美しくなりたい気持ちは命を救う。
マイノリティの星になるために。

「重症筋無力症」という難病を持ちながらも、会社経営など、精力的に活動するカミーユさん。多様な人に囲まれ、ご自身もパンセクシャル(全性愛)であることから、「マイノリティのロールモデルでいたい」と語ります。そんなカミーユさんの半生を伺いました。

カミーユ綾香

かみーゆ あやか|重症筋無力症のロールモデル
多言語スクールとインバウンド支援の多言語ウェブサイト制作会社を運営する「警固インターナショナル」の代表。一方、難病の重症筋無力症とパンセクシュアルというセクシュアリティの当事者として、様々なマイノリティの生きやすい社会を目指し、西日本新聞社ウェブで、コラム「マイノリティの星」を連載、LGBT支援プロジェクト「OUT IN JAPAN」に参加する等、精力的に活動中。

マイノリティが身近な環境


福岡県北九州市の黒崎で生まれ育ちました。新日鉄の前身である八幡製鉄所で有名な街ですね。黒崎は移民が多いです。在日朝鮮人や元中国残留孤児など様々な人がいて、多国籍な雰囲気です。文豪や俳人も多く輩出していますが、貧しい生活保護者も多く、クラスの中にはヤクザの子どもが普通にいました。

幼稚園の頃、道路を見ていたら、なんだか悲しくなったんです。それで地面にうつぶせて泣き始めました。理由は、道路がかわいそうだったからです。地面って土じゃないですか。でも道路にはアスファルトが敷かれているじゃないですか。それが納得できなくて。アスファルト敷いたら、地面がかわいそうじゃないかって思ったんです。

で、その気持ちを幼稚園の友達や保母さんに訴えても、全く理解されませんでした。驚きました。その時、自分の感覚は普通じゃないのだなと直観しました。別に悲しくなかったですが、これから先は苦労するな、と覚悟しましたね。幼稚園の時にはすでに、自分がマイノリティであることの自覚はありました。

大地が可哀想だと思う自分の感覚を大事にして、そのまま自分の道を突っ走るようになりました。様々なマイノリティの人がいる地域だったので、そんなに自分が浮いている感覚はありませんでした。

小学2年生の時に、すごく好きな人ができました。映画『ネバーエンディングストーリー』の主人公、アトレイユです。で、アトレイユに夢中になっているうちに、バレンタインが来ました。どうやらバレンタインは、好きな人にチョコレートを送る日らしいと分かったので、西ドイツにいるアトレイユにチョコレートを送ろうとしました。

国際郵便とかそういうものは分からなかったので、とりあえず北九州のどぶ川にラブレター付きのチョコレートを投げ込みました。どぶ川から西ドイツに届くんじゃないかなと思って。初恋で頭が馬鹿になっていましたね。

で、それをクラスで話すと、「好きな人にあげるというか、女の子が男の子にあげるんだよ」と言われました。「なにそれ?」と思いました。そもそもアトレイユは、髪が長くて中性的です。好きになったのは確かですけど、好きになった時、性別は意識してなかったのです。だから、女の子が好きな男の子にチョコあげるというバレンタインの仕組みが、全く理解できなかったんです。

その時はただひたすら不思議でしたが、成長して、自分は恋愛対象の性別に囚われない「パンセクシャル(全性愛)」だと理解しました。セクシャルマイノリティですね。

「医師の妻」としての生活


中学校に入る頃、北アイルランドの独立紛争に興味を持ちました。卒業後には北アイルランドの独立運動に加わろうと思っており、実際、卒業文集にそう書きました。親や先生は猛反対して、校長室に関係者が集められ、苦肉の策として「アイルランドの雰囲気に近い私立高校」への進学を勧められました。

そんな高校あるかよ、と思っていたのですが、実際体験入学に行ってみると、なかなか気合の入った高校でした。生徒は30人以下限定で、3年間ずっと一緒。体験入学者に向かって学校長が、「君たちは特殊です。世間が右を向けと言ったら、君たちは左を向いてください」と仰いました。

ここならやれそうな気がする。1,2年様子を見たら、アイルランドに飛べるかな。そう思って入学しました。

倫理や哲学、中国語や社会福祉など、高校にしては変わった授業もありました。担任の先生は日本では珍しいイスラム教徒でした。マイノリティの担任を持てたことは、私の救いとなりました。

高校卒業後は地元の公立大学に推薦入学しましたが、全く合わなかったです。すぐに休学の手続きをして、読書とクワガタの世話に没頭する生活を送りました。十代後半は、パートナーと共にクワガタのブリーダーとしての地位を確立していました。

