全国の公務員に、一歩踏み出すきっかけを。
行政のルールの外、小さな実践が日本を変える。

長野県塩尻市の公務員として、塩尻市の地域ブランド・プロモーションに取り組む山田さん。一方で、空き家プロジェクトnanodaの代表を務め、TEDxでもプレゼンテーションするなど公務員の枠に囚われず幅広く活動しています。ナンパに明け暮れていたという山田さんが公務員になり、やりがいを持って働く自分に変わったきっかけとは。お話を伺いました。

山田 崇

やまだ たかし|塩尻市企画政策部地方創生推進課シティプロモーション係長

塩尻のレタス農家から千葉大へ進学


長野県塩尻市に生まれました。弟と妹の3人兄妹です。実家がレタスや稲作、鉄道郵便の兼業農家で、小さい頃から休みの日はいつも手伝いをさせられていました。正直、農業の手伝いは格好悪くて嫌でした。ただ、親父がめちゃくちゃ厳格な人で、すごく怖かったんです。7人兄弟の長男で、祖父に代わって兄弟6人を育てあげたような人でした。

小、中学校では、輪の中心にいる優等生タイプでした。勉強ができて、中学のバドミントン部では県大会で2位になりました。ところが、ある日を境にそんな状況が一転しました。中2の時に変な所から骨が出てくる病気になって、両足を手術したんです。1週間くらい学校を休んで、部活に行けなくなりました。

しかもその後、学校が2つに分かれることになって、仲の良い友達と別の学校になってしまったんです。部活もできないし、友達とも離れてしまうし、寂しかったですね。新しい環境に馴染めなくて、一人で本ばっかり読んでいました。

高校に入る頃には足が治ったこともあって、バレー部に入り、また部活に打ち込みました。バドミントン部がなくて、同じクラスの友達から誘われて始めました。ずっと部のメンバーと一緒にいましたね。昼食も部室で食べて、部活の後はみんなで終電まで麻雀をやって。狭い範囲で深くつるんでいました。

地域で2番目の進学校でしたが、個人的に大学に行く意味がわかりませんでしたね。むしろ手に職をつけるほうが価値があるんじゃないかと思いました。

ただ、担任の先生から、「大学に行ったら色々な友達ができるぞ」って言われて、それはいいなと思ったんですよね。成績的に、私大の推薦をもらえたのですが、親に経済的な迷惑をかけないよう国立を志望しました。昔からなんとなく小学校の先生に関心があったので、教育学部を受けることにしたんです。

しかし、受験に失敗してしまい、一浪して千葉大学へ進学することになりました。うちにあまりお金がないというのはわかっていたので、受験に落ちた時はショックでしたね。

親から勉強しろと言われたことは一度もないです。ただ、母親が昔貧しくて、大学に行きたくても行けなかったという背景があって、「お前たち3人には自分が塩を舐めてでも大学に行かせたい」って言われて育ったんですよね。僕が一浪したら3人とも大学の時期が重なっちゃう。悪いことしたなって思いながら勉強していましたね。

ナンパに明け暮れた大学生活


大学に入って履修科目を調べてみると、工学部では小学校の教員免許が取れないことがわかりました。仕方がないから塾でバイトを始めました。あとは、単位もろくに取らずに遊んで過ごしていましたね。地元から離れた都会での生活がめちゃくちゃ楽しくて、新歓で出会った仲間と麻雀や合コンに明け暮れました。

1年のある時、高校の同級生から誘われて、塾講師を休んで東京に遊びに行きました。しかし、たくさん人が集まるはずが、来たのは主催した友達と僕だけ。仕方なくそのまま渋谷に移動すると、その友達が「俺は目が悪いから、可愛い子がいたら教えて」って言うんですよ。

僕が「あの2人なんか良いんじゃない?」って言ったら、1人でつかつかっと女の子たちに歩み寄って何か話して、こっち向いてOKのサインを出しました。一発でナンパを決めたんです。それから4人で飲みに行きました。

衝撃でした。なんだこれって、すごくかっこよく思えて。

それを機に、時間が拘束される塾のバイトは辞めて、より自由な時間を持てる家庭教師などをしながら、ナンパに明け暮れました。毎週末、千葉から電車で渋谷まで繰り出して、友人たちと一緒にいろいろな人に声を掛けるんです。声を掛けなければ出会うことのなかった人たちです。単位ギリギリでなんとか進級するような状況でしたけど、毎日楽しかったですね。

