小さな「できる」を積み重ねて夢の舞台へ。
パラスポーツを日常にする、メダリストの挑戦。

パラアイスホッケーの日本代表として三度パラリンピックに出場し、現在はパラスポーツの普及に尽力する上原さん。生まれたときから二分脊椎という障害で車椅子での生活を送っていた上原さんが、世界で活躍するプレーヤーとなった原点、そしてパラスポーツに懸ける想いとは。お話を伺いました。

上原 大祐

うえはら だいすけ|パラアイスホッケーメダリスト
パラリンピック銀メダリストアスリート、NPO法人D-SHiPS32代表。障害攻略課、NEC東京オリンピック・パラリンピック推進本部東京2020推進室などのメンバーとしてさまざまな活動を行う。生まれながらに二分脊椎という障害を持ちながら、活発な少年時代を過ごす。19歳でパラアイスホッケーに出合い、2006年のトリノ、2010年のバンクーバー、2018年の平昌と、三度のパラリンピックで日本代表として選出される。

「できない」はこの世にない


長野県軽井沢町で生まれました。先天的に二分脊椎という障害を持っていたため、歩くことができませんでした。しかし、周りの子よりもかなりやんちゃな性格で、小さい頃は自然の中をターザンのように遊びまわって過ごしました。

友人達と毎日外へ出かけ、車椅子をほったらかしにして這ってどこにでも行きました。川に飛び込んでイワナやニジマスをとったり、森でカブトムシや蛇を捕まえたり。毎日泥だらけで帰って来て、玄関で全裸にさせられお風呂に直行でしたね。

毎日泥だらけになって帰ってきても、母は「やめなさい」と言わずに、次の日にはまた「いってらっしゃい」と送り出してくれるんです。いつも100%で「いってらっしゃい」を言ってくれるから、私は120%、外の世界を楽しめていました。

そんな母が嫌な思いをしながらも必死に動いてくれた事で、小学校から普通学級に通えました。小学校では、同級生みんなが自転車に乗っていました。羨ましいと思い「乗りたい!」と言うと、母は「ちょっと待っててね」といろいろな所に電話をかけて、群馬県まで行って手で漕げる自転車を見つけて来てくれたんです。自転車に乗れたときは「ヤッホー!」って思いましたね。すごく嬉しかったです。

母はそんな風に、はじめから「できない」と決めつけるのではなく、一見難しそうなことでも、「ちょっと待っててね」と言っていつも「できる」方法はないかを探してくれました。やってもいないのに、はじめからできないことなんてこの世にないんだと教えてもらいました。

中学校では、吹奏楽部に入部しました。小学校のとき、仲の良い友達がトランペットを吹いていたのがかっこよかったんです。吹奏楽に熱中し、上のステージを目指してひたすら練習しました。

最終的に県大会までは行けたものの、その上の大会へは行くことができませんでした。3年生で最後の大会が終わったとき、もうプレーヤーとしてはこのステージに立てないことがすごく悔しくて、将来は指導者としてこのステージに立とうと、音楽の先生を目指すことにしました。

パラアイスホッケーとの出会い


音楽科のある高校へ進学することも考えましたが、将来の選択肢が音楽の道しかなくなるかもと考え普通科の高校へ進学しました。もっといろいろな可能性を見てみたかったんです。入学した高校に吹奏楽部がなかったので、ギターを弾いてみたり、新しくバトミントン、卓球などのスポーツを始めたりしました。スポーツも、やってみると面白いんだと気がつきましたね。

そんな高校生活中に長野でオリンピック・パラリンピックが開催されており、軽井沢にはカーリング会場がありました。私の通う高校で選手たちや関係者を呼んだレセプションが開かれた時に、ドイツの方が「スポーツしてるの?僕はパラアイスホッケーをやっているんだ。楽しいから君もやりなよ」と話しかけてくれました。一見してわかりませんでしたが、彼は義足でした。

ちょうどその頃、車椅子を売ってくれている会社の社長にも、パラアイスホッケーを勧められていました。社長も車椅子に乗っていて、パラアイスホッケーのプレーヤーだったんです。

私は友人と一緒に登下校中に遊ぶのが好きだったのですが、中学になると自転車、高校になるとバイクをみんなが使うので、どうしても車椅子では追いつくことができませんでした。

そこで考えたのが、自転車やバイクを掴んで車椅子を引っ張ってもらう方法です。自転車のときはよかったものの、バイクになると流石に車椅子が耐えられなかったみたいで。ある日車椅子が止まった時にカタン。と前に倒れてしまいました。右の前輪が完全に取れてしまったんです。

