昆虫博士になるやつを応援するのが僕の夢。虫採り少年と、父の死と、ベンチャーと。

クラウドソーシング事業を運営するランサーズ株式会社にて「フェロー」という新しい働き方をしながら、個人投資家としてのベンチャー支援等にも携わる山口さん。昆虫博士を目指していた少年が、複数の急成長ベンチャーでの経験の先に目指す社会とはどんな姿なのでしょうか?

山口 豪志

やまぐち ごうし|クラウドソーシング事業会社勤務、個人投資家
クラウドソーシングプラットフォーム「ランサーズ」を運営するランサーズ株式会社にて、
2014年11月より同社初のフェローとして、
コーポレートメッセージである「時間と場所にとらわれない新しい働き方」を実践し、
ベンチャー企業への個人投資や、さまざまな企業のコンサルティングを行うなど活動領域を広げる。

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昆虫博士になるやつを応援する


岡山県岡山市に6人兄弟の末っ子として生まれました。実家は市街地だったのですが、すぐ近くには山があり、よく父と虫採りに山に入り、学内でも昆虫博士と呼ばれていました。

僕自身、昆虫が好きでしたし、親が大学の教授で研究者だったこともあり、将来は、昆虫博士になるものだと、ごく自然に考えていましたね。周りの友人は中高生と成長して行く過程で昆虫の関心が無くなってしまう人も多かったですが、僕の場合は一向に関心が衰えず、高校を卒業後は茨城の大学に進学し、昆虫の分類学を勉強するようになりました。

ところが、そんな風に過ごしていた21歳、大学4年生の春に、突然何の前触れもなく父親が亡くなってしまったんです。元々、親父は生きている間に50カ国を回るようなすごくタフな人だったこともあり、彼の死は自分にとって大きな衝撃でした。特に、父が教授を務めていた国立大学を取り巻く環境が変わり、ビジネスに繋がりにくい研究への予算が減っていく傾向があり、その影響で父が疲弊していた現実を知り、今まで描いていた研究者への仕事への疑問を持つようになっていきました。研究とはいえ、ビジネスにして収益化することが大事なんだということを痛感したんですよね。

また、たまたま学芸員の資格を取る為に、地元の博物館で子ども向けに昆虫の標本をつくる会の手伝いをしたのですが、そこで、ものすごく昆虫に詳しい高校2年生の子に出会ったんです。

年齢こそ自分の方が上なものの、知識では全く及ばず、逆にそれ以外のことは滅法不器用なタイプだったんですよね。

彼を見て、こういう奴こそ研究者になるべきだ、と感じるとともに、 自分がすべきことは、「昆虫博士になる」ではなくて「昆虫博士になるやつを応援する」ことだと決めたんです。

目標のためにはビジネススキルが必要


それでも、やはり幼い頃からの夢を塗り替えることに対して漠然とした不安があったため、大学4年の後期半年を休学し、1人で海外へ旅に出ることにしました。それまでは一人旅などしたことがなかったのですが、父が見てきた世界を見たいという思いや、自分を変えたいという思いもありました。

実際に旅立ってからは、小説『深夜特急』のようにユーラシア大陸を横断しようと思い、タイから始まってインド・中東を経てエジプトまでのルートを陸路で辿りました。その旅では自分で自分のことを改めて知ることができただけでなく、沢山の出会いにも恵まれ、見返りを求めない無償の愛をくれる人々に出会うことで、「人間は善なる生き物なんだな」と感じましたね。

また、旅の過程でブログを綴っていたり、ヤフーメッセンジャーで日本と直接コミュニケーションを取れる、インターネットという仕組みについて強く関心を持つようになったんです。漠然とですが、インターネットに関わる仕事って面白いんだろうなという感覚がありました。

そんな風に改めて自らのことを見つめ直した旅を終えて帰国すると、周りが皆社会人として仕事を始める時期(2006年4月)だったこともあり、僕も都内に出てきて週5日のインターンを始めることにしました。

周りに負けたくないから同じタイミングで、ということもありましたし、一層クリアになった「昆虫博士になるやつを応援する」という目標のためにビジネスのスキルを付けなければ、という思いがありましたね。

そんな背景から、人材系のスタートアップで法人営業のテレアポを始めたのですが、ある時、その話をすると同じくスタートアップでインターンをしていた友人から、「うちの会社に営業に来てみたら?」と声をかけてもらったんです。