塩尻に戻り、公務員に


大学の授業には出ず、バイト、合コン、ナンパに明け暮れる生活だったので研究室では落ちこぼれていました。研究に没頭するより、人と話す方が向いていると思い、営業や保険会社などの文系就職を考えました。ところが、ある大手企業の最終面接まで進みながら落ちてしまったんです。窓から皇居が見える高層ビルで、なんで落ちたんだろう、これをまた繰り返すのは無理だなと思いましたね。

それから、再度方向転換して建築系の企業を受けました。昔から漠然と興味があったのと、理系の中でもこれまでの経験を問われない分野だったので、未経験者として甘えられると思ったんです。最終的に、一緒にナンパをしていた地元の友人の親が経営している建築設計事務所への就職を決めました。

そんなある日、親父から突然「今日帰ってこい」と言われました。その日は塩尻市の公務員試験の出願最終日。親父は僕に公務員になってほしかったんです。言われたので仕方なく、出願書類を出しに行きました。半ば強引に受けさせられたようなものなんですが、結果的に試験に受かってしまいました。とはいえ、公務員って黒髪にダサいスーツにメガネのイメージで、やっぱり嫌でしたね。

結果を報告すると、親父からは「公務員になれ」と言われました。「本当に駄目だったら、1週間で辞めても設計事務所は雇ってくれる。でもその逆は無理だ」と。抵抗はあったんですが、それもそうかと思って、最終的には塩尻市で公務員として働くことに決めました。

初めの配属は固定資産税関係の部署でした。仕事はバイトや研究より楽に感じて、すごく舐めていましたね。苦情への対応なんて、ナンパの難しさに比べたらなんてことないと思いました。いろいろな物件を見に行くことができたので、将来建築に戻っても役に立つだろうという思いもあり、仕事自体は楽しかったです。

両隣の先輩がすごくいい人だったのも大きいですね。テニスサークルに入って、仕事も遊びもよく教えてもらって、最初に抱いていた公務員のイメージが、がらっと変わりました。

尊敬する先輩もできました。2つ目は登記関係の部署だったんですが、ある先輩の書類・データの整理や引き継ぎ資料の作り方がものすごく綺麗で、こういう風になりたいなと思ったんです。その先輩が人事の意向調査で松本広域連合という組織を志望しているのを知って、なんの仕事かもわからぬまま、僕も意向調査では「松本広域連合に行きたい」と書きました。

仕事熱心というわけではなかったですが、人間関係に恵まれて、いつの間にか民間に転職しようという気持ちはなくなっていました。

公務員として、地域の当事者として


3度目の部署異動で、希望通り先輩を追って松本広域連合に出向することができました。加盟する市町村の協議で、消防や介護保険士の認定などを広域で行っている団体です。

31歳の時、明治大学で地方自治や地域政治を研究している牛山久仁彦先生の講演を聞く機会がありました。「地方は、国から言われたことをやっているだけの存在ではなくなった」という話で、すごく元気が出ましたね。さらに、先生から、公務員になりたい大学生向けに講義してほしいというお話をいただいたんです。

「僕なんかでいいんですか」と聞いたら「君は日本一の公務員なんだよ」と言われて、びっくりしました。実は日本で初めて地域単体でなく広域で消防行政をやったのは松本広域連合だったらしく、「君は日本で初めての広域行政をやった職員のひとりなんだよ。要はもう一歩前に出てるんだよ」と言っていただいたんです。

「山ちゃんもう一歩踏み出してるよ」という言葉が本当に嬉しかったですね。きっと頑張ってない人なんていないんです。誰しもその人だけに生まれてきたギフトや、オリジナルのストーリー、経験が絶対にある。でもそれに気付く機会がない。

僕はその時、自分を振り返って、声に出して表現する機会をもらって、それがきっかけで意識が変わって、物事を俯瞰して考えられるようになりました。講演後に牛山先生が喜んでくれたのも、嬉しかったですね。