そんな日々を過ごしていた事もあり、社長が、「お前ほど車椅子を壊す奴はいない。何事も恐れないそのやんちゃな性格がホッケーに向いている」とパラアイスホッケーに誘ってくれました。

高校を卒業すると、長野の大学へ進学。大学では、建築を学ぶことにしました。音楽ではなく建築を選んだのは、車椅子で移動するのが大変な設計の日本の建物を変えたいと思ったからです。

長野オリンピック・パラリンピックの影響で近くの駅が新しくなったとき、中に入って衝撃を受けました。「なんだ、この新しいくせにポンコツな駅は!」と。エレベーターを乗り継がないとホームに行けないなど、車椅子で移動するのがすごく大変なつくりで。「もっとちゃんとした建築物を日本に広めたい」と心に決め、建築を学ぶことにしたんです。

大学の近くに長野オリンピック・パラリンピックの時に作られたスケートリンクがあり、ソルトレイクシティパラリンピックに向けて、選手たちがパラアイスホッケーの合宿をしていました。合宿に見学に行くと選手から「乗ってみなよ」と言われ、氷に乗ることになりました。

パラアイスホッケーでは、スレッジというそりに乗って、両手にスティックを一本ずつ、合計2本持ってプレーします。実際に乗ってみたらすごく面白くて。以前車椅子バスケをやってみたときはあまりうまくできなかったんですが、これはうまくプレーできそうな感覚がありました。すぐに、長野県のクラブチームに入って練習に参加することに決めました。

これまでずっと健常者の中で育ってきたので、障害のある人と接するのは初めてでした。自分の障害を笑いにする人や、障害をネガティブに捉えるのではなく上手に障害と付き合っている人がいて新鮮でしたね。

練習を始めるとすぐに、できることがどんどん増えていきました。小さい頃から、車椅子から降りて這っていろいろなところに行っていたので、知らないうちに体の使い方や腕力が身についていたみたいです。体が小さいことを活かして、機敏な動きで攻め込むフォワードになりました。

どんどんのめり込んで行き、通常2カ月かかることを1、2週間でできるようになることもありました。上手くなるのが面白かったですね。先輩がパラリンピックに向け出発するときには「次は私が行きますよ」と生意気な見送り方をしていましたね。

ある日、パラアイスホッケーのトレーナーに会ってほしい人がいると言われました。事故で歩けなくなり、引きこもってしまった人がいるというんです。そのとき、障害があるから引きこもっている人がいる、という現実を初めて知りました。自分にとっては普通のことでしたから。

しばらくしてまた、障害を持って引きこもっている、別の方に出会いました。僕は、そういう方々が社会と接点を持つきっかけになるのがスポーツだと思い、スポーツに誘いました。その方は一緒にプレーしていく中で徐々に変わっていき、引きこもるのをやめて東京で一人暮らしを始めました。その姿をみて、スポーツには人を変える力があるんだと強く感じました。

また、これをきっかけとして建築学科から社会福祉学科へ転向しました。「誰もが使いやすい建物を建てたい」と思って建築学科に入りましたが、そもそも外に出なければ建物の使いにくさも経験できないんですよね。まずは外に出て、段差の不便さなどを感じてもらうことも大切だと思い、心理学を学びました。

世界の舞台へ


21歳のとき、アメリカのシカゴのチームに所属しプレーできることになりました。年に5、6回渡米し、試合や練習に参加。そこには世界一のプレーヤーがいて、その人に教わることで自分が成長している実感がありました。憧れの選手の中でプレーできることも、いろいろな人と知り合いになれることも最高でしたね。

自分自身のプレーに関わること以外でも、アメリカで衝撃を受けたことがありました。それは子どもたちが楽しそうにパラアイスホッケーをプレーする姿を見たことです。日本にはパラアイスホッケーのチームが5チームしかないのに比べ、アメリカは年代別に88チームもあるとのこと。もちろんジュニア同士の試合もあります。

子どもたちの試合や練習を見ると、子どもたち自身も楽しそうでしたが、親御さんの方がはしゃいでいました。それを見て、スポーツというのは家族の一体感をつくり、家族を繋げるツールにもなるんだと気がついたんです。子どもが楽しそうだし、親も嬉しそうだし、そういう場をつくるスタッフも笑顔でいる。「すごい幸せ空間だ」と思いました。こんな空間を、日本各地に作りたいと思ったんです。そこで、日本に帰ると子どもたちのパラアイスホッケー体験会を開催するようになりました。