将来に対する不安はありませんでした。理由は分からないのですが、絶対やれるという妙な自信がありました。

その後、23歳の時に医師と結婚しました。籍を入れることに抵抗があったので、事実婚の形をとりました。クワガタ業を引退し、福岡に引っ越しました。得意なことで社会に関わりたいと思い、女性移民を支援するNPOや、翻訳ボランティアなどをしていました。

その頃、俳句を始めました。幼少の頃から異常な読書家だったのですが、最終的には17文字に世界を埋め込める俳句の魅力の虜になりました。

私の入った結社は、非常に厳しいことで有名な結社でした。伝統を重んじ、自分の心を無にして、客観に徹することが大切だとされていました。一輪の花を3時間ほど見つめ続けて、句作することもありました。趣味というより、修行です。

最初はうまく句ができなくて、沢山悔し泣きました。ですがこの修業のおかげで、俳句以外でも客観目線から物事を見るという力が養われ、その後のどんな窮地に陥ろうとも自分を客観視できるようになりました。

孤独と同時にやってきた難病


30歳になる頃に医師のパートナーと別れました。身軽になったので、世界放浪でもしようかなと思った矢先、突然、体がだるくなりまぶたが開かなくなりました。離婚してわずか数週間後のことです。

友人の医師に相談すると、すぐに検査を受けろと言われ、神経内科に行きました。検査の結果、「重症筋無力症」を患っていることが判明しました。原因不明の免疫不全で、体中に力が入らなくなる難病です。外からは分かりにくいので、かつてはなまけ病と蔑称で呼ばれていたような病気です。

難病患者は、見た目では健常者と区別がつきません。誤解されることも多いです。なので、患者はどうしても無理しちゃいます。例えば病院の帰りのバスで優先席に座りたいと思っても、健康に見えるから周りを気にして座れない、みたいなことです。でも、そこでバスに座れるのと座れないのでは、翌日一日寝こむかどうかくらい違うのです。

クリーゼという発作で死ぬこともあります。病状は増悪してパニックになった時に、あばらの間の筋膜が無力化します。すると横隔膜が動かなくなり、呼吸不全に陥ります。その恐怖心が募ってさらに病状が悪化したりします。ストレスがかかると、唯一の治療薬であるステロイドすらも効かなくなるのです。

症状が重い時の、死の恐怖は凄まじいです。なんていうか、死神が見える感じ。離婚した後、世界放浪前の仮の小さい安アパートに住んでいたので、周りの騒音も酷かったです。騒音の中、誰もいない部屋でひとり寝たきり、6時間毎に筋肉を増強させる薬を飲むだけ。飼っていたペットもいなくなり、医者だったパートナーもいなくなり、頼れる人も心の拠り所も無い。これはね、なかなかの地獄です。

友達もかなり減りました。医者の奥様と仲良くなりたい子と、バツイチの難病患者と仲良くなりたい子じゃ違うんですよね。前は5LDKのマンションに住み、お友達がちょっとご飯を食べたいと言ったら、結構なご馳走を用意してホームパーティーをしました。漫画部屋やゲストルームもあったので、誰でも気軽に泊まってもらいました。それが離婚して病気になってからは、安アパートに独り、自炊の体力は勿論無いです。それまでお友達にしてあげていたことが、一切何にもできなくなりました。

時間もお金も体力もあった医師の奥様のカミーユと、病気のカミーユ。全然違います。ゴージャスな私に慣れていた多くの友人は、戸惑って対応できなかったのだと思います。

こういう難病になると環境が急変しますが、私の場合は離婚も重なっていました。医師や患者会の方からは、すぐさま生活保護を申請するように言われました。世間から誤解をされて傷付いて病状が悪化する前に、引きこもってしまう方がいいのだと。

そのアドバイスは的確でしたが、当時、そのアドバイスを受けて、嫌だなと思いました。もうちょっと足掻いてみようかな、と。愛国心も割と強いので、国に迷惑をかけずに生きる可能性があるなら頑張ってみようかな、と。

既に退路は断たれてあったので、腹は括っていました。死の恐怖とは24時間直面してもいたし、やっぱり死にかけた人間っていうのは最強です。何でもやれるというか、どうせ死ぬならやるだけやって死にたいというか。

体が不自由なら、脳みそを使うしかない。そう考え、発症してから3ヶ月ほど経った頃から、外国人との繋がりを活かして、語学レッスンの運営を始めました。喉の筋肉が弱っていたので、喋るのも難しく、歩くのも20分が限界でした。そういう私にできることは、人と人を繋ぐ仕事だけ。実務は外国人講師に任せていました。

美しくなりたいという気持ちは、人の命を救う


この病気で処方されるステロイドや免疫抑制剤を飲むと、身体がむくんで顔が腫れます。しかも、入浴やマッサージは禁止です。気持ちよくても、疲れるので。見た目がどんどん醜くなります。女性にとってはかなり辛いです。体力低下だけでなく、人目を気にして外出できなくなります。

