批判されても自分の信じた道を貫く。
戦い続けた先で見つけた本当のやりがい。

これまで100社1700件以上、企業内の新規事業開発を支援してきた石川さん。大手情報サービス会社のトップ営業マン、花形の新規事業担当となり、その後創業したメディアでは事業責任者を務め、上場を果たしています。しかしその道は、決して平坦なものではありませんでした。石川さんの原点とは。お話を伺いました。

石川 明

いしかわ あきら|株式会社インキュベータ代表取締役
株式会社インキュベータ代表取締役。SBI大学院大学客員准教授。1988年に株式会社リクルートに入社しキャリアをスタート。新規事業開発室のマネージャーとして1000件以上の新規事業案に携わる。2000年に株式会社オールアバウトを創業、JASDAQ上場を果たす。10年間事業責任者を務めたのち独立。社内起業に特化し、新規事業の創出や新規事業を生み出す組織づくりなどを行う。

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批判されても負けずに自分を貫く


大阪府八尾市で生まれました。体が小さく、少し無理をすると体調を崩しがちな子どもでしたね。その一方で、間違っていると思ったことは正さないと気が済まない性格でした。例えばみんなで話していて議論がまとまりかけても、納得のいかないことがあると「だけど…」と混ぜ返してしまうんです。

そんな性格のせいもあって、小中学校ではよく喧嘩をしてはボコボコにされました。体格差で全く勝てませんでしたが、やられっぱなしは嫌。どんな喧嘩でも必ず一発は 返ししていました。批判されても殴られても、自分の正しいと思ったことは曲げたくないし、負けたくないと思っていました。

正攻法でいっても勝てないので、人と違う方法をとって戦うようになりました。相撲をするときは、正面から行かずに回り込む、相手の腰にかじりつくなどして勝ちに行きましたね。

高校に進学し、体育祭の種目を決める話し合いがありました。僕は短距離では勝てないので、長距離の1500メートルに立候補したんです。でもその高校では、1500メートルが花形だったんですよね。クラスメイトから「石川が勝てるわけないやろ、なんで石川がうちのクラスの代表やねん」と大バッシングを受けました。

運動が得意な自覚はないので当然だとは思いましたが、そこまで言われてめちゃめちゃ悔しくて。クラスメイトを見返したくて、その日から猛特訓をはじめました。運動部ではなかったので、放課後に一人、黙々と走り込みました。

迎えた本番。必死に食らいつき、最後の1周で数人の選手を抜き去りました。優勝には至りませんでしたが、健闘したと思います。頑張りすぎて、ゴールにたどり着くと吐いてしまいました。しかし、それを見たクラスメイトたちが、「頑張ったのはよくわかったから」と声をかけてくれたんです。全然かっこよくはありませんでしたが、批判してきたクラスメイトにそう言われて、すごく嬉しかったですね。自分から手をあげてよかったと思いました。

入社後の配属での挫折から、トップ営業マンへ


正面から戦っても勝てないので正攻法を取らずにいたからか、人と違う独特のポジションのものが好きでした。例えば野球でも、みんなが阪神を応援する大阪で、ヤクルトを応援していました。みんなが選ぶようないわゆる「本流」の中にいるのは、なんだか居心地が悪かったんです。そんな考え方から、進路もみんなが進学しない東京の有名私大をあえて選びました。

大学では寮に入り、様々な学部の人200人くらいと共同生活を送りました。僕は文学部で、大学祭で大きなイベントを興行したりスポーツをしたりと楽しく過ごしました。しかし就職活動の時期になると、文学部は就職率が圧倒的に悪いことがわかってきました。送られてきた就職情報誌を見ると、法学部、経済学部、理工学部などと比べて、文学部は明らかに求人が少ないんですよね。

都市銀行や大手商社は書類選考の段階で落とされ、面接も受けられないと言われていました。時代はバブルの絶頂で、学生の関心ごとは「何歳で年収1000万円を稼げるか」。高年収の銀行や商社はみんなが目指す就職先でした。そもそも年収にこだわりがあった訳ではないものの、初めから負けるとなると悔しくて。負けないくらい稼いでやろうと決めました。

