「自分の命を何に使うか」に理屈はいらない。
公務員がカッコいい社会を目指して。

小さい頃から何事も徹底的に取り組み、勉強、ゲーム、アカペラ、ロースクール、仕事をとことんやってきた脇さん。総務省から神奈川県に出向して働く傍ら、全国の公務員500人以上が参加する交流会を主催しています。公務員3年目の春、父の死をきっかけに「命を何に使うか?」という問いに直面した脇さんが出した答えとは。お話を伺いました。

脇 雅昭

わき まさあき|「公務員がカッコいい社会」作り
総務省から出向し、神奈川県庁で勤務。個人の活動で、47の都道府県の地方公務員と中央省庁で働く官僚が500人以上集まる「よんなな会」を主宰。

【2017年7月9日イベント登壇!】another life. Sunday Morning Cafe 〜あなたの未来を変える生き方〜

やるんだったら徹底的にやる


宮崎県都城市にある山之口町で生まれました。6人兄弟の末っ子で、一番上とは20歳くらい歳が離れています。親はスーパーを経営していました。父親は仕事人間で家庭をあまり顧みない性分でした。しかし、4歳上の姉が生まれた時、それではいけないと教育に力をいれるようになり、父は仕事をやめ、姉と僕はスパルタ教育を受けました。親の元で勉強ばかりしていたので、いつも一緒でしたね。

教育方針が一風変わっていたのかもしれません。ゲームをやっちゃだめって言われていたんですが、どうしてもやりたくて友達から借りてきたんです。隠れてやっていたら、親に激怒されました。「コソコソやらずに、やるんだったらやりきれ。」と。1週間学校を休まされ、夢中でゲームをやりました。

ピアノや書道などの習い事をしながら、勉強も徹底的にやりました。公文の進度では全国2位になりました。しかし小学校3年生の時、「なんでこんなに必死にやんなきゃいけないんだ」と思い、勉強をしなくなりました。威厳ある親への反発心が大きかったですね。

小中学時代は、周りから浮いた存在でした。親や兄弟と歳が離れている影響で、大人や年配の方と話す機会が多かったんです。中学ではサッカー部に所属していましたが、心から話が合う相手がいない寂しい学校生活でした。一転して、高校からは話があう相手も多く、お祭り男と呼ばれ、周りとも仲良くできるようになり、親友ができました。

充実した高校生活の中で、将来のことを考えた時に、国家公務員と弁護士に関心がありました。国家公務員については、意味があるのかわからない勉強を変えられるかもしれないと思ったからです。教育というサービスの受給者として、教育のあり方に疑問を持っていたんです。一方、弁護士に対しては単純に面白そうだなと、ボヤッとした印象でした。最初は指定校推薦で進学しようと考えていたんですが、先生からお前は実力で行けと言われてしまって、そこからは1日15時間以上勉強しました。最終的に、京都大学法学部に入学しました。

人生が発露するかっこいい大人が理想


大学ではアカペラサークルに入りました。最初はカラオケ仲間が欲しくて入ったんですけど、そこでたまたま先輩のバンドに入れてもらえたんです。テレビ番組の影響でアカペラが流行して、そこそこ有名なグループでした。

僕にとって初めてのステージは大手百貨店でのクリスマスライブ。結果は散々でした。ライブ中、お客さんを見ずに、先輩の顔色ばかり伺っていたんです。終演後、リーダーに「下手でもいいからとりあえず笑え。楽しそうにしていたらお客さんも笑うから。」と言われました。

それ以降、どんなに下手でも満面の笑みで歌うようになりました。そしたら、ファンの方から「楽しそうに歌っているから元気が出る。」との声を頂くようになったんです。誰かを楽しませたい、喜ばせたいなら、まずは自分が楽しむ。そんなことをアカペラから学びました。

本格的に卒業後の進路を考え出し、大学4年の時に、弁護士の勉強を始めました。それがとにかく面白かったですね。アカペラで全国的に有名になって、プロにでもという話もあったんですが、歌は稼ぐものというより楽しむものだという思いが強くて、そのまま勉強を続けました。

