自分の心の動いた方へ、直感に従い進む。
帰国して気づいた、日本の伝統文化の魅力。

学生時代にいじめられ現実逃避していた自分を変えるべく、一念発起してニューヨークへ渡った後藤さん。偶然入った日本酒バーで、日本酒のおいしさに気づきます。お酒を通じて様々な人と出会いながら見つけた、自分の居場所、やりたいこととは。お話を伺いました。

後藤 崇

ごとう たかし|国際利き酒師
ニューヨークで日本酒バーを立ち上げた経験を活かし、ゴールデン街の飲食店で働きながら「国際利き酒師」として日本酒のおいしさを国内外に発信している。

止まっていた思考が動き出した


山形県の田舎で生まれました。集団の中でも特に目立たない、おとなしい性格でした。幼い頃は皆の輪の中で遊んでいましたが、小5くらいからクラスの中でいじめられるようになりました。学校に行くのがものすごくしんどかったです。

中学校に入ってもそれが続き、登校はするものの、自分の置かれている状況や授業の内容について何も考えず、毎日をやり過ごすようになりました。ひたすらゲームやマンガに没頭して、現実の世界から逃げる日々。なんとか工業高校へ進学しましたが、自分を変える気力もなく、同じような日常が続きましたね。

そんなある日、地元にこれまでなかったコンビニができて、初めて男性のファッション誌を読みました。そこに載っているモードファッションを見て、「これは素晴らしい!」と衝撃を受けました。近くに洋服屋がなかったので、そんなおしゃれなファッションを見たことがなかったんです。いつか自分もこのタイトなジーンズを履いてみたいと思い、ひたすらダイエットに励みました。

ただ、だからといってすぐにジーンズが手に入るわけもなく、漠然とした憧れを抱いているだけでしたね。実際の生活は変わらないままでした。

進路を決める時期に差し掛かると、進学する気もなかったのでなんとなく求人票をチェックしていました。ふと地元の工場の求人票に目をとめた時、初任給9万円と書かれているのを見つけたんです。あまりの金額の低さに驚愕しました。「なんだこれは、やばいな」と。このままだと毎月9万円しか稼げないかもしれない。現実を目の当たりにしたことで、これまで止まっていた思考が動き出しました。このままではいけない、なんとか自分を変えなければという思いが芽生えました。

直感に従い、ニューヨークへ


自分を変えるため、今いる場所と対極のところに行きたい。そう考えた時、直感的でニューヨークだと思いました。単純にほかのどの場所よりも大都会のイメージがあったんです。親に話すと、初めは「突然何を言ってるんだ」という反応でしたが、私がこれまで何もしないで生活してきたのを知っているので、最終的には「やりたいことができたならよかったんじゃない」という感じで送り出してくれました。そこで、東京の英語の専門学校へ進学し、ニューヨークの提携校へ留学しました。

しかし、ニューヨークといえど田舎にある学校だったので、思い描いていた環境とは違いました。しかも手違いで入学手続きができておらず、日本に戻らなければならなくなってしまったんです。帰国前にどうしても都会を見ておきたくて、マンハッタンを旅行することにしました。

マンハッタンを歩いていると、また直感的に「ここなら住めるんじゃないか」と思いました。これまで、学校で悪口を言われるのが当たり前だったので、何か言われているんじゃないかと人が怖かったんです。しかしマンハッタンは、こんなにさまざまな人がいるのに何を言っているのかまったくわからない。この中でなら暮らせるんじゃないかと思いました。

必ずここに戻ってくると決めて帰国し、留学資金を貯めるため、お金が稼げるイメージがあったホストになりました。アメリカ帰りで気持ちが大きくなっており、なんでもできる気がしたんです。そもそも人が苦手だったのでかなり苦労しましたが、なんとかお金を貯めて再びニューヨークへ向かいました。

今度は、どうせ行くなら高校の時から興味のあったファッションについて学ぼうと、ファッションの専門学校に進学しました。よく考えずにデザインを専攻。しかし授業は毎日デッサンばかりで、面白さを感じられなかったです。