その後、市民交流センター「えんぱーく」の市民協働の部署担当になりました。ある時、市民活動団体の代表者が集まる会議で、大失敗をしてしまったんです。

いろんな団体がえんぱーくのオープニングプレイベントでお店を出す取りまとめをしていて、ある団体が100円でジュースを売るというのを許可した後に、別の団体が50円で同じジュースを売ると言ってきたんです。私は「良いですよ、協働だから」と許可しました。そしたら「どうして向こうの団体の肩を持つんだ」ってめちゃくちゃ怒られたんですよ。会議中にもう帰っていいと言われました。

ショックのまま気持ちを整理できず、帰ってから30分くらい家の周りを走りましたね。何で怒ってるのかわからないんです。自分は悪いことしてる気はないんですよ。ただ、何も考えずにやったことが、相手にとっては悪い時もある。市役所の中の仕事と近いんですよ。隣の市や前任者がやってるとか、国に言われたとかでオペレーションすることが正しいと思ってるんですけど、そうじゃないんですよ。それは、真に正しいことじゃない。

それから、市民協働についてとにかく調べて周りました。その中で、自分が市民の立場にならないと、良し悪しの判断はできないと思い、市民として、市民協働の代表になることにしたんです。

まずはじめに、「Shiojiring」というアートワークショップを企画しました。塩尻でアートに触れる機会をつくる。そんな掛け声で、表向きは成功したんですけど、長い時間みんなで話し合って目標を決めたのに、それが上滑りしている感じが拭えなくて。目的がなくちゃいけないからそれを作るために時間をたくさん費やしたのに、結局、団体の存続自体が目的になっている。自分の中ではうまくいったという実感が得られませんでした。

「PDCA」から「dCAP」へ


その後、Shiojiringのアートイベントとして女子美術大学の杉田 敦教授に「地域とアート」というテーマで講演をお願いするという企画が持ち上がりました。

ところが、「“2時間で何か話してください”というスタンスで、アートや俺たちを消費するんだろ」と、断られてしまったんです。加えて、パリのキュレーターが24時間トークマラソンを開催したのを模して、「その消費を24時間に伸ばせるならいいよ」と言われました。

そこで、自分の中で考え方を変えることにしました。一度話を持ち帰って、試行錯誤した結果30時間は確保できることがわかったんです。その内容で提案したら、「やろう」と言ってもらい、企画が実現しました。

これは面白かったですね。Shiojiringとは違い、今回は特に目的を設定せずに、「面白そうだからやってみる」というスタンスでした。目的がなくても、その場でアウトプットされたものが作品になる。自分の中ですごく手応えがありましたね。「PDCAサイクル」のうち、PlanのPをなくして、ちっちゃなdoからやることが大事なんだと気付いたんです。

ちょうど同じ頃、市役所には、外の組織に出たことで良い意味で「変わった」と言われる職員がいました。私も出向して変わった自覚があり、彼らと「僕らだけ変わってていいんだっけ?」と話し始めたんです。そこで、若手職員が集まって、意見交換会をする「しおラボ」を開くことに決めました。

しおラボでは、「50年後の塩尻市が豊かであるために」「教育再生を考える」「林業再生を考える」「魅力ある商店街を考える」をテーマに、何度もワールドカフェ形式での話し合いをしたんですが、これでは、なんにも変わらないという停滞感がありました。それで、明日からの行動宣言をする「プロミスカード」という仕組みを取り入れて、17回目の会で「空き家を1軒借りる」ということを決めたんです。商店街の空き家を借りて、3ヵ月間若者がただその場所にいる、「nanoda(なのだ)」という取り組みを始めました。

もともと塩尻の商店街は、空き家率が県の平均を大きく上回っている状態でした。でも、空き店舗対策をするのに、当事者じゃない人が想像で施策を作っても駄目なんじゃないか。じゃあ、勤務時間外で、自分のお金の範囲でその場所にいよう、とプロジェクトがはじまりました。

慶應義塾大学の6人の先生たちが中心に始めた三田の家をモデルに、目的を定めず、場所にはなんの属性も持たせずに、その時々に必要な誰かが何かをします。最初は、平日の朝7時から8時まで、出勤前にとりあえずシャッターを開けてみるだけから活動を始めました。