同じ頃、同級生に誘われて、国家公務員の説明会に行きました。そこで登壇した総務省の採用担当の方が、僕たち学生にこう言ったんです。「一緒に日本を良くしていこう。」と。このおっちゃん、カッコいいと思いました。40代の方でした。その方の目や立ち姿に人生が発露していて、自分も20年後、学生の前でこんなことを言える大人になっていたいと、憧れましたね。

最後まで弁護士になるか、官僚になるか、迷いました。最終的に進路を決めた大きな理由は親の存在です。あんなに強かった親が年老いていき、いつの間にか守るべき対象に変わっていたんです。もし介護が必要になった時には近くにいたい。官僚は多忙で親の死に目に会えるかわからないこともあり、弁護士を選びました。

卒業後は神戸大学のロースクールに通いました。優秀な若い先生方と勉強熱心なクラスメイトと勉強ばかりの日々で、無茶苦茶仲良くなりました。しかし、先生を交えて議論をしても、先生自身が考えた説ではないので、最終的には「こうだと思うよ」と推測で話が集結してしまう。自分たちがやっている議論に意味があるのかという違和感がありました。

どうせやるなら徹底的にやりたい、教科書を書いている先生に習いたいと、再び受験勉強をし直して、東京大学のロースクールに編入しました。課題がある説に対して、先生に詰め寄ってかわされたこともありましたが、何かを変えられるかもしれないという可能性にワクワクしましたね。

一方で、勉強すればするほど、法解釈には限界があり、それ以上は立法の問題であることも知りました。徹底的に勉強していたからこそ、無力感がありました。そんな時、頭に浮かんだのが「一緒に日本を良くしていこう。」と語った総務省の方の姿でした。カッコいい公務員にワクワクした思いが蘇り、官僚になることを決意したんです。それからは総務省一択に絞って官庁訪問をして、試験を経て無事内定をいただくことができました。

死を目の当たりにして生を感じた


入省後、4ヶ月の研修を経て、8月から熊本県庁に出向しました。せっかく勉強したのだからという思いで弁護士試験も並行して受験し、1年目の10月に合格することができました。翌11月に財政課へ異動になりました。県庁勤務の場合、通常1年目は市町村周りの仕事をして、2年目に財政課に配属になるんですが、僕の場合は3ヶ月後に異動でした。

財政課にとって11月は一番忙しい時期で、配属した矢先に熊本県の警察予算400億を査定することになりました。僕の場合「査定って何?」ってところからのスタートでした。朝4時まで仕事して、一旦帰宅し、朝8時半に出勤。週末も働いていました。職員一同で命を削って議論をしましたね。「本当にこの制服いるんですか」とかいうレベルまで。しんどかったですね。なんとか議論をまとめて予算案が完成したのは2月でした。

しかし、そこに書かれているのは費用名と費用の数値のみだったんです。それを見て愕然としました。自分たちがした議論は最終的には数字でしか現れないんだな、うわ、やばって。本当に大切なのは、その数字の先にいる人、そこで働いている人が何をモチベーションにしているのか、どう保っていけばいいのかなんじゃないのか。命削ったのに何してんだろうと悔しい気持ちでした。

2年目からはそこを意識して査定していきました。それでも、自分の命をかけたことと成果物の距離を感じ、本気で辞めたいと思うようになりました。3年目に総務省に戻り、採用担当になりました。辞めたいと思っている自分が学生に向かって職場の良さを伝えなければいけない。最初は辛かったですね。けれど、総務省の志望理由を話す機会が自然と増え、原点回帰できました。20年後に「日本を一緒に変えよう」って言いたくて入ったんだよなって。

翌年の3月、父親が亡くなりました。友人の結婚式に出席するためたまたま帰省していたので、最期を見ることができました。普段テレビの中では人がどんどん死んでるじゃないですか。それに対していちいち心を痛めたりしないし、自分からは遠い世界で起きていることだったんです。でも、いざ目の前で死を見た時に、むちゃくちゃ「生」を感じて。「うわ、俺、死に向かって『生きてる』んやわ」って思ったんです。

そこから全てのことに対して、自分の限られた時間、命を何に使っていくのかという発想に切り替わりました。うちの親が一番くれた、僕にとって大事なものは「やっぱり人って死ぬんだよ」ということ。そこから「どう生きるか」をめちゃくちゃ考えるようになりました。人はいつか死ぬし、それがいつかわからない。この2つがある中で、じゃあ今日を一生懸命生きないとなって。だた、どう生きるかについての明確な答えは出てきませんでした。