会社を探す中で興味を持ったのは、まだ知名度は低いけれど自由で勢いのあった会社です。学部による差別もないし、男女や国籍の違いも問わない。働いている人も自由でした。内定をもらうことができ、入社前からアルバイトとして働き始めたんです。

最初に任されたのは営業です。大学でもイベントの協賛金集めなどをしていたので、売れるだろうと軽く考えていました。しかし、やってみると全然売れない。こんなに売れないものなのかと驚いていたら、入社後の配属でいきなりグループ会社に出向を言い渡されました。出向になったのは数人だけ。本社に必要のない人材と判断され、飛ばされたんだと思いました。名をあげようと思っていた矢先、スタートからつまづいてしまったんです。

正式に入社してからもグループ会社で営業をしましたが、最初は成績が悪く、全く数字が取れません。半年間、売上ゼロが並びました。これでサラリーマン人生が決まってしまうかもしれない。かなり焦りました。既に初配属でルートから外れているのに、出向先でも落ちこぼれていたのでは、これは相当頑張らないと浮かび上がれないと思ったんです。ここから浮上するためには、相当目立たなければいけない。他の営業マンに2倍、3倍の差をつけられるような営業マンにならないとダメだ。そう考え、トップ営業マンを目指して努力する日々が始まりました。

目標売上数字を決め、そのためには何件のプレ、何社の訪問、何件の電話をかける必要があるのか、割り出してひたすら行動しました。大学時代の友達との飲み会も合コンも行かなくなり、会社の打ち上げも一次会で帰宅。営業成績をあげることしか考えられなかったです。営業数字の〆日となる月末が近くなると、ストレスからか毎月下痢になりました。それでも、そんな日々を続けていった結果、1年目の終わりには念願だったトップ営業マンになることができました。

年間200件の新規事業案を読む


成果が出ても、毎月末の不安は変わりませんでした。今回はダメかもしれないという不安から必死に頑張る毎日の繰り返しで、気がつけば4年間トップを走り続けていました。しかし無理をした結果、4年目には「もうだめだ、動けない」と灰のようになってしまいました。会社に申し出て、1年間ビジネススクールに通わせてもらうことにしました。それまでの業績がよかったので、会社からの派遣で、仕事を休んで通学に専念することを認めてもらえたんです。

ビジネススクールに通い始めると元気が戻ってきて、「折角こんな機会を与えてもらえたなら将来に渡って活かせるような学びがしたい」という気持ちが湧きました。

そんな中、クラスメイトはみんなマーケティング戦略や財務戦略をテーマにしていましたが、自分は「幸福論」をテーマにしました。1990年代の半ば、ビジネスの世界で「幸福論」を勉強している人はほとんどおらず、「ここはビジネススクールだよ?」と周囲からは笑われました。ですが、自分では「マーケティングの究極の目的は人を幸せにすること」と信じていました。

1年間の学びを得て会社に戻ると、希望して新規事業の専門部署に配属してもらいました。会社では新規事業が花形とされていたので、素直に嬉しかったですね。しかし実際に仕事を始めてみると、何をやったらいいか全くわかりませんでした。

与えられているお題は、「BtoB」と「ローカル」をキーワードに、自分の良いと思う新規事業を1年かけて考えること。すべきことを見つけられず、給料をもらっているのに成果を出せない自分に苛立ちを感じました。トップ営業マンで、ビジネススクールまで行かせてもらって、花形の部署に配属されて。期待されているのに会社に貢献できない自分を許せず、ストレスから胃に穴が空いてしまいました。

なんとか復帰した後も、自分独りでゼロイチをやるのは難しく、先輩とチームを組ませてもらい、自分の得意なところを担当させてもらって指示をもらいながら、検討の仕方を少しずつ覚えていきました。