仕事を始めて以降は、私は、そこは平気でした。最初はむくみを気にしましたが、仕事をすることで責任感が生まれたせいか、気にしていられなくなったんですね。で、そうこうしているうちに症状がみるみる改善しました。薬の量が減り、顔のむくみが解消されてすっきりしてきました。

そうすると、仕事以外でも外に出たくなりました。外に出ると、ナンパされたりします。クライアントからもきれいですねとか言われたりします。すると、どんどん生命力が湧いてきて、さらに体調が改善します。

ヨガに通い始めてからは、さらに回復して来ました。ヨガなんて、本来であれば怖くて行けないわけですよ。発作があったら死んじゃうかも知れないわけだから。そういう難病患者が、健常者の中に入るわけですから。なので、最初は寝ながらできる「ヨガニードラ」から始めて、それを何回かしてから、一般の健常者が通うヨガスタジオに勇気を出して行きました。むちゃくちゃ緊張しました。でもやりました。そしたら、みんなと一緒にできました。

「神様ありがとう!」と感動しました。温泉もマッサージもダメだと言われていて、歯磨きやドライヤーさえも休憩しながらじゃないとできなかったのです。それが、短い時間だけでも普通の女性たちに混じってひとつの運動をできたっていうのが。代えがたい喜びです。勇気を出して得た成功体験です。

ヨガにしても仕事にしても、初めのうちはどこまで無理をしていいか分からず、倒れることもありました。それでも何回か救急車で運ばれるうちに、体力のコントロールが分かってきて、気づけば夜中まで夢中で仕事をするようになりました。

マイノリティのロールモデルになる


現在、マイナーな言語も含めて17言語対応の語学スクールを運営しています。また、外国人観光客をターゲットにした、多言語対応の海外向けWEBサイト制作会社も経営しています。さらに本業とは別に、自身の体験から、美容に関する物販やプロモーション事業も行っています。

女性は、年齢や病気関係なく、綺麗になりたいものです。美に対する執着というのは、凄まじい生命力を生み出します。美しくなりたいという気持ちは、人の命を救う。治療方法のない病気すら治す。私は美意識が生み出す力を、確信しています。

私は今、薬を全く飲んでいません。水泳、ヨガ、ピラティス、ランニング、筋トレも日々こなしています。重症筋無力症の人で寝たきりからここまで元気になれるのは、全患者の中で3%ほどしかいません。原因不明の病気で、治療方法も分からない。そういう自己免疫疾患だからこそ、心の持ちようで随分病状が改善します。

男性では、同じ病気で登山をされる方がいますが、女性のロールモデルはいません。重症筋無力症は、特に女性や子どもがかかりやすい病気です。そういう人たちに、この病気になっても活動している私の姿をお見せしたいなと強く思います。

時々、こんな風に考えます。小学校くらいの女の子が発病します。お母さんは憔悴しながらネットで「重症筋無力症」と検索します。そしたら私が出てきます。私のことを知るうちに、同じ病気の人が、働きながら海外旅行にも頻繁に行っていることが分かります。そういう事実を知っていただくことで、私はそのご家族にとって本当に希望となれます。ロールモデルがいるということは、当事者にとって相当の励みになるんです。

これはね、私にしかできない。私にしか救えない命があるんです。だから、疲れていても元気な姿は見せなきゃなと思いますね。

多国籍な土地で生まれ育ったことも、パンセクシュアルであることも、難病を患ってここまで回復したことも、全て意味のあることだと思います。俳人・種田山頭火の言葉に、「天われを殺さずして詩を作らしむ われ生きて詩を作らむ われみづからのまことなる詩を」という言葉があります。

私は天に生かされてここまで来ている。今生かされているこの幸運を、社会に還元すべき。それが、私が生かされている理由であると。大変なことも多いですが、多少寿命を削ってでも、「派手な感じ」で生きたいなと思います。

本業の仕事も今は福岡ベースですが、「海外向けWEBサイトの新規クライアントを東京で五件成約し、そのまま東京進出する」と決めています。会社も必ず大きくするし、私自身もロールモデルとして表に出ていきます。

2016.02.03

カミーユ綾香

かみーゆ あやか|重症筋無力症のロールモデル
多言語スクールとインバウンド支援の多言語ウェブサイト制作会社を運営する「警固インターナショナル」の代表。一方、難病の重症筋無力症とパンセクシュアルというセクシュアリティの当事者として、様々なマイノリティの生きやすい社会を目指し、西日本新聞社ウェブで、コラム「マイノリティの星」を連載、LGBT支援プロジェクト「OUT IN JAPAN」に参加する等、精力的に活動中。

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