敷かれたレールは歩まない。
自分がやりたいことをやって生きる。

教育熱心な家庭で育ち、他人が決めたルールの中で生きることに違和感を感じてきた田中さん。一部上場企業を退職し、自分の大好きだったダンスを仕事にしようと決意した理由とは?お話を伺いました。

田中 総三郎

たなか そうざぶろう|ダンサー
都内を中心にダンスのインストラクターや振付師として活動、日本のニュースタイルハッスル(NewStyle Hustle ※略称: NSH)のパイオニアとして、相方のEriと共に国内外にその普及活動を行っている。ニューヨークでNSHの創始者であるJeff Selby氏に師事した。また、サラリーマンエンターテイメント集団「Team Black Starz」、人気急上昇中の無料音楽パーティー「SpeakeasyTYO」の一員としてパフォーマンス/イベント運営活動をも行う。

理不尽な事が許せなかった少年期


アメリカのサンフランシスコで生まれました。両親は日本人でしたが、銀行員だった父の仕事の都合でアメリカに住んでいたのです。姉と2人の兄がいる、4人兄弟の末っ子です。4歳頃に日本に戻って来てからは、東京で育ちました。

小学校ではわんぱくで、友達とケンカをした時には、相手に怪我をさせてしまったこともありました。ただ、中途半端に正義感もあって、いじめを見つけたら止めに入ることもありました。いじめられている子が可哀相というよりは、単にいじめが繰り広げられている状況自体が全然面白くないからです。不幸せな人がいる状況は、気持ちよくないと思っていました。

中学校でも、いじめを見かけて止めようとしたこともあります。しかし、小学校の時のようにうまく止めることができなかったんです。中学校には複数の小学校から生徒が入学してくるので、小学校では強めだった自分の立場も変わってきます。それに気付かずに行動していたから、「なんだお前」と反感を買ってしまい、逆にいじめられたこともありました。理不尽な嫌がらせをする人たちにも、中途半端に正義漢ぶって結局何もできない自分にも、強く嫌気がさしていました。

ダンスとの出会い


高校受験の時期になり、姉と長兄が通っている学校の見学に行きました。帰国子女の生徒が多いことから廊下では英語や中国語が飛び交っていて、自由で海外色の強い雰囲気にとても惹かれました。

体育館の舞台で行っていたダンス部の発表では、女子は創作ダンス、男子はヒップホップを踊っていました。男子学生たちの踊る姿を見て「なんてかっこいいんだ!」と思い、絶対にこの部活の入りたいと思いました。歳が近い方の兄がダンスをやっていて、憧れの気持ちもあったんです。

中学校で入っていたバスケ部の練習がハードで辛かったのに比べて、ダンス部はすごく楽しそうで華やか。この部活に入ったらモテそうだなという思いもありましたね(笑)

「あのダンス部に入りたい」という一心で受験勉強を頑張り、無事入学することができました。通学してみると、思っていた通りに自由な校風で、入ったダンス部も楽しかったです。

高校2年生の春、ダンス部の発表会の創作者のひとりになりました。発表会の全体のテーマや構成を考える役割です。

その責任の重さからくるストレスで、次第に心の調子が悪くなっていきました。ご飯が喉を通らない、朝起きてどの服を着ればいいかわからない、家を出て右と左どっちに歩いていけばいいかわからない。ストレスのせいだと思っていたので病院には行かなかったですが、かなり悪い状態でした。

それでも部活終わりに友達とコンビニに立ち寄って、くだらない話で盛り上がる時だけは、責任感から解放されて心がふわっと軽くなりました。一緒に笑ってくれる仲間たちの存在に救われ、発表会を無事終えることができました。


敷かれたレールと葛藤


大学受験の時期になっても、行きたい大学はありませんでした。父は国立の一流大学を卒業していて、姉と2人の兄も難関私立大学に通っていたので、家庭内で絶対的存在であった父からは「難関大学に行きなさい」という強い期待を受けていました。

自分には難関大学に行きたいという気持ちは特にありませんでしたが、それに反論できるだけの強い根拠はありませんでした。自分なりにどの大学が良いかなと調べてはいましたが、結局その期待に応える為に必死で勉強して、有名私立大学の法学部に入学しました。

大学に入ってからは、サークルやイベント活動などダンス三昧でした。大好きなダンスができて、とても楽しかったです。ただ、将来の仕事としてダンスをやろうという気持ちはありませんでした。好きだからこそ、仕事にしたらダンスが好きじゃなくなっちゃうんじゃないかと考えていました。

