戦争の事実を写真を使って伝える。表に出ない本当に大切なこと。
太平洋戦争体験者の記録等を行い、写真を通じて世の中の人に伝えることで、様々な問題に対して「自分で考えるきっかけ」を提供する板谷さん。戦争地域での生活や看護師の仕事を通じて考え続け、答えを出した「命」の使い道とは?自分の人生を最大限に生きる背景についてお話を伺いました。
板谷 めぐみ
いたや めぐみ|写真を通して表に出ないものを引き出す
フォトジャーナリストとして、報道では表に出ていないものを引っ張り出す
自立した女性を目指す
私は大阪府で生まれました。小さな頃から、母に「自立した女性になりなさい」と言われながら育ちました。そのため、何でもちゃっかり取り組み、運動と勉強、どちらもできる方でした。ただ、「こうでなければならない」という自分像に縛られていて、常に自分が自分ではないような感覚も持っていました。
そして、高校3年生の時に「女性が自立できる仕事」は何か考え、看護師の道に進むことに決めました。ところが、大学に合格した時、全く嬉しくなかったんです。まだ迷いがあって、人の役にたつ仕事だけど心から看護師になりたいわけではなかったんですね。それでも、自分を抑えるように生活し、「将来自立するため」「患者さんのため」と、忙しい学校生活も乗り切っていきました。
学校が忙しい中、ある時、ユネスコのボランティア団体が開催した全国の若者が集まる勉強会に参加することがありました。そこで、私は大阪大空襲に関して調べることになりました。
その時、初めて大阪で大きな空襲があったことや、京橋駅にその慰霊碑があることを知りました。調べていくうちに、地元大阪で大勢の人が亡くなったことが分かってきて、「今までそのことを知らなかった自分」をとても悔しく感じました。それからは、戦争に興味を持ち、調べるようになっていきました。
日本の常識は世界の常識ではない
大学3年生になると、海外に興味を持ち始めました。知り合いからインドに行った話を聞き、「海外ってこんなに身近なのか」と驚きを感じたんです。そこで、カンボジアへのボランティアツアーに参加しました。
現地の小学校に行き、本を寄贈したり、簡単な勉強を教えたりしました。しかし、「作られたボランティア感」に違和感がありました。短期間の支援は続かないだろうし、むしろ私たちが「ボランティア体験」をさせてもらうような感覚だったんです。
そのため、もっと現地の人の生活が知りたいと思うようになり、その後に行ったフィリピンでは、NGO団体を通して漁村で生活をさせてもらいました。さらに、インドに一人旅に行った時も、農村で現地の人と生活させてもらったんです。
現地の人と同じ目線で暮らすと、その人たちの価値観を知ることができるんですよね。そして、違った価値観をいかに融合させていくか考えるようになりました。インドなんて驚きでしたね。牛を神様として祀っている国なのに、農村に行くと牛をバシバシ叩いているんですもん。
また、看護学生だったこともあり、簡単な救護講座などをしました。すると、みんな「家によっていけ」と、ご飯をごちそうしてくれたりするんですよね。日本だと遠慮してしまうかもしれないけど、逆に遠慮することの方が失礼な場合もあって、「日本の常識」が「世界の常識」とは限らないんだと実感しましたね。
今しか感じられないことを求め、内定を辞退して海外に
そんな生活を送るうちに、知らない世界への興味がどんどん膨らんでいきました。卒業後は赤十字社に入ることを決めていたのですが、ついには好奇心を抑えられなくなり、内定を辞退することにしました。
今まで歩んできたレールを外れることへの恐怖はありましたし、「新卒」で就職できないことに不安はありました。でも、「今この年齢でしか感じられないこと」を大事にしたい。世界で色んな物を吸収した自分の方が、将来的に看護の現場でも役に立てるのではないか。そう考えて半年ほど悩んだ末、内定を辞退して、1年間海外で生活することに決めたんです。
そして、内戦が終わったばかりのスリランカに行き、現地の人たちと生活を送るようになりました。スリランカの内戦は、シンハラ語とタミル語を扱う民族の対立で、お互い言葉は全く分からない状態。そのため、実はお互いの言い分もよく分からないまま対立していたんです。そこに気づいた現地の若者が、内戦のあった地域でピースキャンプを開き、お互いの民族が交流すできる場を作っていました。
その中で、シンハラ族の元軍人と話したのが印象的でした。彼が軍人になろうと思ったきっかけは、「お金のため」でした。しかし、実際に戦いを通して自分が間違っていた、今は平和な国を作りたいと話していたんです。
私は、それが良いとか悪いとか、自分の意見を持つほど世界を知りませんでした。それでも、その人の言葉、体験を聞き、自分の中で答えを出すためのパズルのピースを集めているような感覚でした。
社会問題が身近なものだと気づかせてくれた、戦争があった場所
スリランカで半年ほど過ごした後は、ケニアに住むようになり、仲良くなった友人にルワンダも案内してもらいました。その友人もルワンダの内戦を経験していて、綺麗な丘の上に立つ家に来た時、「ここにたくさんの死体があったんだ」という話を聞き、衝撃的を受けました。
自分と同じくらいの年齢の人が、すさまじい戦争体験をしている。いったい自分は、この時代、日本で生まれたことにどんな意味があるのか。