その会社はクックパッドという、ユーザー投稿型の料理レシピサイトを運営する企業だったのですが、営業に伺って商材の提案をしていたところ、開始5分で商談相手だった創業者の佐野さんから、

「お前、月給料いくらもらってるの?」と聞かれ、

「12万円です。」と答えると、

「じゃあ、うちは15万出すよ」と、

クックパッドに誘っていただいたんです。

最初は驚きましたが、人間にとって重要な「衣食住医」に関わる「食」領域は世の中に必要とされるに違いないという点や、まだ全く注目されていないクックパッドのビジネスモデルに惹かれていたという点もあり、
そのままインターンとして働かせてもらい、大学を卒業後は、新卒1号社員・14番目のメンバーとして入社をすることが決まりました。

南米旅行中に迎えた震災と、ある決意


入社後は、マーケティング事業部にて営業に携わり、セールスの成績では常に1位を収めることができました。元々、「素人のレシピサイトなんか使われない」と言われていたのが、食品メーカーや流通・卸、商社など、大きなクライアントとも協業が出来るようになっていき、入社3年目には、東京証券取引所マザーズ市場への上場も経験することが出来ました。

ところが、上場後も高水準で推移していた売上目標の達成を追いかける中で、元々は、学者達を応援するためにビジネスを学ぶ目的で入社したことに、改めて気づいたんです。僕自身、ビジネスモデルに強い関心がありましたし、新規事業に携わりたいという思いもありました。

しかし、既存事業の売上を作る素養を評価していただいていたこともあり、段々と、自分のやりたいことと会社に求められていることにずれが生じてきてしまったんです。

そんな背景から、27歳でクックパッドを退職することに決めました。そして、その後の方向性については、自分自身で何をするかも決めていなかったこともあり、半年時間を取り、これまで訪れたことが無かった、北南米・南極大陸に旅に出て6大陸を制覇することにしました。

そんな折、ちょうど南極大陸に渡った3月11日に、日本で東日本大震災が起こったんです。極地にいたこともあり、最初は何が起こっているのか分からなかったのですが、震災後1週間経ってアルゼンチンに戻ってニュースを見ると、それはまるで映画のゴジラのような世界でした。

「俺の知っている日本はどうしてしまったんだろう?」

と、ものすごいショックを受けましたし、もともと、茨城の大学に通っていたこともあり、友達の安否も不安になり、涙が止まりませんでした。

その後、思い当たる友人は皆連絡が取れたのですが、そんな状況だったこともあり、前職の知人に連絡を取り、状況を聞いた上で、「自分も帰ろうか?」と聞いてみたんです。
ところが、

「大事な仕事を辞めて、そんな簡単に帰ってくるな」

と言われたんですよね。そして、たしかに、何かしたいという気持ちは抱えながらも、今、自分一人が日本に帰っても何も出来ないという感覚もありました。

そこで、僕はもう一度本気で旅に向き合うことに決めました。そして、ぼんやりと以前から考えていた起業を決意し、本気でビジネスを考えるようになったんです。

目指す世界の達成のために、2名のベンチャーへ


旅の道中、本気でビジネスを考える中で拠り所にしていたのは、「本と旅と友達が人生を豊かにする」という父の言葉でした。そこで、その3つの分野の何かに関わるビジネスを考えようとしていたところ、ふと、3人の友達の姿が頭に浮かんだんです。

ある協会を1人で運営しており、協会運営においては常態的に事務仕事がある訳ではないので、 必要な仕事を必要なタイミングでネット上の掲示板で求人募集し、主婦の方にお願いしていた友達。

旅の道中に出会った上智大学の留学生で、スペイン語がすごく上手なのに、語学は趣味にすると言い、全く関係ない経理の職についた友達。

前職で一緒だったすごく優秀なデザイナーで、これからも一緒に仕事をしたいけど、業務後や週末に仕事をお願いするのは気が引けた友達。

それぞれは全く別で出会った友達でしたが、彼らのことを思い浮かべた時、 ふと、「個人個人が自分のスキルを価値にして、得意なこと・やりたいことを仕事にすることができないだろうか?」というアイデアに至ったんです。

思い立ってからは、そのコンセプトでビジネスプランを書き始め、ちょうど南米を一周して半年経ったタイミングで日本に戻り、地元岡山でエンジニアを探して独立しようと考えました。

