宿を入り口として地域を繁盛させる。
国際教育を志した僕が、島を選んだ理由。

島根県の隠岐諸島のひとつ、海士町にて、宿泊業を中心に持続的な島づくりに取り組む青山さん。国際教育に携わるための第一歩として、大学卒業と同時に人口2500人に満たない島に移住。なぜ島というフィールドを選んだのか。宿泊業に込めた思いとは。お話を伺いました。

青山 敦士

あおやま あつし|海士町の宿泊・観光事業の推進
マリンポートホテル海士と島ファクトリーの代表取締役を務め、海士町の宿業に携わる。

甲子園球児が経験した挫折


北海道札幌市で育ちました。3歳の頃に野球を始め、物心がつく頃には野球一色の生活でした。練習することに何の疑いもなく、将来は、プロ野球選手になると決めていました。夢というよりも、決めていたんです。そのためのステップとして、甲子園には必ず行かなければならないと考えていました。

中学ではシニアリーグのチームに所属し、平日は新聞配達アルバイトでお金を貯め、休日は朝から晩まで野球をしていました。練習は軍隊のように厳しくて、楽しいと感じる余裕はありませんでした。部活で楽しそうに野球をしている同級生を見て、うやらましいと思うこともありましたが、「自分は間違いなく甲子園に近づいている」という実感はありました。

中学3年生の時、進学先選びをかねて、北海道大会の決勝戦を見に行きました。私立の強豪校と、無名の公立高校の試合でした。公立高校の選手たちは、身体は細いし、ニコニコ笑いながら試合をしていたのに、すごくいい試合でした。ギリギリのところで負けてしまいましたが、「一体何なんだこのチームは」と思いましたね。練習を見学に行くと、練習中もみんな笑っていました。

でも、すごく合理的なんです。監督はデータを駆使する「ID野球」をモットーとしていて、効率重視。短い時間の中で、目的を達成するために工夫をこらしているんです。気合と根性で長時間練習する環境にいた僕には、信じられませんでした。

一方で、練習はぬるく感じる部分もあって、中学3年間で培った根性をミックスしてID野球を極めることができれば、もっと上にいける。そんな感覚があり、その公立高校に進学しました。

高校での野球はめちゃくちゃ楽しかったです。監督に指導されることはほとんどなく、教えてもらったのは、ものごとの考え方と問いの立て方だけ。あとは、自分たちなりに仮説を立て、練習メニューや食事を考え、検証して修正する。その繰り返しでした。

自分たちなりに仮説検証を繰り返した結果、高校2年生の夏、甲子園出場が決まりました。ずっと描いていた夢が実現できて、嬉しかったですね。

ところが、夢が叶い慢心してしまいました。メディアで散々取り上げられ、自分たちの野球はすごいと思い込んでしまったんです。初戦の相手は大阪の強豪校で、地区大会より何倍も厳しい戦いになるはずなのに、準備を怠った結果、ボロ負けでした。

自分の責任があまりにも大きくて、何も考えられません。頭の中は真っ白でした。何の感情も湧いてこないというか、罪悪感しかありませんでした。

それなのに、控えの先輩に「お前のおかげでここまでこれた。ありがとう」と言われました。本当に申し訳ないことですが、それまでの自分には「チームのために」という考えはありませんでした。自分のことだけひたすら考え、夢を叶えた途端に有頂天になって先輩やチームメイトに嫌な思いをさせた。それなのに、誰かに感謝されて。わけが分からず、感情の整理ができませんでした。

その時、自分のために生きることをやめると決めました。たとえ自分の夢が叶っても、その先にこんな思いをするなら、自分のために生きるのはやめた方がいい。誰かのために生きるべきだと感じたんです。

それから、初めてチームメイトに目が向くようになりました。それまでも気にはしていましたが、それは、勝つための戦略としてメンバーの状態を見ていただけ。手段としてではなく、彼ら自身と向き合うようになったんです。

自己嫌悪しか感じられない大学生活


甲子園で自分の実力を知り、プロ野球選手になることは諦めていましたが、なんとなく大学でも野球は続けようと思っていました。しかし、高校3年生のときに、著名な旅作家のトークライブに参加して、野球以外の世界に興味を持ちました。世界一周の話を聞いて、世界にはいろんなことがあると知ったんです。