大都会では悪口に怯える必要がなくなったので、自分のしたいようにピアスをし、奇抜な髪形に変えました。人に注目されるようになったことで、人の視線に段々と慣れていきました。お酒も覚え、毎日のように飲み歩いていましたね。

そんな中、知り合ったスタイリストに「アシスタントやらない?」と声を掛けられました。授業に疑問を感じていたので、そっちの方が面白そうだと学校を辞め、その人の元でアシスタントとして働くことにしました。

それからは、英語学校に通い、終わったら仕事に行く毎日でしたね。大きなファッションショーにも関わることができ、さまざまな面白い経験ができました。しかし働くうちに、自分自身の服には興味があっても、他人の服に対しては強いこだわりがないことに気づきました。みんな自分の好きな服を着ればいいと思ったんです。4年ほど働きましたが、結局辞めることにしました。

青春時代を取り戻す


仕事がなくなり、日本に帰ろうか悩みながらしばらく飲み歩いていました。ある日偶然日本酒バーに入り、久しぶりに日本酒を飲みました。すると、すごくおいしく感じたんです。

それまで、ハードな酒をべろべろになるまで飲んでいたので、酔って酒の味なんてわからなかったんです。でもその時は純粋に「おいしい」と思いました。それが自分でも衝撃で、勢いでその店に頼み込んで働くことにしました。

地下にあって真っ暗で、ろうそくで室内を照らしてるような店でしたね。酒好きな客しか来ないし、店員もみんな飲みながら働いていました。変な店員が多く、中には映画監督や有名なモデルもいました。その人達に感化されて、毎日が楽しくなりました。

私は今まで部活もやってこなかったし、人と長く一緒にいた経験がなかったんです。しかし店で働くようになって、初めて1日何時間も人と一緒にいることになりました。そうすると、たまには喧嘩やもめごとが起きる。それらすべてが新鮮で面白かったです。おそらく学校時代にみんなが体験した青春みたいなものを、10年くらい遅れて体験しているような感覚でした。

そんな風に働くうち、日本酒に詳しくなり、系列店の立ち上げを任せられました。日本酒バーを経営し、さまざまな人に自分が感じた日本酒のおいしさを伝えていきました。

そういう働き方をしている日本人は珍しく、まあモテましたね。いろいろな女の子と遊んで、そのうちの一人で付き合うことになりました。しかしその子が、徐々に私の物を壊し、殴る・蹴るを繰り返すようになったんです。

彼女の行動はエスカレートしていき、身の危険を感じるようになりました。しかし、自分が悪いからこんなことをされているとも感じていて、逃げることができませんでした。ある日、酔った勢いで友達に彼女とのことを話したところ、説教されたんです。「二人ともお互いを好きだと思うけど、一緒にいるのはよくない」と。それでようやく目が覚めました。彼女から逃げるために、とにかく一度日本に帰ることにしました。28歳のことでした。

ゴールデン街で見つけた居場所


ほとんどすべてをニューヨークに置いたまま、能面みたいに表情をなくした状態で日本に戻りました。離れてもしばらくはSNSなどで彼女からの連絡があり、逃げ道がどこにもないように感じられ、まったく笑えませんでしたね。しばらく都内のマンガ喫茶やホテルを転々とし、飲み潰れる日々。やがてそんな生活に疲れて、実家の山形へ帰りました。

しかし、実家に帰ってもやることは同じでした。奇抜な見た目で仕事もせず、毎日飲み歩くだけ。そんな自分では受け入れてもらえるはずもなく、居心地の悪さを感じていました。

ある雪の日、雪見酒をしようと思い立ち、酒をもって山へ出掛けました。すると、知らないおじいちゃんが下から追いかけてきたんです。「お前死ぬのか」と。自殺しに行くみたいに見えたんでしょうね。「いえ、違います、日本酒を」と言ったら、じゃあうちに来て飲もうと誘われ、なぜかそのおじいちゃんの所有する山小屋で一緒に飲むことになりました。

そのおじいちゃんはサクランボ農家。1週間くらい山小屋にこもって、サクランボの枝の選定を手伝いながら飲み明かしていました。それがなんか、ちょっと楽しかったんですよね。少し元気になったので、再び上京することにしました。