とはいえ、部署に明確な確立されたメソッドがあったわけでもなく、検討の手順はいつも手探りでした。どうやって検討すべきなのか、正解は何もわかりませんでしたが、社員による新規事業提案制度を事務局として担当することとなり、たくさんの事業案をみるうちに、何が良くて何が悪いのか、勘所がわかるようになってきました。

営業の時と同じで、量をこなしていくことで徐々に質をあげられるようになったんですよね。年に200件は事業案を見ました。そのことが、「これだけたくさんの事業案をちゃんと見て考えてるやつは世の中にそういないだろう」と自信に繋がっていきました。

先駆けとなるウェブメディアを上場に導く


数々の新規事業を生み出し、社内でも「新規事業開発室の石川明」と名前を覚えてもらえるようになりました。しかし、妻が妊娠したときに身体の具合を悪くしたことをきっかけに、思う存分会社で働くことができなくなって、今までのような成果を出せなくなったんです。毎日終電まで働いて帰るのが当たり前だったところから、大きくワークスタイルを変える必要がありました。

加えて、会社は莫大な借金を抱えていて、思うように新規事業への投資ができず、新規事業案を出しても会社に却下されることが多く、悶々とした気持ちになりました。ちょうどそんな頃にヘッドハンターから声が掛かり、転職を考えたりもしたのですが、同時期に上司から別会社でウェブメディアを立ち上げる話を聞きました。面白そうだと思い、転籍前提で出向することに決めました。

インターネットの登場によって、大きくビジネスやメディアの形が変化してきた時代でした。そのメディアは、専門家が自ら名前を出して記事を書いていく、これまでにないモデル。広告収入がメインだと、記事の内容が広告主に左右されてしまう危険性がありましたが、専門家が入ることでユーザーの目線を担保することができるモデルでした。「第一次ネットバブルの崩壊」と言われた時代で、ネットビジネスは儲からないと批判を受けることもありましたが、「このモデルは絶対成功する」と感じていたので、とにかく働きました。

僕の立場はビジネス部門の責任者。とはいえ立ち上げ時ですから、広告の営業数字を見る他にも人を採用したり、システムのトラブルに対応したりと、事業全体を考える必要がありました。立ち上げからの数年は終電のある時間にも帰れないくらい、めちゃめちゃ大変でしたね。

しかしその甲斐あってか、読者がある一定の数を越えると、一気に広告が入り始めました。メディアの信用性も増し、5年を待たずに上場させることができたんです。

新規事業担当者の変化が喜びに


上場して数年経つと、業績が悪化しました。マンションの偽装問題があって主な広告主だった不動産会社からの広告が冷え込み、極め付けはリーマンショックでした。インターネットの市場自体は伸びていましたが、その中で業績を伸ばしていくことができなかったんです。携帯電話やスマートフォンという新しいデバイスにすぐ対応できなかったことも原因の一つでした。

業績が悪くなると、メンバーとの人間関係が悪化し、部下から信用されなくなるのが本当に辛かったです。最終的に、業績悪化の責任をとって、10年間働いたその会社をやめることにしました。

自分からやめた訳ではなかったので、次に何をするのか考えていませんでした。実質的な辞任から退職まで少し時間があったので、とにかくいろいろな人に会うことにしました。3カ月間で200人。前職の同僚から取引先、大学時代の友人まで、片っ端から連絡しましたね。

話してみると、相手によって関心を持ってくれるところが違いました。僕はてっきり、メディアを上場させたことを聞かれると思っていたんです。しかし多くの人が食いついたのは、情報サービス会社でやっていた社員からの新規事業提案制度の話でした。「それってどういう風にやるの?」と、細かいところまでかなり興味を持って聞いてくれたんです。

それまではメディアの経験を生かしてIT系の企業にでもいくのかな、と考えていましたが、「みんなが困っていそうなことが社内での新規事業の立ち上げなら、それを仕事にしよう」と決めました。

