複雑な家庭、自殺未遂、二度の離婚。どん底の僕に希望をくれたサービスマンの道。

9年間続けた飲食店経営のノウハウを活かし、接客アドバイザーとして飲食店の支援を行う阿部さん。複雑な家庭環境で育ち、人生に全く希望を持てなかったところ、サービスの世界に魅せられたきっかけとは?飲食業界で独立以外の新しい働き方を提案する背景についてお話を伺いました。

阿部 大

あべ だい|接客アドバイザー兼飲食店組み立て屋
接客アドバイザー兼飲食店組み立て屋として、宮城県を中心に活動する。

人生に一寸の希望も見いだせない子供時代


私は宮城県で生まれました。両親は私が小学1年生の時に離婚して、私は父に引き取られました。しかし、毎日違った彼女が家に来て私の面倒を見るような環境で、見かねた母にすぐに引き取られました。

その後も、一時期祖父母宅に預けられたりと、複雑な家庭環境でした。また、勉強も運動もできなかったので、たまに学校に行けばいじめられる生活。とにかく周りの人が何を考えているのか怖くて、いつも人目を気にしていました。

そんな生活だったので、自分の人生に対しては全く期待感を持っていませんでした。そして、深く考えてもどうすることもできないのが分かっていたので、何でも素直に受け止めるようになりました。ただただ寂しく、母にかまって欲しくて家中の薬を飲んで自殺未遂をしたこともありました。

そんな生活が続き、中学卒業後は働こうと思っていました。ただ、母に高校を出たほうが選択肢が増えると言ってもらえたので、進学することにしました。それまでは学校にあまり行かずに母に心配をかけたので、高校では「学校を休まないこと」に決めました。

また、友達に誘われるまま、少林寺拳法部に入ることになりました。最初は人と触れ合うことに恐怖心はありましたが、どうせなら人に好かれたいと考えるようになり、元気に返事と挨拶をすることを心がけました。すると、次第に人付き合いにも慣れてきて、部活で後輩を指導する楽しさを感じるようになりました。

そこで、将来は先生になりたいと思うようになり、大学を受験したんです。ところが、結果は不合格。人生はそんなにうまくいかないものだと再認識しましたが、自分の人生でまさか夢を見られるなんて思ってもいなかったので、それだけで満足でしたね。

そして、母から「2年間位遊んだら」と専門学校を進められたので、名前がカッコよかった「仙台YMCA」という専門学校に行くことに決めました。

人と人が尊重しあう、サービスの仕事


そこはホテルの専門学校でした。正直、入るまで何を勉強するかも知らず、ホテルマンになりたいとは微塵も思っていませんでした。そのため、学校には行かずにパチンコばかりする生活でしたね。就職も、ホテルではなく給料の良いパチンコ屋か警備会社を考えていました。

ところが、就職活動を通じて、何となく応募したホテルで採用されたんです。代わりに、同じホテルを受けた友達は不採用になり、泣いている姿を見てしまい、今さら引き下がることもできず、ホテルで頑張ろうと気持ちを決めました。

そして、入社後はレストランに配属されたのですが、正直仕事は楽しくありませんでした。ひたすらお客様に対応しているだけ。仲間がいたのでなんとか辞めずに頑張れるという状況でした。

そんなある時、常連のOLさんのひとりが、来週誕生日を迎えると話すのが耳に入ってきました。そこで、誕生日当日にシェフに頼んで、アイスを出してもらうことにしたんです。喜ばせたいなんて思っていたわけでもなく、ただの気まぐれでした。

しかし、実際にその演出をしてみると、想像以上に喜んでくれたんですよね。名札を見て「阿部さん、ありがとう」とまで言ってくれて。

この瞬間、初めてひとりの人間として尊重されたような気がしました。それまでは、仕事をしていても、「お客様」「ホテルマン」と、単純に記号で表される関係でしかないと思っていて、お客様をロボットのように感じていました。しかし、ひとりの人間に対して仕事をしていると気づけたんです。そして、気づいたらそのお客様の名前を伺っている自分がいました

それからは、仕事への考え方が大きく変わりましたね。いかに自分を魅せるか、お店を好きになってもらえるか意識して働くようになったんです。すると、仕事も楽しいと思えるようになっていきました。

美しいもの、綺麗なものに気づけるかは自分次第


その後、サービスマンとしてキャリアを積んでいき、企業の福利厚生施設で働き始めました。そこは、大企業の施設なので設備は整っていましたが、頑張らなくてもお客様が来るため、サービスの質はあまり高くありませんでした。

そこで、私は「サービスを変えてやる!」と息巻くようになりました。ただ、23歳そこらの若者だったので、上司とは衝突したし、できないことも多くて歯がゆい経験もしました。それでも、社内の人と結婚したこともあり、5年ほど頑張って働き続けていました。

ただ、結婚しているものの、どうしても昔付き合っていた彼女を忘れられず、思いを断ち切るため、地域の情報誌に「尋ね人広告」を出すことにしました。すると、驚いたことに、その彼女から連絡が来たんです。

しかも、タイミング的にも、色々あって会社を辞めることが決まっていた時でした。そこで、これはきっと運命だと思い、私は奥さんを家に残して、その彼女の元に行きました。しかし、その彼女には婚約者がいたんです。そのため、私と結ばれるわけもなく、それ以来私は車中生活を送るようになりました。野球場の側に車を置き、朝からカップ酒を飲み、草野球を見るんです。

その一連の出来事を通じて、人生に絶望していました。頑張って仕事をしていても、結局こんなものかと。だた、小さい頃からの生活を考えると、むしろここまでこれて良かったと思っていましたね。

