごした後、親に内緒だったことが叔父にばれて、親元に連れ戻されました。父はカンカンで、「修道院に入るか、美容学校にでも行ってしまえ」と言われました。勘当寸前です。修道院に入って坊主にするのは嫌で、仕方なく、美容の専門学校に行くことにしました。
「美容師になるなら、おすすめの専門学校がある」と叔父に言われ、寮に入り、東京の美容学校に通いました。ただ、美容師になりたいとは思っていませんでした。大変な仕事だと思っていましたし、変な話、勉強ができない人が就く仕事だと、馬鹿にしていた節があります。高校では進学校に通ってそこそこ勉強ができたこともあって、すぐに一番になれると思っていました。
しかし、いざ専門学校に通い始めてみると、挫折の連続でした。どんなに頑張っても一番になれないんです。色々な美容技術の実技試験だけでなく論文形式の試験もあったのですが、論文でも一番になれません。生徒の中に、10歳位年上の医者の人がいて、その人に全くかないませんでした。馬鹿にしていた仕事で自分が一番になれないのが悔しくて、美容の勉強に打ち込むようになりました。
専門学校卒業後は、美容室で実務経験を積む必要があります。サスーンのカットを日本に導入した美容室があったのですが、そこは男性美容師しか雇っていなくて、面接すら受けることができませんでした。
別の美容室で働き始めると、当時は、美容室で働く人のために食事や洗濯などの仕事も任されたのですが、家事が得意でなかった私は、カット以外、食事の準備や洗濯などの雑務でつまずき、2軒続けて美容室をクビになりました。実家に戻り、叔父の美容室で実務を積みました。
叔父の美容室で働き始めた頃に、美容師として生きる覚悟が固まっていました。私の母は、結婚してからも仕事を続けていました。小さい頃から、母に「将来は何の仕事をするの?」とよく聞かれていました。女性が自立するために仕事を持つことは普通のことである、というのが母の教育。むしろ、働かないことの方が、ありえない選択でした。
周囲の友人たちが医者や大手企業への就職などそれぞれの道に進む中、私には美容師になるしか仕事を続ける選択肢はありませんでした。もう後戻りはできない。美容師として生きる覚悟を決めました。
馬鹿にしていた美容師の仕事でしたが、実際には簡単にこなせるものではなく、私は毎日右往左往していました。どんな仕事も、大変なことはあるし、努力を続けて乗り越えていかなければなければいけないのは同じ。そう気づき、それなら、美容師として頑張ろうと考えました。
下積みのような生活でしたが、目の前でできることに一生懸命取り組みました。私が通っていた専門学校はパーマに力を入れていた学校だったのだ、働き始めてからもパーマを巻く勉強を続け、ワインディングの全国大会で2位の成績を収めました。
ただ、いくら日本で勉強しても、サスーンのように綺麗なラインのカットを自分の手では表現できませんでした。日本の美容室とはカットに対する考え方が合わず、働きたいと思える美容室はほとんどありませんでした。地元の有名店での面接では、「日本の美容業界を変えたい」と熱く語ったところ、「美容業界にいるひとりとしてはあなたを応援するけど、うちじゃ手に負えない」と言われて、不採用になる始末でした。
22歳で結婚して、結局、パートタイムで美容室で働きました。夫の実家は会社を経営していて、朝早くから家族と夫の会社の従業員のお弁当を作り、昼間は美容室に行く生活。他にも、茶道や華道、習字の先生をするようになったり、エアロビクスのインストラクターなどもするようになりました。昔から、趣味で習い事はたくさんしていたのですが、人生をかけて美容師の仕事に取り組むようになると、そういった習い事が感性を刺激してくれと分かったんです。
ただ、肝心のヘアカットでは、技術を教えてくれる人がいませんでした。納得のいくカットを提供するため、サスーンの技術を体系的に勉強したい。日本の美容室でパートとして働きながら、年に2回イギリスに渡り、サスーンの学校で勉強しました。
カット技術で世の中の役に立つ
25歳で出産し、子育てのため2年ほど仕事から離れました。初めて仕事から離れて、時間を持て余していました。
仕事とはかけ離れた生活をしていると、母に「そろそろ社会復帰しないの?」と言われました。子どもが小さいのに何を言っているのかと反発しましたが、正直、痛いところを突かれたな、という感じでした。働かずに楽をしている後ろめたさもあって、早く社会復帰しなければと思っていたんです。母に指摘された日は、もやもやして夜も眠れませんでした。