また、その人の本に書かれていた「このままの人生でいいのかと思って、一歩踏み出した」みたいな言葉が、心に突き刺さりました。プロ野球選手を諦めているのに惰性で野球を続けようとしている自分に対して、「このままでいいのか」と思っていたんですよね。

それで、野球以外の世界に飛び出すと決めました。全く違う人生を楽しんでいる人がいるなら、そちらの世界を覗いてみようと。自分から野球を取ったら何が残るのか試したい気持ちもありました。

いろいろ考え、大学では国際教育を学ぶことにしました。自分ではなく他人のために生きるとしたとき、一番困ってる人は誰か考えていると、途上国で暮らす子どもが頭に浮かんだんです。彼らのためにできることは教育ではないか。そんな想いで、東京の大学に進学しました。

大学に入ってからは、東南アジアの国に足を運んだりしながら、友達と一緒にカフェバーを始めました。僕の人生を変えた旅作家も昔カフェバーをやっていたので、真似してみようと思ったんです。

しかし、経営はうまくいきませんでした。誰か力のある人を巻き込もうという話になり、面白い人を探していると、学校の敷地内でブルーシートを広げて、世界一周の話しながら本を売っている人に出会いました。岩本悠という人でした。彼を会社に巻き込もうと思って声をかけたら、逆に、「アフガニスタンに学校を作るから一緒にやらないか」と誘われました。それが面白そうで、彼の団体に関わることにしました。

彼のリーダーシップは強烈で、描いたことがどんどん実現されました。一方で、僕は全く役に立ちませんでした。むしろ足を引っ張っていました。頭でっかちになっていたんですよね。みんながアイディアを実行する中、「それって現地の人に対して本当に意味あるの?」とか、そもそも論をぶつけていたんです。しかも、他のことで忙しくて、口は出すくせに動かない。周りの優秀なメンバーがどんどん行動する中、強烈な挫折感を味わいました。

結果を出したくて、1年間アフガニスタンに常駐する人が必要だという話が出た時、迷わず手を挙げました。しかし、出発の2週間前、イラクで日本人が拉致される事件が起き、外務省から通達があってアフガニスタン行きはなくなりました。

終わったと思いました。現地に行けば何か役に立てると思っていましたが、行けないなら自分の役割はない。勝手に見捨てられたように感じて、団体の活動から距離を置くようになりました。大学に入って2年間、自己嫌悪感しかありませんでした。

「海士町に移住しないか」という誘い


休学中、何かで自信をつけたいと思い、社員3人のベンチャー企業で仕事に打ち込みました。携帯サイトを作る会社で、プログラミング、デザイン、営業と、何でもやりました。

朝から晩まで働き、徐々に小さな結果を出せるようになりました。それが積み重なり、次第に大きなプロジェクトを任されたり、自分のチームを持たせてもらえるようになり、昔の自信を取り戻しました。

その会社で、世界初の「クリック募金」の携帯サイトの立ち上げもやりました。3000万円ほど寄付が集まり、元々やりたかった国際協力の仕事ともつながって嬉しかったですね。復学後も仕事を続け、卒業後もそのまま就職しようと考えていました。

ところが、大学卒業まで半年と迫ったタイミングで、岩本から「面白い島があるから一緒に行ってみないか?」と誘われました。彼は大学を卒業して大手メーカーで働いていましたが、仕事をやめて、島で教育プロジェクトをやると言うんです。

なぜ島なのか聞いてみると、「島には課題が多くて、日本の離島と本土の関係は途上国と先進国の関係と構造が似ている。であれば、まずは日本語が通じる島で課題解決力をつけてから、海外の教育に取り組みたい」と言われました。

彼が面白いと言うなら間違いありません。それに、いずれ世界中に行くなら、チャレンジするのはどこだっていい。そんな気持ちで、僕も一緒に島で働くと決めました。課題が多い地域で何でもやりたいと思っていたので、場所はどこでもよかったんです。

