限りある人生を使い、地方から日本を動かす。誰もが能力を発揮し、調和した社会のために。

2017年、28歳で大阪府四條畷市の市長に当選し、全国最年少市長になった東さん。外務省時代の上司の死、そして父親の死を通して、市長になる覚悟を決めます。負け戦だと言われた選挙を経て最年少市長となった今、地方から何を目指すのか。お話を伺いました。

東 修平

あずま しゅうへい|大阪府四條畷市長
外務省出身。環太平洋経済連携協定など、貿易協定の交渉に関する業務に従事。大手コンサル会社で、企業のグローバル事業戦略や経営戦略の策定を支援。2017年、大阪府四條畷市長に当選。

調和がとれてみんなが笑顔のクラスに


大阪府四條畷市に生まれました。姉が2人います。両親から勉強しろと言われたことはなく、自由奔放に育ちました。ただ、親は僕のやる気を駆り立てるのが上手く、テストで98点を取ると、「もうちょっとで100点だったね」と、褒めながらも意欲が高まる言葉をかけてくるんです。それで自分から机に向かうようになりました。

小学校4年生の時、クラスで学級委員を決める選挙がありました。小4の男子って、ほぼ全員が立候補するわけですよ。大阪だし、みんな「俺や!」みたいな。僕も、楽しそうくらいの気持ちで立候補して、幸運にも当選したんです。

その瞬間に、学級委員としての自覚が芽生えました。当選した嬉しさもありましたが、与えてもらった役割に恥じないように、責任を果たそうと決めました。

理想的なクラスを考えた時に、青臭いんですが、みんなに笑っていてほしいと思いました。そこで、クラスメイトの長所を投函する目安箱を活用しました。落ち込んでいる子がいたら、僕がその子の良いところを紙に書いてそこに入れておくんです。目安箱の紙を、担任の先生がピックアップして、帰りのホームルームで読み上げてくれました。

根底には、一人一人の良さを生かし全体の調和がとれたクラスを作りたいという思いがありましたね。たとえみんなから感謝されなくても構わない。理想的なクラスになるために自分がしている行動に、誰か一人が気づいてくれれば充分でした。

高校では、マンドリン部と合気道部、生徒会執行部に入って、文化祭中央実行委員会と体育祭中央実行委員会にも参加し、みっちりとしたスケジュールで動いていました。

卒業後の進路は、京都大学の工学部一択で考えていました。きっかけは中学3年生の時に読んだ科学雑誌『Newton(ニュートン)』です。生意気だった僕は、中学で習う数学や理科の内容に飽きていたんです。そんな僕を見かねて、塾の先生から「東くん、好奇心旺盛だから、これ面白いと思うよ。読んでみて。」と、Newtonを渡されました。

その号では、核融合が特集されていました。それを読んで雷に打たれましたね。「太陽を地球に作ろう」というテーマで、水素原子から灼熱の太陽を生み出すというもので、そのスケールの大きさに、中3からしたらワクワクしかないんです。「かっこいい!これしかない!」と思いました。そこで、最先端の研究室をインターネットで検索し、京都大学の工学部の研究室に進むために受験勉強に励み、工学部物理工学科原子力専攻に進学しました。

世の中に最も貢献するための掛け算


大学へは実家の四條畷市から電車で通いました。マンドリン部に入り、時間のほとんどを部活に費やしました。高校時代は文化祭や体育祭の裏方業に撤していたので、大学ではプレイヤーを経験するためにマンドリン部に入部したんです。ほとんどの時間を部活に注ぎ、進路については全く考えていませんでした。大学院に進学して、その期間に考えればいいと思っていましたね。

大学院に進学する直前に、東日本大震災が起こりました。

ずっとテレビにかじりついて、原子力発電所のニュースを見ていました。原子力を学んでた人間としては、悪くなっていく状況がわかってるんですよ。でも止められない。政府は迷走してる。これはあかん、と思いました。

震災をきっかけに、仕事について考えるようになりました。震災前は、卒業して原発に携わるメーカーで研究職に行くのかなと、漠然と思ってたんですけど、仕事って人生かけるわけじゃないですか。やっぱり自分の能力を活かして世の中に貢献したいし、何ができるんだろうって考えました。すると、身近な人たちの顔が思い浮かんだんですよね。まずは、身近な人たちの今後を考えなきゃいけないと思いました。

世の中への貢献と身近な人の未来を考えたとき、国を改善する仕事に就きたいと思いました。僕は物理がわかります。けど、コツコツ一人で研究するよりも、みんなと一緒に何かをするっていう方が得意なんです。だから、科学者一本で行くよりもサイエンスがわかる行政官とか政治家になる方がいい。

