生き残った先に見えた「人間の尊厳」国や宗教を超えて、団結する世界を実現する。
フランスでSecours Populaire Français(SPF)という、国や文化の枠組みをこえた人道支援活動を行うNGOの代表を務めるジュリアンさん。戦争と政治闘争の激動の時代、獄中で出会ったレジスタンスのリーダーがら託された言葉。死を覚悟する状況に直面しながら、助けを必要とする人々に手を差し伸べ続けてきました。彼が人生をかけて伝えたい想いとは?お話を伺います。
Julien Lauprêtre
ジュリアン・ロプレートル|人道支援NGO代表
Secours Populaire Français(SPF)という、国や文化の枠組みをこえた支援活動を行うNGOの代表を務める
団結」の意識が目覚めた少年時代
フランスの首都パリで生まれました。当時は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期で、生活は貧しかったですね。私たち家族が住む小さなアパートに子ども部屋はなく、家族三人で一緒に寝ていました。
ドイツのフランス侵攻後、国内ではドイツの意向が強く反映された政策が進められ、フランスでは自由を求める市民の活動が活発になっていました。鉄道員だった私の父は、ファシズムに対抗するレジスタンスの活動もしていました。
14歳の時に、父に連れられて、子どもの国際チャリティキャンプに参加しました。そのキャンプには、スペイン、イタリア、ドイツなど独裁政権下にある国で生活に苦しむ子どもたちが参加していました。
話をしたり、アクティビティをしたりと、一緒に過ごす中で彼らとの間に団結心が芽生えていきました。国や文化を越えて、私たちは手を取り合い団結することができる。その力はとても力強く、何か可能性を秘めているように感じました。
この頃には、父はレジスタンスの活動に集中し、収入はなくなっていきました。やがて、私の学費も払えなくなってしまいました。家族を養うためには、私もお金を稼がないといけません。それに、学校で教わることは役に立たないし、つまらないと思っていました。そういった背景もあり、学校を退学して、ガラス工房の職人として働き始めました。
ガラスづくりの仕事は好きでした。硬い石を削り出す作業は過酷でしたが、石のかけらから美しいガラスの装飾品を創り出すことがとても楽しかったんです。
レジスタンスのリーダーとの出会い
16歳になる頃、ガラス工房の仕事をしながら、友人たちとファシズムに対抗するレジスタンスグループを結成しました。ドイツでヒトラー政権が成立後、フランスはファシズム勢力に脅かされる情勢となっていました。国内でも、政治の汚職や政策不振による混乱で、労働組合のストライキが多発。労働階級とブルジョワジーの対立の隙間にファシズム勢力が台頭していました。
レジスタンスを結成して1年が経ったある日、警察の車がやってきて逮捕されました。一緒にいた友人の一人は、その時武器を所持したことが原因で、処刑されました。刑務所に入れられ、私はこれからどうなってしまうのか不安で涙が止まりませんでした。そんな時に、あるレジスタンスのリーダーに出会いました。彼は獄中で一緒に過ごす中で、私にこれまでの人生を話してくれました。
彼は移民の労働者によって結成されたレジスタンスのリーダーでした。アメリカ系フランス人の彼は、ユダヤのルーツがあり、そのことで子どもの頃から学校で差別を受けていました。彼はそのたびに、「差別され、虐げられる人々を救わなければならない」と感じていました。
レジスタンスの活動を理由に捕まったとき、彼は妻に「たとえ私が処刑されても、決してドイツ人を憎まない」と伝えました。当時多くのフランス国民にとって、ドイツ人は恐怖の対象であり、憎むべき敵でした。ユダヤ人として差別を受けてきた彼は特に辛かったはずです。しかし、憎しみの連鎖が次の差別を生み出してしまわぬよう、彼は憎しみを手放したのです。私は彼の人格や未来へのまなざしに心を打たれました。
夜になると拷問室から、「私は絶対に話さない!」と叫ぶ声が聞こえました。尋問されても彼は決して屈することはありませんでした。出会ってから8日目、彼が「私は拷問され、まもなく処刑される。でも、君は生きてここから出る。君はこれからも闘い続けないといけないよ。」と私に語りかけました。その言葉を最後に、彼は処刑されました。