自分を動かすために理屈は必要ない


自分の人生で何をすべきか考えている頃、民間と交流を深める中で社会起業家の方たちと出会う機会が増えました。彼らは、本当だったら公が解決しなければいけない課題を、自らの意志でリスクを背負ってまで取り組んでいました。尊敬を抱いたのと同時に、彼らのように人生をかけるものがほしいなと思いました。仕事では総務省で約50年ぶりの会計制度改革を担当させてもらっていて、やりがいを感じていました。それでも、自分はどこに向かいたいのかわからない日々が続きました。

2年くらい悩んだある日、ふと足元を見たら前に進んでいない自分に気がついたんです。仕事は精一杯やってたけど、でもなんか頭のなかでは悶々としてて。何かを探し続けて2年が経ってて。気づいたら、頭のなかで気持ちよくなってただけで、何も世の中に生み出してない。この想いをプラスにできてねえじゃんって思って。だから、そっからもう「やめよう」って思ったんです。頭のなかで考えてても何も変わらないって。それを受け入れたって感じです。

受け入れたら、むっちゃ開けてきたんですよね。たぶん、一生懸命理屈を整理しようとしてたんです。でも、理屈は誰かを説得して動いてもらうために必要でも、自分を動かすために必要なわけじゃないなっていうのに気づいて。だったら、動かせる自分を、自分が思いつくままにやってみようと。そうしたら次にやりたいことが出てくるんですよ。さらに次ってどんどん生まれていって。思いつくってことは、自分の中に、「言葉にはできないけれど何か感じてるもの」があるんですよね。だから、その自分の感覚っていうのを大事にしようって思って。それを続けて、死ぬ前に振り返ってみて「あ、俺こういう人生だったんだな」って思える人生も、それはそれでなんかハッピーなんじゃないかなって。

そんな想いから、仕事とは別で、全国の公務員を集める交流会を開催し始めました。もともと、周りの若手公務員と働く中で違和感があったんです。今後地方の中枢で働く、いわばエースである彼らが、たいした休みもなく、気合と根性で仕事をやり遂げている。でも、彼らにとって今必要なことは、課題を我がこととして捉え、どういう人たちと解決していくべきか考えること、色々な人との繋がりを作ることなんじゃないかって。とはいえ、勉強会に顔を出さない公務員に対して僕ができることはなんだろうって考えたら、飲み会だって。そんなきっかけでイベントを「よんなな会」と名付けて、公務員を中心とした大規模な交流会として開催するようになりました。

公務員がカッコいい社会にしたい


現在は総務省から出向して、神奈川県庁で国際観光課課長をしています。外国人観光客の誘致の責任者で、戦略を立てています。観光とは人が動くこと。つまりは人の心をどう動かすかだと思っています。仕事とプライベート関係なく、出会った方と一緒に施策を考えたり、新しい協定を結んだり、民間の方と手を組んだりしています。世の中がどうやったらハッピーになるかという勝手な使命感でプライベートと仕事の区別なく動いています。胸を張って言えますが超自己満足です。だから楽しめるんだと思います。

将来の目標みたいなのはないですね。どこに向かっていくかわからないし、わからないことを今は楽しんでいますね。今日の自分が想像できない明日があるって、無茶苦茶わくわくするなって。それは、僕が「これだ!」って思えるビジョンを持てなかった人間だからこそ、日々を手段じゃなくて、目的化していこうって考えてるんですよね。場当たり的って言われるかもしれないですけど、でも一生懸命、今のベストを尽くすことを毎日やってるんですよね。

でも、強いて言うなら、公務員をもっと知ってもらうことをしたい。公務員がカッコいい社会を作りたいなと思います。社会起業家の方たちと話していて、公が持っている価値が想像以上にあることに気づいたんです。彼らと出会うことで見えてきた公務員の価値を世の中にちゃんと伝えるためにも、もっと頑張ってる全国の公務員を皆さんに知ってもらうことが大事だと思っています。

2017.05.25

脇 雅昭

わき まさあき|「公務員がカッコいい社会」作り
総務省から出向し、神奈川県庁で勤務。個人の活動で、47の都道府県の地方公務員と中央省庁で働く官僚が500人以上集まる「よんなな会」を主宰。

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