大学5年生の9月、下見のために訪れたのが、島根県の隠岐諸島にある海士町でした。人口2500人にも満たない小さな島ですが、熱い人が想像以上に多くて驚きました。夜の飲み会では、島の人同士が涙を流しながら島の未来を語り、言い合っているシーンにも遭遇しました。

正直、それまで僕は過疎地を見下していたのかもしれません。高齢者しかいなくて、後継者もいなくて、問題だらけで、何のやる気もない田舎町だと思っていたんです。

しかし、そのイメージは完全に崩れました。熱い人、面白い人がたくさんいる。スローライフとは程遠い世界で、島で働くのがますます楽しみになりました。

岩本はその島での仕事が決まっていましたが、僕は仕事が決まっていなかったので、二泊三日の滞在中に仕事を探しました。旅が終わる最後の最後、フェリーに乗る直前に訪ねた観光協会で、働かせてもらえることが決まりました。

不安はありませんでした。少なくとも3年は島に住み、様々な問題がある「地域」とはどういうところなのか知りたい。がむしゃらに働きたい。そんな気持ちだけで飛び込みました。

民宿ではない「島宿」の魅力


最初の1年間は、観光案内所で宿の予約の手配などを担当しました。定時で仕事を終えた後は、島の人たちとまちづくりにについて語り合ってばかりで、仕事らしい仕事は何もしていませんでした。

スイッチが入ったのは2年目。課長から「お前の給料はどこから出ているんだ?」と言われてハッとしました。観光協会の財源は島の事業者からの会費が大半で、電気屋さんや建設会社から会費を頂いていました。彼らにとって何か価値を提供できているのか。そう考えた時、会費ではなく適切な価値の対価をもらう形で、観光協会の収入をつくることを意識し始めました。

僕たちが目を付けたのは、民宿でした。初年度、島中の民宿を泊まり歩いたことがあって、民宿には島の魅力が詰まっていると感じていたんです。宿としての改善点は山ほどありましたが、女将さんの雰囲気や宿のサービスなどに島らしさが宿っていて、なんとなく「これを売らなきゃダメだ」という感覚でした。

そこで、旅行会社に飛び込み営業をして、民宿の魅力を説いて回りました。しばらくは全く相手にされませんでしが、改善を重ねてひたすら営業した結果、大手旅行会社の方が泊まりに来てくれました。しかも、泊まった翌朝、70項目程あるダメ出しリストを残してくれたんです。

女将さんはショックを受けてましたが、僕には宝物に見えました。この点を改善すれば、旅行商品を作ってもらえるということですから。宿の人と協力して、リストに書かれたことを九割ほど改善し、モニターツアーをやることが決まりました。

その時に、民宿ではなく「島宿」という名前で打ち出すことにしました。一般的に、お客さんは「民宿」という業態に対して質が高いイメージを持っていないので、民宿でも、旅館でも、ホテルでもない、新しい宿としての魅力を伝えたかったんです。

それから、島宿を拡大していきましたが、新たな問題が発生しました。隣の島にあった洗濯屋が潰れてしまい、それまで委託していたシーツや枕カバーの洗濯を、それぞれの宿でやる必要が出てきたんです。しかし、従業員が少ない島宿では、宿泊業をやりながら洗濯までは手が回りません。

そこで、宿のシーツや枕カバーの補充を一括で担うリネンサプライ事業を作ることになりました。ただ、観光協会の中で事業化していく想像がわかず、誰がやるか決まりませんでした。観光協会の中ではなく、分社化する形で立ち上げればいい、という結論が出たことで僕がやることにしました。元々、旅行業をやるために法人を作りたいと話していたので、観光協会と協力しつつ、仕事を住み分けて会社の経営を始めることにしました。

島の玄関口であるホテルを改修する


島宿のサービス品質を高めるために、リネンサプライだけでなく、インターネット予約の管理や、お客様の送迎、月に1度の大掃除などもやるようになりました。また、経営的なサポートに入り、年度ごとの目標を立てたり、単価設定をアドバイスしたり、お客様からのアンケートの結果をお伝えしたりもしました。手伝うというよりも、やれるところは一緒にやるというスタンスです。