私は彼の想いを託された気がして、自由への道の途中で処刑された彼のためにも、なんとしても生きて戦おうと心に誓いました。
私は別の刑務所に移され、しばらくして解放されました。しかし、そこで乗せられたのは身寄りのない人々をドイツの労働施設に送るためのバスでした。身元を証明するものがなければ、ドイツに送られてしまう。でも、私は刑務所から出たばかりで何も持っていませんでした。
その時、私の友人が証明書を持って現れたんです。私がドイツに送られてしまうかもしれないと考えた友人が、ガラス工房の上司を必死に説得して、証明となる書類を作ってくれていました。そのおかげて、私は無事にパリに戻り、ガラス工房の仕事に復帰できました。
自由のために戦ったレジスタンス時代
刑務所から出て、私には監視がつくことになりました。両親は私の親権を剥奪され、会うことができなくなり、私は毎週監視員に自分の行動や予定を報告しなければいけません。もし、違反や反政府活動など、何らかの疑いがあれば再び刑務所に戻されることになっていました。
ガラス工房の会社の関係者には、ドイツの権力者もいました。ある時、工房の職人を数名ドイツの工房に送ることが決まり、私もそのメンバーとしてドイツ行きを言い渡されました。
刑務所を出てドイツ送りから何とか逃れたのに、このままでは本当にドイツに行くことになってしまう。もう他に手はないと思い、監視員に嘘をついて、パリから逃亡しました。
その後はしばらくリヨン近くの小さな街に潜伏していましたが、ノルマンディ上陸作戦を機にパリの街がドイツの占領から解放される知らせを受け、パリに戻りました。街のいたるところで、ドイツの植民地主義の勢力とフランスの自由開放を目指すレジスタンスの闘いが繰り広げられていました。
私もレジスタンスグループに加わろうと、入隊希望の書類を作り、彼らのアジトに持っていきました。噂でリーダーが処刑されたと聞いていたので、士気を上げるために「処刑されたリーダーの仇をとるぞ!」と書いていました。ただ、それが私の勘違いだったみたいで、紙を受け取ったのがリーダー本人でした。呆れたリーダーが「そんな紙は放ってさ、来いよ、うまいカクテルでも飲ませてやるよ」と言われ、結局仲間に迎えられました。
レジスタンスでの最初のミッションは、グループの武器を調達することでした。仲間と二人でトラックに乗って武器のある場所につくと、そこにはドイツ人が待ち伏せていました。「まずい!」と思った時には、トラックが銃撃され、私たちはすぐに引きずり出されてしまいました。
背中にライフルの銃口が突きつけられているのを感じました。一緒にいた仲間は武器をもっていたので、私たちは問答無用で殺されるだろうと思いました。銃を構える男たちは何か合図を待っているようで、いつトリガーが引かれてもおかしくはありませんでした。もうこれ以上は待ってくれないだろうと諦めかけたとき、勢いよくトラックが突っ込んできました。レジスタンスの仲間が駆けつけてきたのです。激しい銃撃戦の末に、私たちは助け出されました。
1944年にはフランスの大半は奪還され、1945年のドイツ降伏によってフランス全土は再びフランス政府の手に戻りました。しかし、戦後の復興に取り組む中で、経済の立て直しの難航や植民地問題のこじれなど、苦しい政治状況が続いていました。
ある時、政治家が私のもとにやってきました。私の体験と想いを聞いて、彼の秘書にならないかと誘ってきたんです。パリに戻ってから、ガラス工房の仕事もなんとか復帰できたものの、このままでいいのか悩んでいました。政治家の秘書としてなら、人々のために、もっと影響力の大きいことができるかもしれないと思いました。
3年間政治家の秘書として活動したのち、彼は私にSecours Populaire Français(SPF)で働いてみないかと言いました。SPFは、名も知られていない小さな組織だったので、あまり気が進まず、数週間様子を見て、つまらなければすぐにやめてしまおうと考えていました。
国や宗教を超えた人道支援
当時のSPFは政治的な思想が強く、対抗するファシズム政権に追われる人々を保護する政治的なサポートが中心となっていました。私は、組織の活動が、貧困や飢餓で苦しむすべての市民に目が向けられていないことに驚きました。