会社には属さず、個人でやることにしました。前職のメディアでは、社員200人を食べさせるのは自分の責任だと思っていたので、家族4人くらいは独りで背負っていけるだろうと思ったんです。いろいろな人と話をする中で「我が社でも新規事業を立ち上げたい」というお話が出てきたので、身近なところからお手伝いをはじめました。

支援は、新規事業担当者に伴走する形で行います。案を作り、社内承認をとり、実際に形にしていく。それを側で見ていくと、事業化されていく過程で起案者の顔がどんどん変わっていきました。最初は任務のようにこなしていた人も、徐々に「こんなことができるかも」「うちの会社変われるかも」「お客さんに喜ばれるかも」と話をするようになる。その変化をみるのが大きなやりがいになりました。

やってきたことは間違っていなかった


個人としての事業も軌道に乗り、多くの企業をお手伝いさせていただきました。そんなある日、突然なんの前触れもなく倒れたんです。数日たって、ようやく意識が戻りました。聞いてみると、脳下垂体に腫瘍ができていたそうです。一回死んだような感覚があり、人間、死ぬ時はあっけないんだと強く感じました。

1カ月半入院が必要だったため、SNSに「寂しいからお見舞いに来てくたさい」と投稿しました。いろいろな人に会わないともったいないと思ったんですよね。すると、ものすごい数の人がお見舞いにきてくれました。一緒にプロジェクトをやった人から研修で一度お会いしただけの人まで、200人を越える人が、わざわざ足を運んでくれたんです。

その中で、「あの研修で考えた事業が実現して、今度新聞に出るので見てください」とか、「あのプロジェクトが転機になって、今、専門部署に異動してやってるんです」とか、嬉しい声をたくさんいただきました。病室の中に、人生が走馬灯のように見えた気がしたんです。子どもの頃から本流ではなかなか勝負に勝てなくて、社会人生活は落ちこぼれそうになりながらのスタート。いろいろな批判もされてきたけれど、「あ、自分がやってきたことは間違えてないな」と思うことができました。

新しい事業を生み出せる組織を育む


今は、個人事業を法人化し、新規事業立ち上げをサポートしています。これまで100社以上の新規事業に関わってきました。やっていることは大きく3つで、新規事業をボトムアップで作りやすい環境づくりと、新規事業の起案の伴走、新規事業を生み出す人材の育成です。

中でも一番力を入れてるのは、新規事業をボトムアップで作りやすい社内の組織・体制づくり。お客さんに近いところにいる現場の社員から事業案が出てくることで、お客さんにとっても会社にとってもより良い事業ができると思うんです。社員にとっても、お客さんの「不」を会社を使って解消できるというのは、健全な働き方であるはずです。それができる組織を作りたいですね。

さらに、若い人が挑戦しやすい環境を作ることも大事です。時代の流れの中、特に大企業では生産性向上や効率化ばかりに目がいって、「失敗してもいいから試しにやってみろ」と言ってもらえることが少なくなっていると感じます。僕は新しいことにチャレンジさせてもらってきたので、若い人にもそういう機会を作りたいですね。

僕の人生の目標の一つは、自分のお葬式にたくさんの人が来てくれることです。病室にたくさんの人がお見舞いにきてくれたように、最期に「あなたに会えてよかった」と言ってくれる人がいたら嬉しいなと思います。そう言ってもらえる自分で在れるよう、負けん気も忘れずに、今後もたくさんの人を支援して生きていきたいと思います。

2019.11.18

インタビュー・編集 | 粟村 千愛

石川 明

いしかわ あきら|株式会社インキュベータ代表取締役
株式会社インキュベータ代表取締役。SBI大学院大学客員准教授。1988年に株式会社リクルートに入社しキャリアをスタート。新規事業開発室のマネージャーとして1000件以上の新規事業案に携わる。2000年に株式会社オールアバウトを創業、JASDAQ上場を果たす。10年間事業責任者を務めたのち独立。社内起業に特化し、新規事業の創出や新規事業を生み出す組織づくりなどを行う。

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