特に就きたい職業もなく、なんとなく就職活動を始めました。父の人脈で、数社から書類選考では優遇すると言われていましたが、その会社に対する気持ちがないので選考書類すら書けませんでした。父から言われた通りに就職活動する中で次第に、「俺って何なんだろう」という気持ちが大きくなっていきました。

やりたい仕事が見つからず、言われた通りにしか動けない自分が悔しくて、辛くて、涙を流しながら就職活動をしていました。

結局、父とは関係ない中古車販売の会社に就職しました父の存在というフィルターを通さずに僕自身を認めてもらえた事が嬉しく、この会社に就職する決め手となりました。とはいえ、その前提には、大学卒業後に一般企業に就職してほしいという親の期待に応えようとする気持ちがありました。

やっぱりダンスがやりたい


ところが入社してすぐに、自分のやりたいようにできない窮屈さを感じるようになりました。中古車を販売する営業職に就いたのですが、お客さんに説明する内容には当然ながらマニュアルがあります。もっとこういうふうに説明したい、お客さんとぶっちゃけて話したいと思っても、そうはできません。

思い切ってルールからはみ出たチャレンジを想像はしてみても、それを実行する勇気も、何を言われてもやり通そうという情熱も自分には足りてなかったのです。ネガティブな思考で仕事をしていたので、嫌なことがあった時に「どうせ自分のやりたいことではない」と自分に言い訳をするようになっていきました。

そんな日々の中で、心のバランスを保ってくれたのが、社会人になっても続けていたダンスです。たとえ夜11時に帰宅しても、家の近くで1時間だけ踊るようにしていました。

しかし、仕事が忙しくなるにつれて、ダンスをする時間は減っていきました。ダンスができない一日を過ごす度に自分の何かが剥がれ落ちるような感覚に襲われ、すごく怖かったです。「このままじゃダメだ。やっぱり自分はダンスがやりたい」という気持ちが強くなっていきました。

そんな日々に嫌気が差して、入社から1年くらいで仕事を辞めることにしました。しかし、会社を辞めるには父を説得しなければいけないと思っていました。家族の中で父の意見は重く、キャリアに関しては父の同意を得なければいけないと思っていたのです。

車を買ったばかりでまだローンが残っていたので、ダンスの師匠の元でアルバイトして返済する計画を立て、会社を辞めたいと父に話しました。しかし、「お前の話を聞いていると自分のことしか考えていない。もうちょっと仕事は続けろ」と言われてしまいました。

早く辞めたいと思いながら仕事を続け、ある日改めて父に仕事を辞めようと思う旨を伝えました。その結果、僕を説得しようとするのは諦めたのか、ようやく「お前がそうしたいならそれでいい」と言ってくれたんです。

退職が決まった矢先、たまたま父が仕事でニューヨークに長期出張することになりました。すると「ニューヨークはダンスの本場なんだろう。どうせだったらお前も来ればいい。宿は同じところに住めばいいよ」と言ってくれたんです。結果、自分がコツコツ立てていた計画をフワッと白紙にして、ニューヨークでダンスの修行をする事にしました(笑)

ニュースタイルハッスルとの出会い


退職日が決まり、有休消化中に父とニューヨークに行きました。半年滞在するつもりで、現地ではダンスレッスンを受けたり、ダンス仲間を作って遊んだりしました。

父のおかげで、金銭面や住居などで不自由することなくダンスを学ぶことができました。でも、父に頼るだけの状況が嫌だと思うようになり、自立するために、現地の日本料理屋でウェイターを始めました。

ニューヨークでは、頻繁に様々なダンスクラブやダンスの練習会に出入りしていました。そこで、見たことないペアダンスをかっこ良く踊っている人たちがいたんです。「ニュースタイルハッスル」というダンスジャンルでした。

ニューヨーク発祥のハッスルというペアダンスをもとに、踊りや音楽、スタイルの自由度を高くして、お互いのコミュニケーションを大事にしたダンスです。僕が初めて見た時はまだ名前も浸透していなくて、そこで見た2人だけがニュースタイルハッスルの名前で踊っているという状態でした。

自分にとって、それまでペアダンスのイメージは、映画『Shall We Dance?』に出てくるような、いわゆる格式の高い社交ダンスのようなものでした。でも、ニュースタイルハッスルを踊っている2人はTシャツにスェット姿。曲もハウスミュージックやクラブミュージックがほとんどです。それがすごく新鮮で、とにかくかっこよくて、自分も踊れるようになりたいと強く思いました。

