一人でも多くの、死の苦しみを減らしたい。
命と向き合う現場で溢れた思いと、孤独な熱狂。

外科医として都内の病院で勤務する傍ら、「死を想う」ことを書籍やSNS・イベント等を通じて発信する活動を行う中山さん。15歳で医者を目指し、数多くの命と向き合う現場にいる中で溢れ出したある思いとは?誰にも必ず訪れる「死」への想いについて、お話を伺いました。

中山 祐次郎

なかやま ゆうじろう|外科医
がん・感染症センター都立駒込にて外科医として勤務する傍ら、「死を想う」ことを伝えるためのメディア・講演活動を行う。著書『幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと 若き外科医が見つめた「いのち」の現場三百六十五日 (幻冬舎)』

15歳、不公平さへの憤りから決めた進路


私は神奈川県横浜市に生まれました。2つ上の兄の影響で中学受験をし、中高一貫の進学校に入学すると、サッカー部に入りスポーツに打ち込む傍ら、本を読むことも好きで、特に純文学を好んで読んでいました。中でも太宰治が好きで、言葉の美しさや描写のリアリティ等に惹かれ、将来は物書きになりたいと考えるようになりました。夏休みの宿題で自ら小説を書く機会があり、周りの友人に比べ自分の文章が面白くないことに気づき、すぐに諦めることになってしまいましたが。

そんな学生生活をすごし高校生になった15歳のある時、たまたま家の食卓で夕刊を眺めていたことがありました。すると、一面でカンボジアの内戦についての記事があり、何となく読んでいくうちにその内容に衝撃を受けたんです。

その記事には、ゲリラが村を襲い、自分と同じかそれより若い年齢の子どもを連れ去り、男の子にはお互いに殺し合いをさせて殺人マシンのような人格を作り、女の子には子どもを生ませるという惨状が記載されていました。「自分は日本に生まれて、平和な家庭でご飯を食べているのに、なんでカンボジアの人はこんな思いをしているんだ」と許せない気持ちで一杯になりました。あまりに不公平で不平等だと感じたんです。

そこで、自分でなんとかできないか考え、ビル・ゲイツのように大金持ちになって紛争地に寄付をしたり、チェ・ゲバラのように革命を起こしたりしようと考えてみました。ただ、その不公平が原因で苦しむ人たちを救うという意味では、医者になって現地を訪れ、片っ端から治療することも良いのではないかと感じたんです。医者になれば、親も喜ぶだろうし、どこかで、昔諦めた物書きになれるかもしれないという思いもありました。

そんな背景から、医者になることを将来の夢として掲げ、医学部受験に向けて勉強を始めました。学費の関係もあり、国立の医学部を目指すことにしたんです。ところが、元々成績が良くない上に、部活や文化祭等、勉強から逃げ続けた結果、箸にも棒にもかからないような成績で不合格となってしまったんです。さらに、一緒にバンドを組んでいた仲間は東大に進学していたこともあり、自分の不甲斐なさ、中途半端さに悔しさを感じましたね。

ただ、心を入れ替えたはずの浪人生活も覚悟は中途半端、成績は伸びたものの、結局不合格に終わってしまったんです。それでも、併せて受けていた私大には合格することができ、医者ではないものの、大学進学の道は開かれました。親からも、「せっかく合格したのだし、医学部の合格は多分無理だから」と私大に入るよう薦められました。

しかし、私はもう一年浪人をさせてほしいと頭を下げることにしたんです。苦しむ人を救うために、人の命に向き合う仕事をしたい、それができる仕事は医者しかないという考えから、「もう医者にならなければ自分は死んでしまう」と感じていたんです。

そして、予備校の同期が皆進学し、クラスに2人だけ残って2浪目をスタートし、頭を丸め、携帯電話をやめて勉強に打ち込み、最終的にはなんとか鹿児島大学の医学部に合格することができました。本当に苦しい期間がやっと終わったという感覚でした。2年間の自分に感謝の気持ちを抱きながら、夢へのパスポートをもらったような気がしましたね。