公務員試験を受けようと決めて、必死で勉強しました。国家公務員試験はトップで受かりました。ただ、本当に国家公務員で良いのかって思ったんですよ。急に決めたことだから、急に自信を失うんですよね。

それで、いろんなことをやるために休学することにしました。大学院1年目に研究をして、2年に上がる前に休学して、社会課題に取り組む方のかばん持ちをしたり、ベンチャー企業でインターンをしたり、フィリピンに留学したり、物理以外のことも深く勉強しました。

色々な経験をする中で、やっぱり国家公務員という選択でいいと思えたんです。ITベンチャーからも内定を貰い就職しようか迷いましたが、国を良くしたい、社会を良くしたい、という思いが実現できるのは国家公務員だと思ったし、ぼんやりと、その頃にはもう自分は最終的に政治の方向に行くんじゃないかという気がしていました。ならば、早い段階で国の中枢に関わろうと、官僚になることにしました。

省庁を見て回る中で、僕に合っていたのは外務省でした。ある外務省の方から、交渉は51対49で勝つぐらいが良いんだよと教えてもらいました。100対0で勝ったら相手に報復される。報復されたら負けなんですね。どっちが勝ってるかわからないけど、微量の差で実は国益としては上回っているというのが望ましい。外務省では、相手国と自国の議論によって、より良いものを産みだせたかが重要だと。この教えが自分にはしっくりと来たこともあり、外務省に入ることを決めました。

人生の締め切りを意識した上司の死


外務省で配属されたのは、経済連携課という実際に他国と交渉を行う部署でした。TPPを始めとする自由貿易協定を、同時に10本以上交渉している部署で、その取りまとめ役を担当しました。国同士の交渉の進め方を学べましたし、協定によって輸入品の値段が変わるというだけではなく、技術供与による国防的な観点からの議論もなされたりと、一つの交渉の影響力の大きさを肌で感じて楽しかったですね。

一方で、協定を結んで国民にどう影響が出るのか、国民はどう感じるのか、驚くほど国民の顔が見えなかったんです。1年目で議事録取りや省庁・部署間の調整ごとが主な仕事だったということもありますが、誰のために何をしているのかわからなくなるときがありました。

そんな中、大きなモチベーションになっていたのは、外務省での職場の上司の姿です。他省庁の方でも存在が知れ渡ってるような、いわゆるエースと言われるタイプの方でした。時の重要な外交案件に立て続けに携わっているような、とにかく優秀で、人格者でした。

僕は具体的な仕事でご一緒することはほとんどなかったんですけど、出身大学が同じで学科も一緒だったので、たびたび食事に誘ってもらいました。2人で相対性理論や科学哲学の話をするんです。多分、物理学の話をする相手がほしかったんだと思います。

結局、その先輩が私の在籍していた部署に送り込まれてから、TPP交渉は大きく進展し、その約1年後には大筋合意に至ることができました。

ところが、先輩は大筋合意を見届けることなく亡くなりました。

心不全だったんです。まだ49歳でした。普段は定時に来て定時に帰る方だったんですけど、ご自宅で必死に勉強されていたり、時差もある中で過酷な交渉の連続でしたので、無理をしていたのかもしれません。全く兆候がなかったので、省内全員が唖然とし、皆号泣しました。

そこで思ったことは、自分があんな風に偉大な人間になれるとは到底思えないけど、49歳でも人は死ぬんだということです。「49歳までに何か成し遂げなきゃいけない」という想いが強烈に生まれました。

彼みたいにはなれないけど、彼のように生きたい。このまま官庁にいたら、国を改善できるポストに就けるのは、おそらく20年後でしょう。だけど、20年待っていられるんだっけ?と思ったんですよね。死ぬほど働いてた気がしてたんですが、間に合わないなと。人生に「締め切り」感ができました。

時を同じくして、国は地方創生に動き出していました。これから地方が注目されるなら、国の中枢にいてじっくり変えていくより、地方の首長になって地域を変えた前例を作った方が、国を変える立ち位置になれる可能性があると思いました。彼のように生きるべく49歳まで思いっきりやろうと考えて、将来は市長になるという決断をしました。

でも、市長は市を運営する、いわば経営者なので、今の自分の経験だけではできないと思ったんですよ。民間で経営の感覚を掴まなければならない。短時間で経営の仕組みを知りたかったので、大手コンサルティング会社に就職しました。