すると、なんとなく人が集まってきて、そこで一緒に朝食を食べようとか、カフェを開いてみようとか新しいことが生まれるんです。それらを「朝食なのだ」「カフェなのだ」といった具合にどんどん増やしていきました。

目的を定めずに活動を始めた結果、終いには普段商店街に来ない若者たちが足を運んでくれるようになりました。取り組みを知った市外の人が、面白そうと訪ねてきてくれることもありました。商店街の賑わいの創出や若い世代の移住の促進といった、自治体の目的に沿う結果も少しずつ出てきたんです。

そんな反響があったおかげで、メディアに取り上げられるようにもなりました。急に世界が開かれた感じでしたね。新聞や雑誌の取材が来るようになって、「TEDx」で地域活性化について講演することになって。いろんなところから反響がありました。移住する人もいるし、真似する人もいるし、うちを借りてくれないかっていう人もいる。いろんな人がいろんな見方をしてくれるようになって、私が思いもしなかったことが起こり始めたんです。

声を出して試してみれば日本が変わる


今は、塩尻市企画政策部地方創生推進課シティプロモーション係長として、市の第5次総合計画に沿った地域のブランディングやプロモーション、移住促進をしています。「多くの人が選んでくれる塩尻」をつくる部署だと思っています。

個人では、空き家プロジェクトnanodaを初めてもう5年になります。活用されり、運用する空き家は全部で6軒まで増えて、地元の主婦の方々が地場産品を売るお店をしたり、松本市から設計士の人が移転してきて事務所を開いてくれたり。4軒目は私がビジネスホテルを借りて、5軒目はシェアハウスにできないかなと検討をはじめ、6軒目は一時期は居酒屋として活用していました。

他にも、信州移住計画という長野への移住を考えてる若者のコミュニティづくりのための団体を立ち上げたり、これまでの取り組みについて対外的にお話する活動もしています。2017年度だけで185回も話をする機会をもらっているんです。

nanodaをきっかけに世の中に知られるようになって、個人活動が仕事になってきた感覚がありますね。nanodaを始めた2、3年後に空き家バンクが私の仕事になって、シティプロモーション係ができてからは「講演に行くならついでにシティプロモーションしてこい」と言われます。公務員だけやっていたら、こうはならなかったと思いますね。

いろいろな所で講演をさせてもらう中で、改めて公務員はインパクトのある仕事だと実感しています。長期の計画を立てて、それを実行できるのは行政のいいところ。私の仕事って、9年間の計画を作って、30年後もこう在りたいというようなことを考えるんです。これって行政だからできることで、民間ではもっと短期的な成果を求められますよね。だから、僕は公務員を辞める気はありません。

ただ、同時に、行政の決められたルールのなかだけで進めても上手くいきづらくなっているのも事実だと思います。変化の早い時代になっている分、トップダウンで時間のかかるアプローチだけでは難しいと思うんです。

そんな時に、公務員の時間外に、自分の時間とお金を使える範囲で活用するという選択肢もあると思うんですよね。PDCAのPを無くして、ちっちゃなdoから始めることが大事だと思います。

誰も失敗しようと思っている公務員なんていないはずです。公務員になる瞬間は基本的に、みんな優秀なんですよ。勉強していて、地域に帰りたくて。大学時代に取り組んだ経験を、自分の地域やお世話になった地域で活かしたいっていう学生が多いのに、公務員になって2週間で目が灰色になってくすぶってしまうという現実もある。これをなんとかしたいなと思うんです。

だからこそ、本業でできなくても、「衝動的に、経験的にこういうことがやってみたい」というのは間違いないというか、もっとそれを表に出して試してみたほうが良いと思うんですよね。僕は全国で「みんなもっと声に出してよ」ということを伝えて回っているんだと思います。

いずれは、牛山先生のように大学の先生になりたいと思っています。自分が変われたように、他の人にも、特に若い人にもどんどん変わることができるんだと伝えたい。もらったものを返したいなと思っています。

世の中には、約90万人の地方自治体の職員がいます。みんなが元気になって変われば、日本が変わる。塩尻から変えていきたいです。

2018.02.22

山田 崇

やまだ たかし|塩尻市企画政策部地方創生推進課シティプロモーション係長

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