25歳で出産し、子育てのため2年ほど仕事から離れました。初めて仕事から離れて、時間を持て余していました。

仕事とはかけ離れた生活をしていると、母に「そろそろ社会復帰しないの?」と言われました。子どもが小さいのに何を言っているのかと反発しましたが、正直、痛いところを突かれたな、という感じでした。働かずに楽をしている後ろめたさもあって、早く社会復帰しなければと思っていたんです。母に指摘された日は、もやもやして夜も眠れませんでした。

幼稚園が事情を理解して、時間外も子どもを預かってくれることになり、美容室のパートを再開しました。さらに、28歳の時、母の退職を機に、独立して名古屋に美容室を開きました。母が家にいるので、子育てを任せられるようになったんです。仕事に集中できる環境が整い、独立を決めました。他の美容室とはカットに対する考え方が合わず、理想のカットを追求し続けるためには、自分でやるしかなかったんです。

ただ、いくら技術を学んでも、思うようにはいきませんでした。カットの技術を教えてくれるところばかりで、「似合わせ方の技術」を教えてくれるところはありませんでした。サスーンの学校で切っていると綺麗に切れるのに、日本ではうまくいかない。外国人と日本人では頭の形が違うからです。頭の形が違えば、同じ様にカットしても出来上がりは違います。

私の顔にショートヘアーが似合わなかったのと同じ様に、同じ髪型でも、似合う人と似合わない人がいる。日本人には、日本人の骨格にあった切り方がある。どうすれば一人ひとりのお客様に合ったヘアスタイルを提供できるか、日々のサロンワークの中で日本人の骨格にあった切り方を模索するために、自分のお店で研究していきました。

美容室を開いた後もずっと、技術と理論の勉強は続けました。美容室の経営と育児と並行しながら、最新のヘアデザインを学ぶためにロンドンにヘアショーを見に行ったり、有名な美容師の方に師事したり。そこまでして理想のカットを追求したのは、自分が幼い頃に髪型で味わった嫌な思いを他の人には味わってほしくない、似合うヘアスタイルを手に入れて欲しい、という気持ちからでした。

当初は手探りからのスタートでしたが、次第に、頭の形が良くない人でも、丸みのあるフォルムで頭の形をよく見せる「頭蓋骨修正カット」や、頭を前後左右の4面で考えるのではなく、斜めからのフォルムも含めた8面で考えてカットする手法など、独自のスタイルが確立されていきました。

開業して7年経つ頃、東京の表参道に2店舗目を出店。ロンドンのヘアーデザイナーが審査員をする日本最大級のカットデザインコンテストで準優勝し、テレビ番組のコンテストで優勝してからはテレビに出演するようにもなり、周りから見れば順調に見えたかもしれません。

しかし、心の中で、私には技術がまだまだ足りないと感じ、自信がありませんでした。テレビに出たとしても、カットが評価されたからではなく、「他のテレビに出ていた」という理由。テレビに映っている私は、他の美容師にしてみれば、「あの人誰?」という感じです。カットの技術で同業に知られているわけではない。必要な技術を身につけられていない自分は、中身がなくて空っぽ。自分の中が空洞のように感じました。少しでも中身のある人間になりたいと、カット技術を磨きました。

また、美容業界の雑誌に、自分がカットしたヘアデザインの写真を持ち込むようになりました。元々、自分のカット技術を磨いてお客様に喜んでもらうことと、私が有名になることはリンクしないと思っていたのですが、働くスタッフから、「美容業界で認められるような美容院にしたい」と声が上がったんです。美容業界誌で連載を持たせてもらえるようになり、巻頭ページに作品写真が載るようになり、表紙を飾るようにもなりました。

42歳の時には、講師として、他の美容師に技術を教えないかとお声がけいただきました。自分の技術はまだまだだと思っていましたし、周りのことを一切気にせず自分のスタイルを貫いてきたので、人に教えるイメージなんて持てませんでした。それでも、美容業界の方々から「これまで周りの人に生かされてきたんだから、世のために尽くさなきゃ」と言われたことで、こんな私でも何かお役に立てることがあればと思うようになり、それまで身につけた技術や理論を、他の美容師の方に教え始めました。

講師を始めてみて、自分のカットは、人の役に立てると実感しました。生徒さんの中から、私と同じ様にパートから始めて美容室の幹部になる人も出てきました。嬉しかったですし、バツイチ子持ちの私の人生でも、少しは人の役に立てたかなと思えました。

さらに、人に教えることがきっかけとなって、50歳を過ぎる頃に、私のカットを解説した『綺麗をかなえる法則』という本を、美容業界の大手出版社から出してもらうことができました。

私は、目の前のお客様を綺麗にするため、地道に努力してきただけです。その努力が、講師として人に教えることや、本として技術を広めることとして、誰かの喜びになっていることが、本当に嬉しいことでした。