それは、「自分」がどう生きるべきかということだけではなく、「みんな」でどう生きたらいいのかという言葉に変わっていきました。それまでは、自分の人生を生きている実感を持てずに、焦りもあって「自分がどう生きるか」ということばかりに関心が向いていて、社会問題には全く興味がありませんでした。
しかし、紛争地域で暮らす人にとっては、政治などの社会問題が自分の生死に直結しているので、しっかり考えて自分の意見を持っているんですよね。そんな人と触れ合ううちに、私の人生にも社会問題は身近であるとに気づくことができ、自分のことだけではなく、社会に関心が向くようになっていったんです。
また、ケニアではスラム街で看護師の家族と一緒に住むようになり、私もお手伝いをするようになりました。HIV対策の手術などにも立ち会っていくと、学校で学ぶだけでは分からなかった、「医療と人の繋がり」を実感できるようになっていきました。
今、治療したことが、その人の未来に繋がっているかイメージできるようになったんです。病気とその先にある人生、さらにはその先の子孫の人生。それが、目の前の医療行為と関わっていると感じられるようになった時、改めて看護の仕事をしたいと思えたんです。
看護師よりも、自分を生きることで人の役に立ちたい
そして、1年ほどの海外生活を終え、大阪の病院で看護師として働き始めました。最初に配属されたのは産婦人科。出産をするお母さん、生まれてくる子ども、それを支える家族、全ての関わる人のためを考えて動いているとても温かい人たちに囲まれた職場でした。また、出産にはそれぞれのストーリーがあり、その場に立ち会える看護師の仕事の魅力を感じることができましたね。
ただ、命の重さを感じる場所でもありました。ある時、240グラムの子が流産してしまうことがありました。遺体は小さな棺桶のようなものに入れて霊安室に安置され、お母さんが退院する時に引き取られました。その時、お母さんが作ってきた可愛い棺桶に移すために遺体を持ち上げると、240グラムしかないはずなのに、今までに感じたことがないほどの重さを感じるんです。これが命の重さなんだって。
2年ほど経つと、救命救急に配属され、そこでもたくさんの方の命が絶たれる瞬間を見るようになりました。休憩中に亡くなってしまう方、次の日に会いましょうと話して当直明けの帰り際に様態が急変してしまう方。最期に話したのが私だという人もいます。自分の対応が悪かったのか?何か見落としが合ったんじゃないか?毎日そんなことを考えるんです。
そして、一人でも多くの患者さんの命を救うために、休みの時も毎日勉強。夜勤も多く、自分の時間はない生活。次第に、自分自身を抑圧することばかりうまくなっていき、気づけば自分が何が好きなのかも分からなくなってしまいました。
一方、人の死に触れる中で、自分の命をどう使うか真剣に考え続けていました。そしてある時、やっぱり「自分を生きたい」と思ったんです。看護師は人のためになる仕事。看護師になってみてやりがいも見つけた。だけど、自分の人生を生きた方が、もしかしたらもっと人のためになるんじゃないかと。
さらに、上司と今後のことを色々話していると、泣きながら「写真がやりたい」と口走っていたんです。正直、自分でも何でこんなことを言ったのかと驚きました。世界を旅していた頃は、趣味程度に写真を撮り、現地の人たちの素の生活を写していました。しかし、看護師になってからはカメラに触ることなんてなく、部屋でホコリをかぶっているくらいでしたから。
ただ、きっとそれが自分の本心なんだと思い、2014年4月、3年働いた病院を辞めて、自分の心を開放した生き方をすることに決めたんです。
様々な事実を知り、自分で考える力をつけて欲しい
そして、太平洋戦争経験者の話を聞き、写真を撮る活動を始めたんです。
歴史は気づかない間に変えられてしまうかもしれないから、とにかく体験者が亡くなる前に、正確な記録を集めたいと思ったんです。なんで戦争にそこまで興味があるのかと言われると、正直自分でも言葉に詰まってしまいます。ただ、本能的に戦争のことを伝えなくてはと思うんです。
また、戦争を多角的に捉えるために、日本の人だけではなく、東南アジアの人たちにも当時どんなことを考え、何を見てきたのかも聞きに行っています。ただ単純に「戦争は悲しい出来事だからダメだ」と言うだけではなく、何が原因だったのか、どうしたら防げるのかを、若い人が自分で考えるためのきっかけを作れたらと思っています。
特に、あまり報道されないけれども、実際に起こっていることを伝えたいと考えていて、今は沖縄の辺野古での米軍基地移設の現場で写真を撮っています。現地の人と一緒に暮らしながら、機動隊との衝突などの現場にも行きます。ただ、反対派の人たちだけではなく、機動隊の表情や賛成派の考えなども伝えていきたいと考えています。また、日本の中での賛成反対の話だけでなく、当のアメリカの軍人はどう考えているのかも聞くようにしています。
看護師を辞めて、「自分の人生」を生きるようになったら、今度は「社会に何ができるか」と目が向くようになっていきました。そして、私にとってできることは、写真伝えることなんです。今後は写真を通じて、国と国を繋ぐような活動もしていけたらと思います。お互いがどんな視点でものごとを捉えているか知ることが平和につながると。
報道では見えてこないような事実を表に出して、自分で考えるきっかけを作る。それが、私の人生の役割なんだと思います。
2015.07.13