組織の上司になぜ他の市民も助けないのか聞いても、「君はわかってない。多くの市民が貧困に苦しむからこそ、状況を変えたいと革命の意識が生まれ、やがて大きなアクションを起こすことができるんだよ。」と言いました。市民を扇動する革命の道具として、貧困をそのままにしようとするのか。わたしはその考えには断固反対しました。
「目の前で困っているすべての人を助ける」ことの価値を証明するために、様々な支援活動を計画しました。貧困や飢餓で苦しむ人々に、食料や物資を届けるための設備やシステムも導入し、少しずつ大きくしていきました。
翌年の会議で私は副代表に選ばれました。多くのメンバーに支持されたことで、これまで自分がやってきたことが正しかったんだと確信しました。
しばらくして、フランス南部の街でダムが決壊し、SPFが災害支援をとり仕切ることになりました。近隣の街の市長に会いに行き、街の施設に被災者を受け入れてほしいと頼みました。最終的に、近隣の街の協力を得ることができ、より大きな規模で被災者をサポートすることができました。
当時、近隣の街は保守的な右翼思想の人がトップについていて、左翼思想の強かった私たちの組織が協力を仰ぐなんて考えられないことでした。異なる政治思想の人々と手を組んだことは、SPFにとっても大きな変革となりました。これをターニングポイントに、SPFは政治の枠組みを超えたフランス初の人道支援組織として歩み始めました。
人としての尊厳を取り戻すこと
SPFでの活動を初めて60年が経ちました。SPFは今では、世界に120万人の支援者、8万人のボランティア、600の委員会を持つ組織となりました。組織には2つの特徴があります。1つは、他の組織や機関から影響を受けずに独立していること、もう1つは、すべての人と団結する意思を持つことです。
私たちは、助けを必要とするすべての人に手を差し伸べます。政治的な思想や宗教の違いは関係なく、その人が何に困っているかを考え、サポートします。組織のメンバーは自分たちを「ジェネラリスト」と呼ぶことを誇りに思っています。これは困っている人に、食料配給や日用品などの物資の供給、医療ケアなど、必要となるすべてのことをやるという意味です。
「団結」をもとにした助け合いの取り組みは、社会でより重要になっています。テロリズムや暴力、人種差別など、フランスはおろかそして世界中でも人々は脅威にさらされています。自分たちと異なる文化や思想の人々に対して強い恐怖を感じ、より大きな壁をつくっているように思います。しかし同時に、そういった状況の中で、人々には団結し助け合う意識も広がっていると思います。
フランスでは、テロの脅威が続くなかで、市民が様々な行動を起こしています。街のクリニックが無料で診察をしたり、レストランが無料で食料を提供したり、美容室が無料でヘアカットを提供したりしています。また、スポーツ協会が貧困や災害にあった子どもたちを観戦に招くなど、生活に必要なサービス以外の領域でも団結をもとにした取り組みが広がっています。
私は、団結の心を社会に広げることで、より公正で人々が助け合う世界を実現できると考えています。そのためにも、私たちの活動が世界にもっと広がってほしいと願っています。
その一環として、世界中の子どもたちを招き、国際交流キャンプを開催しています。このプロジェクトの根底には、辛い経験をした子どもたちに人としての尊厳を取り戻してほしいという願いもあります。
たとえば、ジハード(宗教戦争)を経験した身寄りのない子どもたちの多くが、テロ組織に勧誘されます。彼らに破壊ではなく人を愛することを教えることができれば、分断ではなく団結する心を育むことができれば、未来は変えられるはずだと信じています。
私たちはただ物を与えるだけではなく、人が人生のために立ち上がる力をエンパワーしていくのです。国際交流キャンプに参加した子どもたちの中には、その後、自国で同じような取り組みを始める人も出てきました。団結する心は着実に育まれています。本当に嬉しいことです。
私は学校で子どもたちに戦争体験やSPFの取り組みについて話すことがあります。その時に一番強く伝えているのが、青年の頃に獄中で出会ったレジスタンスの仲間が私に託した「生きて戦え」という言葉です。生き残ったからこそ、人生を通して、自由への想い、そして人を受け入れる心の大切さを、次世代を担う子どもたちに伝えていきたいのです。
2017.07.29