医者としての無力感と医療の目的


大学に進学してからは、サッカー部に入り芋焼酎ばかり飲んで、金髪にピアスをたくさん開けて、タバコを吸ってと、完全に周囲とは異質な学生でした。それでも、長い間医学部の授業に思い焦がれていたので、勉強をするのは楽しみでしたね。

ところが、素晴らしい授業が多数ある中、ほとんどの授業が医学が人を「どう治すか」に焦点を当てており、「何故治すか」については議論されていないことに違和感を抱くようになったんです。そのモヤモヤは実習等で様々な患者さんと出会う中でより大きくなっていき、自分の中で葛藤がありました。

その後、卒業が近づき専門を決める時期になると、小児科や救急・外科に関心を持っていました。そこで、色々な病院を見て回っていると、ある病院の外科に見学に行った際、熱っぽくて見学していた会議でぼーっとしていたことがありました。すると、会議中にある部長の方が怒って「お前、やる気が無いなら帰れ!」と怒鳴られたんです。その時に、「絶対にこの病院に行きたい」と心が決まりました。見学に来た学生にキレるほど本気を感じられるような人がいることに強く憧れたんですよね。
そして、無事希望通り第一志望に合格することができ、がん・感染症センター都立駒込という病院で、研修医としてスタートを切りました。

最初の2年間は初期研修という時期なのですが、4月からいきなり「先生」と呼ばれる反面、実務的なことは何もできない状態。点滴一本まともに打てない状況に、圧倒的な無力感を抱く日々を過ごしました。早朝から深夜まで働き土日も無し、患者さんからも上司や同僚からも信頼が得られていないという、とても過酷な環境でした。周りには退職する人も居る中、考える暇無く、歯を食いしばって毎日とにかく必死に生きていましたね。

それでも、多くの患者さんと接していく中で、医療の目的は病気にアプローチをして延命をすることではなく、人を幸せにすることだという、自分の中での答えも出たような感覚がありました。

「一生死なない」ような顔をして生きる人々への危機感


医者になって経ったある日曜日の夕方、1週間の仕事を終えて上野駅に医学の教科書を買いに出かけたことがありました。すると、駅の周りを歩いていて、なんだか違和感を感じたんです。皆、普通の顔をして歩いているんですよね。まるで、自分がいつか死ぬことを考えていないかのように。がんの患者さんと毎日接して、多くの方を看取る自分とは対照的に、みんな、まるで「一生死なない」ような顔をして生きていたんです。

そして、その状況に対し、大きな危機感を抱くようになりました。「誰もがいつか死ぬ」という確実な事実を、気づいてほしい、しっかり知ってほしいと感じたんです。それを知らないことで、いつか訪れるその時に後悔すると感じたんですよね。もし予習ができたら、死を迎えた時の無念は減らすことができるし、例えば20歳の時に、死を意識することができたら、生き方ががらっと変わるんじゃないかという思いがありました。

そんな思いを心に抱き、医者としての仕事を続け、私は大腸外科の専門になり、大腸がんの専門家となりました。そしてある時、ほとんど私と同じ歳の患者さんの担当をすることになったんです。その方には若い奥さんと1歳のお子さんがいながら、がんの再発があり、緊急の入院を強いられる状況でした。

「今度はいつ家に帰ることができるかな?先生、焼酎が飲みたいな」

そう声をかけられた私は、病室に焼酎をこっそり持って来てしまおうと考えました。しかし、周りにバレたらもちろんまずいため、どうしようか考えながら一晩過ごしました。

そして、どうしようか迷いながら翌日部屋を訪れると、その患者さんはもう意識が無く、数日後にそのまま亡くなってしまったんです。なんですぐ持っていってあげられなかったんだろうと、医者である自分、いや自分という人間に激しい憤りと、私という存在を揺るがすほどのかつてない悔恨を抱きました。

同時に、「なんで俺が病気になってしまったんだろう」というその患者さんの言葉が頭を離れずにいました。同じ歳の自分ではなく彼が病気になる理由に、「たまたま」という以外のものは無かったんです。また、ここにも受け止めきれない不公平さがありました。