大学を卒業すると、車椅子での仕事を認めてくれた、外資系のヘルスケアカンパニーに入社し、新卒採用担当になりました。働く一方練習を続け、2006年には初めてトリノパラリンピックの日本代表に選出されました。日本人最多ゴールを決めて、ようやく世界と対等に戦えるステージに立てた気がしましたね。

そして、さらに練習を積んで、4年後の2010年、バンクーバーパラリンピックの舞台にたちました。準決勝まで勝ち進み、カナダと対戦することになりました。

準決勝の日、会場に入るとあたりは一面真っ赤。開催国でアイスホッケー大国ということもあって、カナダを応援する人たちでいっぱいでした。でも、赤は自分の好きな色でもあったので「俺の応援団だ」と思いましたね。カナダに1点先取され、試合は0対1。1点をとった方が勝つだろうと言われていた試合だったのですごい緊張感が漂っていましたが、私はひたすら楽しかったです。ニヤニヤしながらやっていたので、真剣さが足りないように感じて監督は怒っていたかもしれませんね。楽しんでやった結果、チームで1点を返すことができ、試合は振り出しに戻りました。

残り1分20秒となったとき。パラアイスホッケーにおいて、サッカーのボールのような役割を果たすパックが目の前に。必死で相手のゴールに向かって走りました。前方には相手の選手がいて、1対1の状況。振り向いたら、一番信頼している選手の高橋がいたんです。「いける」と思いました。彼にパスを出したら、100%リターンが戻ってくると信じていました。スポーツの醍醐味である最高の信頼関係を感じる瞬間です。

彼へのパスが通った瞬間、勝利を確信しました。そこから先の記憶がありません。高橋は予想通り、しかも相手の選手をギリギリまで引きつけて的確なパスをくれて。気がつくと私はゴールを決めていました。実際の会場は番狂わせに静まり返っていたそうです。でも私には、大歓声が聞こえていました。

その後、全員が攻めに転じたカナダに隙が生まれ、駄目押しのもう1点を追加。日本は勝利を納めました。これまで4、50回試合しても勝つことができなかったカナダに、最高の舞台で初めて勝利した瞬間でした。日本のパラリンピックの団体競技における初の銀メダルを手にすることができました。

自分ではなく、子どもたちのために


バンクーバー後、一緒に戦ったメンバーの数人が引退していきました。このままでは4年後のソチは厳しいと感じ、スキルアップのため1年間アメリカへ行くことに。これまでシカゴのチームでプレーしていた時は、アメリカで生活しながらではなく、その都度渡米してプレーをしていたので、腰を落ち着けてアメリカでプレーしたいという思いがあったんです。

ホームステイしながらアメリカ生活を送りたいという夢があり、ひとまず渡米し、ホテルに暮らしながらホームステイ先を探しました。しかし、ようやく見つけたと思った家は、最寄りの駅に長い階段があるなど「バリアフリー」とは真逆の「バリアフル」。これは無理だと諦め、自分でアパートを借り一人暮らしを始めました。

いざ暮らし始めてみると、いろいろな友人を家に呼ぶことができ、人脈がどんどん広がっていきました。ホームステイできないというマイナスからのスタートでしたが、自分が行動したことでそれがホームステイする以上のプラスになっていったんです。自分で工夫さえすれば、マイナスもプラスに変えることができると実感しましたね。

一方、日本のチームからは、2014年のソチパラリンピック強化指定選手から除外されました。アメリカに来たことで、代表を続ける意思がないと判断されたみたいなんです。どうしてそんなことになったのかわかりませんでしたが、どうしようもないので世界一の国であるアメリカでのホッケーを全力で楽しもうという気持ちで生活を続けました。

1年後帰国すると、引退したことになっているので、ホッケーを続ける環境はありませんでした。そこで、以前から行なっていた、子どもたちがスポーツできる環境の整備に力を入れることに。講演活動などを行いながらいろいろな人と繋がり、NPO法人D-SHiPS32を立ち上げました。

NPOの活動では、「知らない」から生まれる世の中のズレや課題を解決しようと、スポーツや畑での作物づくりなど、障害者と健常者が一緒に時間を過ごし、お互いを知るさまざまな機会を作りました。これによって、「夢が、いちばんのエネルギー。」だと感じて生きてきた自分と同じように、夢に挑戦できる人を増やしたいと考えました。

キャンプや畑仕事など、車椅子だと難しいことも、役割分担すれば可能なんです。スポーツの中でフォワード、ディフェンス、ゴールキーパーと役割があるように、みんながそうやって自分にできることを見つけて、「できた」を積み重ねてほしいとさまざまなプロジェクトをつくりました。

