夢を追い続けるのが、幸せの秘訣!
ニューヨークでダンスに挑戦するの僕の夢。

ニューヨークでダンサーとして活躍をする中澤さん。プロダンサーになるなんてイメージできずに、大学卒業後は就職して飲食店で働いている時期もありました。25歳の時に渡米を決めるまでには、どんな背景があったのか。お話を伺いました。

中澤 利彦

なかざわ としひこ|ダンスパフォーマー
ニューヨークにてダンサーとして活動しながら、日本では「夢を持ち続ける」ことの大切さを伝えるための講演活動を行う。

【クラウドファンディングで募集中】日本の子供達へ夢や可能性を伝える講演活動をしたい!~From NY~

photo by Masayuki Tsujimura

初めて打ち込めたのがダンスでした


新潟で生まれました。小学生の頃にバスケットボールを始め、中学でもバスケ部に入りました。2年生までは楽しく活動していましたが、3年生になって先生が変わると雰囲気は一変して部の強化に力を注ぐようになりました。チームを2つに分けるようになり、僕は下位チームに。しかし、後輩は上位チームに入ることになり、プライドを傷つけられた僕は部活に行かなくなったんです。高校でもバスケ部に入ったものの、強豪校の空気が合わずに1年で辞めてしまいました。

ほとんどの人が大学に進学する学校だったので、僕も受験することに決め、特に将来の夢はなかったけど、得意だった英語を学べる学科を目指し、都会への憧れから上京することにしました。

大学では、新しいことを始めようと思っていて、友達に「なんかやって」と言われた時に、道具を使わずにその場でできる種目がいいと考えていました。また、今まで部活を最後まで続けられなかったので、最後までやりきってみたいと、サークルではなく部活にこだわっていました。そして、テコンドーと悩んだ結果、軽い気持ちでモダンダンス部に入ることに決めました。

すると、初めて踊った瞬間、「これだ」と感じたんです。言葉では表せないけど、やっと心からのめり込めるものと出会ったような感覚があったんです。

社会人として突きつけられた現実


ダンス中心の生活が始まりました。学費を稼ぐために新聞配達をしていたので、夜中から活動を開始して、配達が終わると学校に行き、夜は部活で踊る毎日を繰り返していました。

それなりに結果も出していましたが、将来プロになるとは考えていませんでした。どこまでやれるのか挑戦してみたい気持ちはあったけど、周りにプロダンサーなんていなかったので、どんな生活を送るのか具体的にはイメージできなかったんです。

3年生になると、周りと同じように就職活動を始めました。特にやりたいことはなかったので、満員電車を避けられそうで学力試験がない企業と、条件のみで絞っていき、最初に内定をもらった外食系の会社で、正社員として働くことにしました。

仕事を始めてからもダンスは続けようと思っていました。しかし、実際に働き始めると、現実は甘くはありませんでした。

朝から深夜まで働くので時間拘束は長いし、体力的にも余裕なんてなかったし、店長になると忙しさはさらに増していきました。また、休みの日でも店舗の状況が気になるので、忙しさのピークが過ぎた頃に「大丈夫だった?」と電話をするんです。安心して任せられる人を育てられればいいのですが、23歳そこらの僕にはその力はありませんでした、

正直、辞めたいと思いましたが、他にやりたいこともないし、責任もあったので簡単に辞める決断はできませんでした。体調は崩すし、プレッシャーで毎日泣いてましたね。

とは言え、仕事にやりがいを感じる瞬間もありました。人を採用して、成長を間近で見られる瞬間は、何よりも嬉しかったんです。

やりきるまで挑戦したいと思って導いた決断


ある時、グループ会社の店舗に異動になり、新潟に戻ることになりました。僕にとっては初めての店だったので、一旦は店長職ではなくなったし、実家に住み始めて生活に余裕も出てきたので、ダンスをする時間が取れるようになりました。

そこで改めて考えた時、店長生活にはもう戻りたくないと感じてしまったんです。拘束時間が長くて自分のやりたいことはできないし、店長としてのキャリアの先も見えてしまっていました。また、ニューヨークの有名クラブ「アポロ・シアター」で連夜行われているイベント「アマチュアナイト」で優勝している日本人のダンス動画を見て、正直自分でも勝てそうなレベルだと感じたんです。