幼稚園が事情を理解して、時間外も子どもを預かってくれることになり、美容室のパートを再開しました。さらに、28歳の時、母の退職を機に、独立して名古屋に美容室を開きました。母が家にいるので、子育てを任せられるようになったんです。仕事に集中できる環境が整い、独立を決めました。他の美容室とはカットに対する考え方が合わず、理想のカットを追求し続けるためには、自分でやるしかなかったんです。
ただ、いくら技術を学んでも、思うようにはいきませんでした。カットの技術を教えてくれるところばかりで、「似合わせ方の技術」を教えてくれるところはありませんでした。サスーンの学校で切っていると綺麗に切れるのに、日本ではうまくいかない。外国人と日本人では頭の形が違うからです。頭の形が違えば、同じ様にカットしても出来上がりは違います。
私の顔にショートヘアーが似合わなかったのと同じ様に、同じ髪型でも、似合う人と似合わない人がいる。日本人には、日本人の骨格にあった切り方がある。どうすれば一人ひとりのお客様に合ったヘアスタイルを提供できるか、日々のサロンワークの中で日本人の骨格にあった切り方を模索するために、自分のお店で研究していきました。
美容室を開いた後もずっと、技術と理論の勉強は続けました。美容室の経営と育児と並行しながら、最新のヘアデザインを学ぶためにロンドンにヘアショーを見に行ったり、有名な美容師の方に師事したり。そこまでして理想のカットを追求したのは、自分が幼い頃に髪型で味わった嫌な思いを他の人には味わってほしくない、似合うヘアスタイルを手に入れて欲しい、という気持ちからでした。
当初は手探りからのスタートでしたが、次第に、頭の形が良くない人でも、丸みのあるフォルムで頭の形をよく見せる「頭蓋骨修正カット」や、頭を前後左右の4面で考えるのではなく、斜めからのフォルムも含めた8面で考えてカットする手法など、独自のスタイルが確立されていきました。
開業して7年経つ頃、東京の表参道に2店舗目を出店。ロンドンのヘアーデザイナーが審査員をする日本最大級のカットデザインコンテストで準優勝し、テレビ番組のコンテストで優勝してからはテレビに出演するようにもなり、周りから見れば順調に見えたかもしれません。
しかし、心の中で、私には技術がまだまだ足りないと感じ、自信がありませんでした。テレビに出たとしても、カットが評価されたからではなく、「他のテレビに出ていた」という理由。テレビに映っている私は、他の美容師にしてみれば、「あの人誰?」という感じです。カットの技術で同業に知られているわけではない。必要な技術を身につけられていない自分は、中身がなくて空っぽ。自分の中が空洞のように感じました。少しでも中身のある人間になりたいと、カット技術を磨きました。
また、美容業界の雑誌に、自分がカットしたヘアデザインの写真を持ち込むようになりました。元々、自分のカット技術を磨いてお客様に喜んでもらうことと、私が有名になることはリンクしないと思っていたのですが、働くスタッフから、「美容業界で認められるような美容院にしたい」と声が上がったんです。美容業界誌で連載を持たせてもらえるようになり、巻頭ページに作品写真が載るようになり、表紙を飾るようにもなりました。
42歳の時には、講師として、他の美容師に技術を教えないかとお声がけいただきました。自分の技術はまだまだだと思っていましたし、周りのことを一切気にせず自分のスタイルを貫いてきたので、人に教えるイメージなんて持てませんでした。それでも、美容業界の方々から「これまで周りの人に生かされてきたんだから、世のために尽くさなきゃ」と言われたことで、こんな私でも何かお役に立てることがあればと思うようになり、それまで身につけた技術や理論を、他の美容師の方に教え始めました。
講師を始めてみて、自分のカットは、人の役に立てると実感しました。生徒さんの中から、私と同じ様にパートから始めて美容室の幹部になる人も出てきました。嬉しかったですし、バツイチ子持ちの私の人生でも、少しは人の役に立てたかなと思えました。
さらに、人に教えることがきっかけとなって、50歳を過ぎる頃に、私のカットを解説した『綺麗をかなえる法則』という本を、美容業界の大手出版社から出してもらうことができました。
私は、目の前のお客様を綺麗にするため、地道に努力してきただけです。その努力が、講師として人に教えることや、本として技術を広めることとして、誰かの喜びになっていることが、本当に嬉しいことでした。