観光業は島の産業にとって重要な入り口。観光地に対して強い再訪動機を作るのは、人のおもてなしやサービスで、圧倒的に強いのは宿泊なんですよね。絶景地などは感動体験は得られても、再訪する動機にはなりづらくて。一泊二食という長い時間お客様と一緒にいられるって、すごく重要なことなんです。10年間、とにかく島宿のサービス品質向上に集中しました。

そんな中で、島の唯一のホテルを大規模に改修する計画がでてきました。島の玄関口となるホテルの役割はとても重要です。改修後にどのようなホテルにしていくのか、検討するための事務局が立ち上がることになりました。

ホテルは創業26年になりますが、最初の10年で結構な赤字が出ていたので、ここ15年は経営基盤を安定させるため、コストを削った効率的な経営に集中していました。その累積赤字が解消され、次のフェーズに進むタイミングでの改修。これからは、島の代表として、島の魅力がもっと感じられるようなホテルにしたいと検討が続きました。以前はホテルの中で地域の人と交わる機会が少なかったのですが、地域とホテルが一体化し、島の魅力を凝縮するホテルを創ろうという方向性での議論を重ねました。

その過程において、新しい経営者としての重責を担わせて頂くことになりました。

改修自体は2018年後半から始まり、2020年4月にリニューアルオープンの予定で進めていますが、それまでにできることはすぐに始めました。ただ、利益を生むために最適化してきたオペレーションを変えることは、そんなに簡単ではありません。新たに求めることは、手間がかかったり面倒なことで、短期的な利益にはなかなかつながらないものですから。

それでも、一つずつ実践していくことで、ホテルと地域の距離は近づいていきました。大きな出来事としては、飛行機のファーストクラスの機内食をホテルが監修したことです。1ヶ月限定でしたが、海士町の食材を使った機内食を提供することになり、最低9000食は準備する必要がありました。ホテルの年間利用者数が1万人程度なので、それとほぼ同じ量です。食材が豊富でない3月だったこともあり、「無理だよ」と言われることもありました。それでも、ゼロの状態から生産者の方々をまわり、様々な方に協力してもらい成功させることができました。

ホテルが島全体を背負った成功体験。世界一地域を愛し、地域から愛されるホテルになるために一歩進んだ瞬間でした。

島が繁盛するために重要な観光・宿泊業


現在は、マリンポートホテル海士と、島宿事業を行う島ファクトリーの二社を経営しています。島に初めて来る人にとって、ホテルは他の宿と比べて宿泊のハードルが低いはずです。なので、ホテルは島を好きになってもらう入り口として、島宿はさらにディープな島を味わいたい方向けの場として、しっかりと棲み分けできればと考えています。

僕たちは宿業、観光業に携わっていますが、それはあくまで手段。僕たちの共通のゴールは「島を繁盛させる」ことです。文字通り外貨を稼ぐこともそうですし、雇用を生み出すことも含まれます。

そのために、観光産業は重要な入り口を担います。例えば、宿で付加価値を付けられたら、食事に出すサザエ1個にしたって、漁師から買う価格を引き上げることができます。普通に市場に出す値段ではない価格で買い支えることができるのは、観光の一番の強みです。

観光から、一次産業、二次産業への波及効果を生むことが、島全体を繁盛させることに繋がる。それで初めて、島の景観や文化を守ることに繋がると思うんです。

海士町に来て、宿業に携わって10年以上。当初の3年は大幅に過ぎましたが、まだまだやりきれたという実感はありません。いろんな方に応援していただき、責任を預けていただいているわけですし、自分たちで会社をやっている以上、逃げるわけにはいきません。この島に死ぬまでいるかは分かりませんが、数年で出る可能性があるかと言われれば、そんな責任のないことは絶対できません。

それに、長年島を支えてきた町長が変わり、海士町も新たなフェーズに進む段階です。これまで、行政主導でいろいろ引っ張ってもらっていましたが、これからは民間の出番だと思います。官民問わず、海士の方言で「引っ張って」を意味する「しゃばって」いけたらと思います。

2018.09.13

青山 敦士

あおやま あつし|海士町の宿泊・観光事業の推進
マリンポートホテル海士と島ファクトリーの代表取締役を務め、海士町の宿業に携わる。

記事一覧を見る