大学でのダンスはやりきった感覚がないまま、卒業もあってうやむやに終わってしまっていた後悔がありました。

やりきったと思えるところまで挑戦したい。今の日常から脱却したい。

そんな思いが重なり、25歳で3年働いた会社を辞めて、ニューヨークに行ってダンスで挑戦することを決めたんです。初めての海外だし、英語は全然喋れなかったけど、不安はありませんでした。唯一の不安は初めて乗る飛行機に対しての不安だけでした。(笑)

地道に続けたからこそ叶った夢


しかし、実際のニューヨーク生活が始まると日本を恋しく感じることもあったし、「タフでないとやっていけない」と感じるようになりました。みんな自分の主張をするし、自分でコントロールできないことも多いので、確固たる軸を持っていないと流されてしまい、心が疲弊してしまうんです。

実際、人間関係でトラブルがあり、ダンスの学校には行けなくなりました。10キロも太ったし、夕方から深夜まではアルバイト、朝は起きれず、昼は家で日本のお笑い動画を見るような生活が始まり、何のためにニューヨークにいるのか分からない状態でした。

幸いなことに僕の周りには明るい友人が多く、励ましてもらうことで少しずつ立ち直っていきました。また、この時期に人の心に関する本を読むようになりました。それまでは自己啓発など信じていなかったのですが、自分の体験も重なり、「心と身体は繋がっている」と理解できるようになっていきました。

転校してまたダンス学校に通い始められるようになり、少しずつオーディションの結果も出るようになっていきました。仕事が入ってもギャラ無しのことが多く、アルバイトをしながらのダンス生活でしたが、もう中途半端なことはしたくないと思っていたので、辞めたいとか、日本に帰りたいとかは全く思いませんでしたね。地道ではありましたが、着実に努力を積み重ねていきました。

そして、2013年5月、3年目の挑戦にしてついに、アポロシアターのアマチュアナイトで優勝できたんです。夢が叶ったと、純粋に嬉しかったですね。

経験を伝え、日本の子どもに夢を持ってもらう活動


その後もより高みを目指してオーデションを受けたりしていき、徐々にダンスの仕事も入るようになり、2014年の冬にはアルバイトをせずにダンスのみで生活できるようになったんです。

現在は「The Ride(ライド)」と呼ばれるショーでのパフォーマンスが中心になっています。これは、お客さんがバスでニューヨークの様々な場所を回り、その先々でショーを見れるものです。バスからショーを見てもらえるので、お客さんとの距離が近いのが楽しいですね。

その他にもオーディションを受けたり、ダンスの講師として働いています。アメリカは日本と比べて、芸術に対して許容度が高いので、パフォーマーの需要もあるし、空気そのものも「諦めなくていいんだ」と思わせてくれる感覚があります。これからもダンサーとして、アメリカでの挑戦を続けていき、今後はハリウッドで歌も交えたパフォーマンスにも取り組みたいと考えています。

また、自分のこれまでの経験を活かして、日本での講演活動にも力を入れていこうと考えています。僕自身、子どもの頃に、今の僕みたいな夢を追う生き方を知らなかったので、将来のイメージを持てずに、一度はダンサーの道を諦めることにしました。しかし、夢を追い続けている方が幸せだと僕は思っているし、自分でも実感しています。だからこそ、こんな生き方もあること、夢を諦めない道もあることを、講演活動を通じて多くの人に伝えたいと考えています。ニューヨークで4年間挑戦し続けているので、少しは役に立てる話ができるんじゃないかと。

特に、小学校や中学校などの教育の現場で伝えていきたいと考えていて、全国を回るためのクラウドファンディングにも挑戦することにしました。ありがたいことに、学校の先生から「講演に来て欲しい」と言ってもらえることはあるのですが、どうしても公立の学校だと予算が出せずに、講演に行くのが難しいこともあるんです。そこで、クラウドファンディングで地域の人などから出資いただき、各地の学校に回れたらと考えています。そして、僕の生き方が子どもたちの世界を広げるきっかけになればいいなと思います。

教育、ダンス、どちらも僕にとっては今も追い続けている夢です。僕の生き方を通して、多くの人が夢を捨てずに、追いかけ続けられる社会を作るため、少しでも貢献できればと思います。

2015.03.27

中澤 利彦

なかざわ としひこ|ダンスパフォーマー
ニューヨークにてダンサーとして活動しながら、日本では「夢を持ち続ける」ことの大切さを伝えるための講演活動を行う。

【クラウドファンディングで募集中】日本の子供達へ夢や可能性を伝える講演活動をしたい!~From NY~

photo by Masayuki Tsujimura

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