美容師の仕事の素敵さを伝えたい
現在、名古屋と表参道で、美容室「ミスエッセンス」を経営しています。経営を始めて、28年になります。今でも、サロンワークが活動の中心で、空いている時間にセミナー講師やヘアデザイナーとしての作品作りなどをしています。この歳になっても現場に出続け、かつ業界誌などで第一線でメッセージを発信している経営者は、美容業界の中では私くらいしか思いつきません。中々ありえないことだと思います。
私のカット理論は、ヴィダル・サスーンを土台に独自に進化させた、自己流の理論かもしれません。私の理論を学ぶことが、お客様の満足、美容師としての売上につながるという結果が出なければ、他の美容師に教える責任を果たせないと思います。理論的に正しいかどうかだけでなく、その技術がお客様に喜ばれているものなんだと、実証しないといけません。理論だけが先行してもダメ。結果につながる必要がある。カットの技術だけじゃないですから、美容師は。
美容師としての私の売上は、私の理論がお客様に喜んでもらえている実証だと考えています。だから、サロンワークを一生懸命やるんですよ。私の美容師としての売上は、いわば、私のカット理論の臨床データです。
私のこだわりは、「カットの技術」を身につけるだけでなく、「似合う技術」を身につけること。そのどちらも持つ人が、お客様に支持される一流だと考えています。髪を整えて「素材美」を追求するだけではなく、似合うヘアスタイルを提供して「造形美」を追求する。私たちの仕事は、カット技術の専門家ではなく、似合うスタイルを提案してお客様を綺麗にする専門家、ヘアデザイナーなんです。
だからこそ、オートクチュール(オーダーメイド)カットと呼ばれる、一人ひとりにあったヘアスタイルを提案します。プレタポルテ(既成品)じゃないんです。一人ひとり、顔の形も体型も違うので、その人に合ったスタイルを、トータルコーディネートとして提案します。
「丸みのあるシルエット」「頭蓋骨修正カット」「小顔に見える前髪」「ツヤカット」の4つの手法を軸にしています。いずれも私が独自に編み出したものですが、「骨格矯正カット」「小顔カット」という言葉は他の美容師の方からも、使われ始めていて、嬉しい限りです。
ある意味では、他の美容師の方は私の手法を真似しているのかもしれないですが、そんなこと言ったら、私の手法は全部サスーンの真似です。私のカットが周りに少しでも影響を与えて、髪を大切にしたり、カットだけで綺麗なラインを作るという美容の文化が広まればいいと思っています。
ここ数十年、美容業界では、カットで形を整えるのではなく、スタイリングで整えればいいという考え方が広がっています。ただ、いくら美容室で綺麗にスタイリングできても、お客様が家で再現できなければ、本当にお客様のためになっているとは思えません。カットだけで綺麗なラインを作っておけば、スタイリングはほとんど入りませんし、髪が伸びてきても形を保てます。カットで綺麗にする重要性を伝えていきたいです。
ここ数年は、海外でのセミナーなどにも力を入れています。2年前には、ロスで1000人規模のセミナーを依頼されました。大盛況で、終わる時にはスタンディングオベーションをもらいました。
海外での目標は、私の培ってきた技術と理論を、ニューヨークで認めてもらうことです。ニューヨークで認められることは、世界で認められることだと思います。日本の技術を、世界のトップでも使われる技術にしたいです。日本人と似た骨格を持つ東洋系の人種の人が欧米に多く住んでいます。東洋人に合う私のカット理論が役に立てる部分もあると思います。そのために、これからも研究を続けていきます。
また、ヘアデザイナーという仕事の素敵さを、多くの人に伝えたいという想いもあります。世間では、美容師の仕事に対してあまりいいイメージがないと思います。私も昔はいいイメージを持っていませんでしたし、美容室に入社する子の親から、「子どもが美容師になるのに反対していた」と手紙をもらうこともあります。
でも、美容師は本当に素敵な仕事なんです。お客様が今以上にハッピーな人生を過ごせるように、応援する仕事です。お客様から、ヘアスタイルひとつで、人生がまるっきり変わったと喜んでもらえます。努力した分だけ目の前でお客さんに喜んでもらえる仕事は、それほど多くはないと思います。