顔の見える人が楽しく暮らせる街に


大手コンサル会社には少なくても5年くらい勤務して経験を積もうと思っていました。自動車産業のコンサルとしてインドで働きました。

しかし、インドに渡った1ヶ月後に、父親が末期がんだとわかりました。父親は59歳でした。「まじか。またか。」と絶望を感じました。

インドで仕事するかたわら、東京出張のために帰国する時は地元の四條畷に帰るようになりました。ある時、市役所に勤務している地元の先輩と話す機会がありました。先輩は、もうすぐ子どもが生まれるから市外に家を買う予定だと教えてくれました。それを聞いて唖然としましたね。市のために働く職員が外に家を買って出ようとする街になっていたんです。さらに同級生からは、子育てする環境が良くないという話も聞きました。

そして、父親の看病で通ううちに、四條畷の状態が実際に良くないということがわかってきました。行政、コンサルなど、色んな観点で今の地元の状態を見てみると、この5年ぐらいの間にとてつもなく悪くなっていることに気がついたんです。

とはいえ、この四條畷で、僕のおかんや同級生は死ぬまで暮らす。だったら、最後まで楽しく過ごせるような街でいてほしいと思うじゃないですか。

時の市長は、父親も元市議会議員で、市長選で勝てる人はいないような存在でした。選挙は他に候補者がいなかったら無投票再選の方向でしたが、それでいいんだろうかと疑問を感じました。

「負ける負けないじゃないし、変えないといけない。今こういう状態にあるっていうのを市民が知らないといけない」と思ったんです。

ちょうどそんなタイミングで、父親が亡くなりました。会社から休暇をもらって、街の状態や人生の締め切りについてとことん考えました。そして、今やらなければ間に合わないと思い、市長選出馬を決めたんです。

市長選は凄腕の選挙プランナーの方にサポートしていただきました。初めはサポートを断られたんですよ。でも、「僕が勝つ負けるとかじゃなくて、四條畷市の未来がかかってるんです」と、3時間かけてなんとかお願いをして、サポートをしてもらえることになりました。

選挙プランナーのアドバイスのもと、四條畷市について何でも答えられるように勉強しました。計画書など全部読み込んで、資料作って、議会の過去の議事録を読み込んで、何年に誰がどういう発言してるみたいなところもチェックしました。各地域の自治会館をひたすらまわって、そこにいる地元の方と意見交換会をやっていったんです。

最初は、27歳の若造がなんも知らんだろう、みたいに見られることが多かったですね。それでも、質問には全部答えられるのを見て、その瞬間に、みなさんの目の色が変わるんですよね。「あいつ、何でも知ってるぞ」って。

マイナスな印象が強かった分、思いっきりひっくり返るんです。結局、意見交換会に参加いただいた方がものすごくコアなファンになってくださって、私のことを拡散してくれたんです。なんか期待できるんじゃないかって。

それで一気に潮目が変わりました。直接知り合いでない方も、ただただ街を良くしたいっていう思いで協力してくれたんです。

たくさんの方の応援と協力のおかげで、大阪府四條畷市の市長に当選することができました。

地方を発端に社会を1ミリずつ動かす


現在、四條畷市の市長として、「変えること」「守ること」「創造すること」をコンセプトに、街づくりをしています。特に「創造」面では、色んな民間企業と組み、互いのメリット活かしてwin-winになるような枠組みを作って、街を活性化しようと取り組んでいます。

ミッションは2つあって、1つは市長として市のこれまでの変わらなかった部分を変えていくこと。そのためにも、自走できる組織をつくる。任期を終えて市長が変わったら元に戻る組織では駄目なんですよ。これは、絶対に達成すべきミッションです。

もう1つは、様々な取り組みを通して、四條畷市のブランド価値を上げて、住民に誇りを持ってもらうような街づくりを実現するということです。

政治家としては、常に想像を超えたものを提示していきたいですね。小学校の時、クラスにいろんな個性を持つ生徒がいたように、僕は、多様性がある社会が最も強いと思っています。そうなるためにできること。意外な取り組みや予想外な企業とタッグを組んで、常に新しいものを提示していって、世の中に問い続けていきたいです。

四條畷って5万6千人しかいない小規模な街なんですが、逆に言うと機動力が抜群だと思います。説得する相手が少ないので、前例が作りやすいんです。成果が出る前例を続出させて、日本を動かしていくことに、まずは着手したい。それを他の市や県が真似して、国が法整備していったらいいなと考えているんです。四條畷市を発端に、社会を1ミリずつ動かしたい。

僕自体は、何になりたいとかは特に無いですけど、その時のステージによって一番社会に貢献できる仕事って見えてくると思うんですよ。だからそれをやればいいと考えています。

2018.01.04

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