NPO活動をしているうちに、自分が引退してから知り合った方が増えてきました。障害児や親御さんは口々に、「大ちゃんが氷の上に立っている姿を見たかったなぁ」と言うんです。2016年からNECの東京オリンピック・パラリンピック推進本部にお声掛けいただき、パラリンピックを推進する立場になっていたこともあり、それを聞いて「もう一度氷の上に立ったら、子どもたちももっとスポーツの楽しさをわかってくれるかな」という思いが芽生えました。これまでは、自分の首にメダルをかけるためにプレーしていました。でも今度は、子どもたちのためにプレーしたいと思ったんです。

ちょうど、協会から復帰の打診もありました。そこで、2018年の平昌パラリンピックを前に、復帰することにしました。

今度は、ディフェンダーとして相手の攻撃を阻止し、チームの攻撃の起点をつくる立場でした。平昌では結果勝つことができませんでしたが、2大会ぶりのパラリンピック出場を果たし、子どもたちにプレーしている姿を見せられたことはよかったと思っています。この大会を機に、選手を引退することにしました。

「できる」を積み重ね、挑戦するきっかけを


現在は、引き続きNPO法人D-SHiPS32の代表として、パラスポーツを日常化することを目指して活動しています。日本ではまだ限られた人しかしていないパラスポーツを、誰もが当たり前に楽しめるようにしたいと考えています。

そのためには、障害者がパラスポーツできる環境が必要です。障害のある人にスポーツする機会を提供するだけではなく、社会全体で障害のある人を受け入れる環境をつくることが必要だと考えています。

また、障害児をサポートする親のサポートも必要。おやぽーとという特設保育所のような場所を開設して、親が自分自身の時間を過ごせるように支援しています。

さらに、日本一バリアフリーな町を目指す石川県の中能登町と一緒に、一般社団法人障害攻略課を立ち上げ、「まち、こと、もの、ひとの障害を攻略する」ためにさまざまな取り組みをしています。

例えば「もの」だと、車椅子ユーザーだと着るのが難しい雨合羽をアパレルブランドと一緒に開発しました。一般の人も着られるスタイリッシュなデザインです。「こと」についてだと、「バリアフリー滝行」というのがあります。滝に行くまでの道を整備し、車椅子でも通れるようにしました。また、障害のある方の中には体温調整が難しい方もいるので、体が冷えないような白装束を着用しての滝行も可能です。

こんな風に、これまで障害がある人にとって障害だったものを攻略していこうとしています。「ふべん」を「ふつう」にすることはみんな普通にやっているんですよね。でも私たちは、ふべんを「ふふふ」にしようと活動しています。滝行みたいに、ちょっと笑っちゃうようなユーモアを持ってゲームのように障害を攻略したいです。また、親しみやすい活動にすることで、障害はとっつきにくいものというイメージを払拭し、どんな人にも自分に関係のあるものだと思ってほしいですね。このほか、医療機器の商社で、子どもや障害者向けに海外の商品をリサーチする仕事もしています。

障害者が日常的に困っている「障害者あるある」っていっぱいあるんですよ。東京でオリンピック・パラリンピックが開かれる2020年までに「あるある」を「NONO」にできればと考えています。

パラリンピックの舞台は、私にとって大きな経験で自信になったと同時に、周りの人のマインドを変えられたと感じる大きな機会でした。私の母は、言わないけれど「こんな体に産んでごめんね」と思っていたと思うんですよ。そういう障害を持つ子どもの親は多いと思います。でも、パラリンピックの舞台に立ったことで、「こんな体に産んでごめんね」から「誇れる我が子」に変わる瞬間があった。そんな風に、本人も家族も、みんなが「ごめんね」と思うんじゃなくて、堂々と生きればいいと思うんです。

障害があってできなかったことが「できる」経験を積むことで、少しずつ自分にとっての自信がついていく。そして周りの人のマインドも変わっていく。そんな舞台を多くの人に経験してもらうためにも、パラスポーツを日常化し、普及させていきたいですね。2020年はゴールではなく、スタートだと思っています。

2019.04.18

上原 大祐

うえはら だいすけ|パラアイスホッケーメダリスト
パラリンピック銀メダリストアスリート、NPO法人D-SHiPS32代表。障害攻略課、NEC東京オリンピック・パラリンピック推進本部東京2020推進室などのメンバーとしてさまざまな活動を行う。生まれながらに二分脊椎という障害を持ちながら、活発な少年時代を過ごす。19歳でパラアイスホッケーに出合い、2006年のトリノ、2010年のバンクーバー、2018年の平昌と、三度のパラリンピックで日本代表として選出される。

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