そんな折、人づてに、近いサービスがある、と紹介され、 クラウドソーシングサービス「ランサーズ」を見かけてその場で問い合わせメールを送ったところ、サイトを運営していた秋好さんと会うことができました。

そこで、僕は、こんな課題意識を持っていて、こんな世界にしたいんだ、ということを暑苦しく語ったんです。
すると、

「これ、僕が作った3年前の企画書に似てますね」

と言われたんですよね。

正直、自分でオリジナルの企画を作り上げてやってきたので、 最初は‘かちん’ときたものの、それでも、3年前にそれを発明し、既に3年間も運営しているというのは純粋にすごいことだと感じたんです。 そして、彼らのチームはエンジニアで、自分はビジネスサイドに強みがあったため、相性の良さも感じ、最終的には、自分がやるよりも彼らと一緒にやった方が描く世界の達成が早くなると思い、28歳にして株式会社リート(現:ランサーズ株式会社)に3人目の社員として参画することに決めました。

入社してまずは分かりやすいようにサービス名と同一の社名に変更し、地道な問い合わせ対応やニーズ調査等、とにかく一日中かけずり回る日々を送りました。朝5時に起きてオフィスがある鎌倉から東京に出て、夜10時頃にオフィスに戻り、夜中3時まで資料を作り、という毎日を過ごしながらも、全く成果が出ず、自分が寝ているのか起きているのかも分からないような、軽めのパニック障害のような状態にもなりました。

ところが、そんな苦しい日々をすごしていたある時、重要だと感じて注力していた広報の効果で、大手新聞紙・テレビ番組に続けて取り上げてもらい、一気に事業の軌道が跳ね上がっていったんです。

それを機に資金調達等もうまく進めることができ、2013年からは東京にオフィスを戻し、人員の採用も拡大していきました。

新しい働き方で描く将来の社会


現在、会社は順調に成長を続け、組織としても大きくなってきた中で、僕自身の会社との関わり方も少し変えていくことに決めました。

これまで、2社で経験した創業期から成長期、IPOとその後の発展というベンチャー企業の醍醐味の貴重な経験という財産を、社会全体に貢献したいという思いに加え、元々考えていた「本と旅と友達」を含む、社会のインフラとなる領域について、ランサーズで取り組む以外の領域にも関わらなければ、社会は変えられないという思いがあるんです。

だからこそ、2013年からは個人投資家としての活動も始め、自らの経験を生かし、社会のインフラとなる領域に複数者ベンチャー投資・支援を行っています。

そして、そういった活動にも注力するため、ランサーズのミッションである「時間と場所にとらわれない 働き方を創る」という考えを体現するため、会社として初めて、ライン業務から離れた「フェロー」として活動をさせていただくことになりました。

そのため、現在、会社に出社するのは月数回という感じで、個人投資家としての活動や、僕が目標としている原丈人さんという、自ら立ち上げた事業を売却し、ベンチャーキャピタルを作り、研究者の支援等も行っている方のお手伝いをさせていただいたりもしています。

これまで色々な経験をさせてもらいましたが、改めて考えると、やっぱり僕の目標は「昆虫博士を応援する人になる」ということです。

だからこそ、これからまずは35歳までに圧倒的な実績を作り、学者を応援することができるだけの基盤を作りたいと考えています。

そして、45歳までにその基盤を基に学者と社会をつなぐ活動を。

最終的な理想として45歳からは、「人が人を殺さない社会」を作ることに力を注ぎたいと考えています。

何故かというと、今まで見てきた世界中の旅中の出会いや個人の体験から、戦争・殺人・自殺を含め、それらが無いような世の中にしたいんですよね。 大いなる野望なのですが、そのためにも、まずは、仕組みとして100年以上も継続し、人類に貢献し公益的な事業経営ができる企業を作ることに関われればと考えています。

これまで、2社のベンチャーに早い段階から関わらせてもらいましたが、そこで感じたこととして、社会はびっくりするくらい簡単に変わっていくですよね。

「こうしたいね」と話したことが本当にそうなっているんです。だから、信じることから始めることが大事だと本気で考えています。

世の中が良くないと嘆くのではなく、それを変えるための努力をすれば、必ず世の中は変わると思うんです。

2014.12.04

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