東京に戻ると、まず偶然入った歌謡バーでバイトを始めました。ちょうど夏祭りのイベントがあって、浴衣を着てみたらすごく気に入りました。持っていた洋服はほとんどニューヨークに置いてきてしまったので、それをきっかけに日常的に和服を着るようになりました。

髪形やピアスも含め個性的な格好していると、話しかけてくる人が限られます。奇抜な第一印象を超えて話しかけてくれるので、仲良くなりやすいんですよね。

ある日ゴールデン街で飲んでいて、一件の飲み屋に入ったところ、いきなりその店のママに「なんだてめえ」と喧嘩を吹っ掛けられました。私も酔っていたため口論になり、なぜか一気飲み対決をすることに。気が付くと私は酒を飲み終わったグラスを洗っていて、その店で働くことになっていました。

なりゆきでしたが、店の雰囲気が良さそうだったので働いてみることに。一緒に働くと、人情に厚いすごくいい人たちでした。知人が亡くなり、私が落ち込んでいた時は、何も言っていないのにママと店の常連さんが飲みに連れて行ってくれました。寂しさや悲しさを感じる暇もなく、ずっと飲ませてくれて。気が付くと、ニューヨークでなくしてしまった笑顔を取り戻していました。

日本の魅力を世界へ


現在は、ゴールデン街のママの店で働きながら、日本酒を広める活動をしています。

数年前からママの店の土日の営業を任せてもらえるようになったので、主に外国人に日本酒を勧めていました。せっかく日本に来ているのにジントニックを飲んでいてもつまらないだろうと思ったんです。すると、お客さんなどから海外×日本酒のいろいろな仕事の話をいただけるようになりました。

たとえば、外国人に向けた日本酒のレクチャーや、日本酒の本の監修、日本酒の輸出などに関わる仕事です。ニューヨークでの経験を活かして、美味しいと感じた日本酒の魅力を伝えています。

また、地元の山形県を中心に、全国の酒蔵から日本酒のイベントに呼ばれることも増えました。過去の嫌な思い出があるので地元は好きではありませんでしたが、美味しい日本酒を作っていることを知って印象が変わったんです。

地元のこともそうですし、ニューヨークから帰ってきてから日本の良さを感じることが増えました。そこで今後は、2つのことを実現したいと考えています。

1つは、都道府県ごとに好きな日本酒を選び、それを飲むための酒器をその土地の伝統工芸で作ること。まずは新潟からこのプロジェクトをスタートさせました。新潟では、燕三条の工場の協力で、錫の一枚板を加工して酒器を作ってもらいました。溶接を一切せず、ハンマーで叩いて作り上げた酒器です。ほかの都道府県でも制作を進めるとともに、クラウドファンディングなどで資金を集め、販売したいと思っています。

もう一つは、着物工場とギャラリーを作ることです。私はずっと和服を着ているため着物をいただくことが多いのですが、着物って着られることなく家の中で眠っていることが多いんですよね。一方で、着物が欲しいという外国人の方も多いんです。

今使われていない着物が、着物が欲しい人にうまく回る仕組みが作れないかと思っています。それから、せっかく着物が手に入っても、着方が分からず飾って終わりという人も多いので、ちゃんと着てもらえるようにしたいです。今は、デザイナーと一緒にどんな形の工場、ギャラリーにするか計画中。2018年中にオープンできればと思っています。

私はこれまで、特に将来の展望を持つことなく、直感に従って生きてきました。たぶん学生時代に留まっているものがあって、まだ自我を探している途中なのかもしれません。自分がやりたいことや目指すものは、これから出てくるかもしれないし、この先も出ないかもしれない。わからないけれど、思いつくことをしていきたいです。ありがたいことに今後につながるお仕事の話もいただけているので、周りの人に感謝しながら取り組んでいきたいです。

2018.08.06

後藤 崇

ごとう たかし|国際利き酒師
ニューヨークで日本酒バーを立ち上げた経験を活かし、ゴールデン街の飲食店で働きながら「国際利き酒師」として日本酒のおいしさを国内外に発信している。

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