20年続けた教師の次に始めた宝石販売業。
人が内面から変わり可能性を引き出す事業。
40年以上宝石の販売を行い、今でも現役で活動されている永田さん。太平洋戦争の渦中で青春時代を過ごし、「女性でも自立して生きたい」と強い思いを抱くように。結婚・出産を経ても教師として20年働き続けた後、宝石の販売の仕事へ転向するにはどんなきっかけがあったのか。永田さんにお話を伺いました。
永田 恭子
ながた きょうこ|宝石の販売
宝石の販売を、デザインや石の選定などから包括的に行う。
戦争の渦中に青春時代を過ごす
私は京都で生まれました。幼少期から日本が帝国主義を掲げ、戦争に向かって行く時代を過ごしていました。父は役人だったので転勤が多く、小学生の頃には東京に引っ越してきました。
15歳位の頃には、自分自身の将来に迷うこともありました。しかし、社会には「お国ために働く」ことが使命である風潮があり、私もそれが正しいと思っていました。そのため、鉄不足が深刻だった日本のために、釘を拾って献納するような小学生でした。
私は自立したいという気持ちがあったのですが、女性は「嫁しては夫に従い、老いては子に従え」と父には言われ、大学に進むのは反対されました。ただ、戦時中だったので、学校に行かないのであれば働きにでなければならなかったので、渋々進学を許可してもらえました。ただ、学校では授業がほとんどできず、近くにあった中島飛行機製作所のエンジンの整備の計器(ブーストコントロール)の手伝いをしていました。
戦争末期になると食べ物も不足しいていき、食料は全て配給、しかし配給されるものは米ではなく、高粱(コウリャン)。それも油をとった絞りかすで、ぱさぱさで胃に突き刺さるような、牛馬でも食べないひどいもの。うちの畑で作ったさつまいもは根っこのひげまで食べても、三度の食事には足りませんでした。
栄養失調で水膨れ、歩く力も出ません。また、毎日空襲があるので夜でも電気はつけられず本も読めません、空襲警報が出たら防空頭巾をかぶって防空壕に入り、敵機が去るまでじっと隠れていなければならず暗い毎日でした。
この頃になると、私はこんなバカな戦争を続ける自分の国が情けなくなっていました。もちろん、そんなことは周りには言えませんが、竹槍訓練やバケツリレーなんか大真面目にやっている町内会の人たちを呆れてみていました。大本営発表にも懐疑的でした。
そのため、終戦を迎えた時は「やっと終わった」とほっとしました、もちろん特攻隊や本当に国のためと信じて戦った方には真摯に頭が下がりますし、発狂、自殺する方の気持ちもわかります。
そして、アメリカから入ってきた「話し合いで問題を解決する平等な」民主主義はとても良いことだと感じました。(※1)そしてこの民主主義をしっかりと子どもに教えていきたいと思い、教師になろうと決めました。