後日、ニュースタイルハッスルを踊っていた人たちのダンスレッスンに参加してみました。すると、その人たちがまさに、アメリカでニュースタイルハッスルというジャンルを考案した人と、そのパートナーだったんです。日本では見たことがなかった新たなジャンルのダンスに魅了され、レッスンに通い始めました。

いろいろなダンスレッスンを受けたり、ニュースタイルハッスルをひたすら練習する日々を送り、徐々にダンサーとして活動する機会が増えていきました。ダンスバトルで良い成績を残すこともできました。

気が付くと、予定していた半年の滞在期間を大幅に過ぎていました。アメリカでの生活は楽しかったですが、あまり長くいても、自分の生活やダンスに慣れが生じてしまいダメになると思いました。同時に、日本でもこの最先端のニュースタイルハッスルを広めたいと思うようになったんです。渡米から約1年半で日本に戻ることにしました。

帰国してからは、ニュースタイルハッスルを教えるワークショップを開きました。ニュースタイルハッスルはまだ日本のダンスシーンに持ち込まれていなかったので、興味を持ってもらうのに時間がかかりました。ダンスパートナーとパーティーで沢山踊るようになってから色んな人に声をかけてもらい、レギュラーレッスンやパーティーの開催に至りました。やはり言葉でいくら説明するよりも踊る姿を見てもらう方が何倍も説得力があるんですね。

その他にも、渡米前から一緒にダンスをしていた仲間から誘われることが多くなり、イベントでダンスを披露したり、インストラクターとして活動したりするなど、ようやく大好きなダンスを仕事にすることができました。

自分の足で、自分の人生を


現在は、ダンスのインストラクターとしてダンスレッスンを行うほか、複数のダンスチームやパフォーマンス集団に所属しています。そのうちのひとつが、働くエンターテインメント集団「チームブラックスターズ」です。自主制作のライブを企画したり、大学の学校祭や地域のお祭りでパフォーマンスしたり、アーティストの振り付けをしたり。あらゆる方面で活躍中のこのチームのメンバーは、ほとんどが会社員。会社や組織に所属しながらやりたいことをやり続ける大人が集まるこのチームに魅力を感じ、個性豊かなメンバー達と共に日々エンターテイメントを発信し続けています。

振付師としても活動していて、日本の有名なアイドルグループの振付考案に参加したこともあります。幅広い活動をしている中でも特に力を入れているのは、自らダンスレッスンやパーティーを主催し、ニュースタイルハッスルを広める活動です。

ニュースタイルハッスルは、手と手を繋ぎ、リードする人とされる人でコミュニケーションをとって踊ります。自分の気持ちだけを前に出してはダメで、相手の気持ちを尊重する必要があるのです。ニュースタイルハッスルを広めることで、そうした相手の気持ちを尊重するコミュニケーションを大事にしていきたいと思っています。

ダンスには、知らない土地に行っても一緒に踊れば仲良くなれるという良さがあります。そこで繋がった人たちから、その土地の風土や文化を教えてもらうと、自分にとっても刺激になり、勉強になります。

現在、2019年5月に入籍したばかりの奥さんと一緒に47都道府県を3カ月かけて旅をする「手と手 47project」という企画を立てており、ニュースタイルハッスルを広めると共に、現地で多くの人と繋がり、色々な価値観を吸収していきたいと思っています。自分の足で様々な土地に行って経験を重ねることで、人生の深みが増していくと感じています。

長い間、自由に生きていきたいと思う気持ちと、敷かれたレールの上を歩き続けている現実との狭間で葛藤してきました。しかし、これからは自分の足で、自分の人生を歩んでいきたいと思っています。


2019.07.27

田中 総三郎

たなか そうざぶろう|ダンサー
都内を中心にダンスのインストラクターや振付師として活動、日本のニュースタイルハッスル(NewStyle Hustle ※略称: NSH)のパイオニアとして、相方のEriと共に国内外にその普及活動を行っている。ニューヨークでNSHの創始者であるJeff Selby氏に師事した。また、サラリーマンエンターテイメント集団「Team Black Starz」、人気急上昇中の無料音楽パーティー「SpeakeasyTYO」の一員としてパフォーマンス/イベント運営活動をも行う。

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