そんな生活を2ヶ月ほど送っていたのですが、ある日、足元に「たんぽぽの花」が咲いているのを見つけました。その瞬間、涙が止まらなくなってしまったんです。

たんぽぽは、いきなり現れたわけじゃなく、昨日も同じ場所に咲いていたはず。でも、気づけたのは今日の自分だけ。そう考えた時、世の中には綺麗なものや素晴らしいものがたくさんあるけど気づかないだけで、むしろ、自分が見ないようにしているだけだと分かったんです。

「人は変われるから、もう一度人生やり直そう」

そう考え、妻の住む町に帰ることにしました。

しかし、地元に戻っても、今さら妻の元に戻ることはできないし、妻の一件で友達にも絶縁されていました。さらに、仕事もありませんでした。現実はそんなに甘くなかったんですよね。

そして、最後にたんぽぽの美しさを知れて良かったと思いながら、私は山で首をくくりました。

9年間続けた飲食店の経営


目が覚めると、目の前には母と妻がいました。たまたま通りかかった人に助けられ、私は病院に運ばれていたんです。二人の顔を見た瞬間、涙が止まりませんでしたね。もう会えるはずがないと思っていた顔を見ることができ、急にホッとしたんです。

そして、退院して実家に戻り車を降りた瞬間、ホテル時代の先輩から連絡が来ました。飲食店で一緒に働かないかと誘っていただいたんです。その時、これは運命なんだと思い、今度こそ頑張ると決めました。

それからは一心不乱に仕事に打ち込んでいきました。働いていたお店は大繁盛店で、様々なことを学ばせてもらい、将来は独立することに決めました。ただ、妻との時間を取れなくなってしまい、ある日、妻は家を出て行きました。一度は許してもらった身なので、これ以上引き止めることはできませんでしたね。

そんなことがありつつも、28歳で独立して居酒屋を開きました。経営状態は良好で、2店舗目を出したり、誘いを受けて他の業態のお店を持ったりと、次々に事業を拡大していきました。別に大きくしたいと思っていたわけではないのですが、人から頼まれるのが嬉しかったんです。自分なんかに声をかけてくれるのは、ありがたいなって。

ただ、経営の筋は悪く、数字は後からついてくると気にせず、どんぶり勘定で進めていました。また、自分ができることは他の人もできると思い込んでしまい、スタッフに対しても適切にコミュニケーションできませんでした。そのため、次第にほころびが出てきました。

その後、再婚して子どもが生まれたので主夫をしたり、声がけをもらった派遣型風俗店を開業したり、町会議員をしたりする時期がありながらも、居酒屋を続けていたのですが、トラブルは続き、次第にスタッフは辞めてひとり経営状態になってしまいました。

そして、最初に作ったお店も手放し、10人位の規模の小さな店舗でやり直すことにしました。すると、そこでは理想としていた、接客に特化した空間を実現することができたんです。前も後も全てお客様から見られ、逆に全てのお客様が見えるような場所でした。

しかし、見てみぬふりをしていた支払いが滞りがちになり、督促がくる日々に耐えかねた妻に「お店をたたむか、別れるかどちらかにして」と言われてしまったんです。もちろん飲食店を続けたい気持ちもありました。でも、やっぱり家族を一番大切にしたいと思い、9年続けた飲食店経営の道から幕を引くことにました。

それでも、より好条件を求め、何社かの内定を断ったことで妻からは愛想を尽かされてしまい、二度目の離婚を経験し、とあるフルコミッションの会社に就職しましたした。

サービスに携わる人にも、色々な選択肢を


その後、お店を辞めたことを聞きつけた友人から連絡をもらうようになり、現在は、これまでのサービス業経験を活かし、接客アドバイザー兼飲食店組み立て屋として仕事をするようになりました。

サービスの力で飲食店の売上を上げることを目的として、現場のスタッフが仕事を楽しめる環境づくりから始めます。多くのスタッフは、サーブの楽しみ方が分からず、料理をサーブしたらお客様の顔を見ること無く逃げるように戻ってしまうんですよね。まずはそこを変えていきます。

私自身現場で手本となって「ここまでお客様と関わっていいんだ」という姿を見せるんです。お客様とコミュニケーションを取れるようになると、追加注文をしてもらえるし、仕事が楽しくなる。すると、「単なるアルバイト先」ではなく「自分の店」に感じられるようになり、お店が活力でみなぎるんです。

また、飲食店にかかわらず、サービスに携わる人の交流会も開いています。他の業種や業態では求められるマナーも違うし、それがヒントなることもあるので、横の繋がりを作りたいと思ったんです。サービスの質によっては、嫌な気持ちを生んでしまうこともありますが、逆に気持ちのよい循環を生み出すことで、社会全体を明るくできるんじゃないかと考えています。

そして、サービスに関わる人に、様々な選択肢を見せていきたいですね。私は以前、接客の腕を競い合う「サーバーグランプリ」に出場し、東北で優勝して全国でも5位に選ばれたことがあります。人口3万人ほどの町に住む私が評価してもらえたように、田舎でも頑張れば全国レベルの接客の力を身につけることができると、多くの人に伝えていきたいですね。何も、飲食で働く道は、独立して経営者になるだけじゃないんです。

私は誰よりも失敗してきたので、お客様にも「人生や事業でたくさんの失敗を経験しています」と宣言しています。ただ、おかげで失敗に繋がる要因を素早く見抜く力が養われ、「失敗しない経営」のサポートが可能となり、たくさんの実績を生むことができています。失敗したとしても、結局命まではとられないんです。そんな私の姿を見て、「自分でもできるかも」と思ってもらえると嬉しいですね。

昔は「自分の人生なんて」と思っていた私ですが、子どもが生まれてからは明確に「誰かのために」と、社会に目が向くようになりました。これからも、子どもたちがこれから暮らしていく社会を良くするために生きていけたらと思います。

2015.06.25

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