溢れ出す気持ちを形にした出版という手段


死と向き合う現場で抱いた思いは、気づけば我慢できずにあふれるようになっていき、ついには、親にも死を意識して生きてもらうため、帰省するたびに、あえて手術の話ばかりするようになりました。時には両親よりも若い患者さんが亡くなった話をすることで、両親には死を想ってやりたいことをやって生きてほしいという思いがあったんです。その思いは親に留まらず、SNSに自らの思いを書くこともあれば、友人と話をする中で熱く語り出すようなこともありました。

すると、ある飲み会で、直近で書籍を出版した友人から、「その話を本で書いてみたら?」と言われたんです。なんだか、それまであふれんばかりに膨れ上がった気持ちの風船を破ってもらったような感覚があり、その言葉をキッカケに、本を書いてみようと決めたんです。文章が下手な素人が書いても、いきなり出版できる訳がないだろうという不安がありましたが、昔から憧れていた本を書くことへの思いに加え、「これだけ強い思いがあるなら形にならない訳が無い」と感じたんですよね。

ただ、実際に執筆を始めると、予想よりもずっと苦しい葛藤が待っていました。自分のように若造で実績が無い医者よりも、他の人が書いた方が良いのではないかという思いが常にあり、こんなことをしている医者など聞いたことが無かったので、まるで暗闇でジャンプをしているような感覚でした。「これは無駄なのかな?意味が無いのかな?」と自問し続ける、本当に苦しい執筆でした。

そうして、なんとかできあがった原稿を紹介された出版社に持っていってみると、「これは出版に耐えられない」という評価を受けてしまったんです。「こんな原稿には何の価値もないんじゃないか」そんな気持ちでいっぱいになり出版を諦めることにしました。

ところが、たまたまの縁から幻冬舎の見城社長とSNS上でお話させていただく機会があり、「全ての新しいことはたった一人の孤独な熱狂から生まれる」という言葉を知り、もう一度自分の熱狂を追求しようと考えるようになったんです。

そこで、もう一度自分が書いた原稿を読み返し、2ヶ月ほど推敲や加筆を繰り返し、改めて思いを書き上げました。そして、その原稿を見城社長、そして幻冬舎の方々に読んでいただくと、なんと出版の機会をいただけることになったんです。そのやりとりの数日間はいつもの手術以上に緊張する日々で、出版が決まった時も、にわかに信じられないような気持ちでした。

そんな背景から、2015年3月、『幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと 若き外科医が見つめた「いのち」の現場三百六十五日 』という本を出版したんです。

一人でも多くの人の、苦しみや哀しみを減らす


本を出版してからは、ありがたいことに読者の方からお手紙をいただいたり、イベント等でお話する機会をいただき、本当に嬉しい反響をいただきました。特に、想定していたよりも若い方の反応が大きいことに驚きましたね。医療関係者の方や医療系の予備校、がん患者の方が集まるイベントでも話をする機会をいただき、本当にありがたく感じています。

正直、医者というある種の既得権益に守られた立場では、このように発信することのメリットはありません。それどころか、自分のキャリアの可能性が閉ざされたり、クビになったりする覚悟で執筆をしました。「死を想う」というメッセージを多くの人に伝えるのと同時に、秘密に守られた医療業界に風穴を開けたいというモチベーションもあります。あとは、なんといっても一人の外科医として、とにかく腕を磨き、「治せる医者」になりたいですね。今でも同年代の外科医よりも数多くの手術をこなしている自負はありますが、より一層技術を高めていきたいです。

「一人でも多くの人の、その時の苦しみや哀しみが減ること」私の願いはただ一つ、それだけです。そのために、これからも外科医として働くことに加え、様々な方法で発信を続けていきたいと思います。そうすることで、矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、「いつ死んでも後悔する」ように、熱狂し続けて生きていくのが理想です。

2015.06.10

中山 祐次郎

なかやま ゆうじろう|外科医
がん・感染症センター都立駒込にて外科医として勤務する傍ら、「死を想う」ことを伝えるためのメディア・講演活動を行う。著書『幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと 若き外科医が見つめた「いのち」の現場三百六十五日 (幻冬舎)』

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