私は美容師の仕事の素敵さを、美容師になってからお客様に教えていただきました。お客様の人生を応援させていただけるありがたい仕事に就けて、感謝しております。だからこそ、美容師という職業がもっと正当に扱われるべきだと思っているので、大学に美容学科ができるべきだと、真剣に考えています。美容師=ヘアデザイナーという仕事の魅力を、多くの人に伝えていきたいです。
日本のカット技術を世界に届けること、ヘアデザイナーを憧れの職業にすること、大学に美容学科を作ることなど、目標はたくさんありますが、まだまだ実力が追いつきません。きっと、私は努力を続けないといけないタイプの人間なんです。でも、天才肌の人だって努力はしていますし、誰でも努力はするものなんです。天才肌の努力、秀才肌の努力もありますが、私がするのは努力肌の努力なんです。それが私の能力なんです。
がむしゃらに生きていると、天才や秀才が応援してくれるんですよね。映画化までされた著名な書籍を書いた作家さんや、がん治療の権威の先生、出版社の敏腕編集者の方など、様々な方が私を応援してくれています。お客様をはじめ、色々な人がご縁をつないでくれるんです。私は生かされているんだと、心から感謝の気持ちでいっぱいです。
現在も、頂いたご縁から、美容業界向けと一般向けの、二冊の書籍を出すための準備をしています。一般向けの本は、私のこれまでの活動が、ひとつに繋がったような本です。ヘアカットに限らず、ファションやエステなど、トータルコーディネートでお客様を美しくするために目の前のことに努力してきました。目の前の努力が、書籍という形で多くの人に喜んでもらえる、集大成です。
個人では売上日本一だとも言われたりしますが、経営者としてはまだ一軍ではありません。私が28年も美容室をやってこれたのは、従業員のおかげです。従業員が未来に輝いていけるように、教育には力を入れ続けていきます。今は20名ほどの従業員を、100名ほどには増やせた時、スタッフが輝く会社になっていると考えています。
全ての人が、自分に似合うスタイルを手に入れられるように。ヘアデザイナーという仕事の素敵さを世の中に伝えていくために。これからも、努力し続けます。ファッショナブルに生きたいという私の人生観が、ヘアデザイナーという職業にあっているんだと思います。服に対するこだわりが、人間の身体の一部である髪に向いただけです。
人を綺麗にする仕事に身を置く者として、自分が綺麗であり続ける努力も怠りません。綺麗でなかったら、「この人に頼みたい」と思ってもらえません。ある意味では、常に自分で実験をしているわけです。同業の女性に支持を頂いたり、私がお客様と「信頼」と言う名の絆を得ているとしたら、その努力が少しでも実っているのかと思います。
そうやって綺麗でいるような努力をしていると、私も元気になってきます。それが周りの方のエネルギーになり、今度はまた周りの方からエネルギーをもらえて、ますます元気になるんです。
応援してくださる方や、元気をくださる方への感謝のお返しは、挑戦し続けることだと思います。美は力であり、生きる源。これからも、美を追求し、一人ひとりのお客様を綺麗にするために挑戦して行きます。
2016.05.09
ミスエッセンスMAYUMI
ミスエッセンス まゆみ|ヘアデザイナー(美容師)
美容室「ミスエッセンス」オーナー。名古屋・東京青山の2拠点でサロンワークを行う。ツヤカット・頭蓋骨修正カットを考案し、美しい女性を世に送り出し続けている。ファッションにも精通しており、トータルアドバイスを求めて通う顧客が、国内外問わず多い。全国にてセミナー・カット講習・オーナーや店長クラスの英才教育を500本以上勤める。業界内では似合わせの女王と呼ばれている。
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編集部の伊藤です。秋は悩みの多い季節と言われます。例えば、ファッション。先週真夏日があったと思ったら、今週は台風到来と秋は天気が激しく変わるので、何を着るか悩みますよね。でも、そこで無難なファッションを選ぶと気分が上がらない。ファッションが心理状態に与える影響の大きさは様々な研究が示していますが、実はanother life.にもその実例があるんです。今回は、ファッションをきっかけに自分に自信がついた3名のストーリーをご紹介します。ぜひご覧ください。
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