難聴を乗り越えて開けた鍼灸師への道。五島唯一の女性鍼灸マッサージ師が目指すもの。
五島列島で唯一の女性鍼灸マッサージ師として治療院を経営されている才津さん。鍼灸師を志したきっかけは、高校受験時にかかった突発性難聴でした。難病とどう向き合ってきたのか?そして、なぜ五島で開業するに至ったのか?お話を伺いました。
才津 香澄
さいつ かすみ|鍼灸マッサージ院経営者
長崎県の五島列島、福江島で鍼灸マッサージ院を経営する。
受験のストレスで難聴に
九州最西端にある長崎県の五島列島で生まれました。父が五島の出身で、里帰り出産のために母が五島に一時滞在したようです。生まれてすぐに東京に戻り、小学生からはずっと兵庫で暮らしました。
兄が1人いて、小さい頃から仲良しでした。習い事を始めるきっかけはいつも兄でしたね。水泳やソフトボールなどを真似して習いましたが、私は比較的器用ですぐにコツを掴んでしまうので、兄や周りの子を追い抜いてしまうことが多かったです。
兄がコツコツ努力する反面、私は「少し努力すれば何でも人並みにできちゃうから」と周りを少しばかにしていました。「うさぎと亀」のうさぎみたいな感じです。勉強もスポーツもそこそこできて活発で、生徒会長なんかもしていました。
中学3年生になり、進路を考えるようになってからも、当然のように兄の通う高専に行こうと考えました。しかし、水泳部で上位大会に出場したことで勉強を始めるのが遅れてしまい、夏以降追い込みをかけなければいけない状況でした。コツコツ努力ができない私が、必死になって自分を追いつめて、もうめちゃくちゃに勉強しました。
その疲労とストレスれが原因で、中3の冬に突発性難聴にかかってしまいました。最初は目まいなどの前兆があり、電話やリスニング機器の機械音が聞こえにくくなる症状が出ました。
そんな状態だったので、「余裕だろう」と思っていた高専の推薦入試にあっさり落ちてしまいました。ショックでした。人生で初めての大きな挫折感を味わいましたね。それから間もなくして片耳が完全に聞こえなくなりました。
結局滑り止めで受けた公立高校に進学することになって、受験が終わった直後に両耳が聞こえなくなりました。1ヶ月ほど入院して経過を見ても治る気配はなく、父の判断で退院することになりました。
公立の高校には合格していたので、学校に通い始めましたが、毎日が苦しくて、精神的にぎりぎりの状態でした。人の話が分からないとか、自分の言いたいことを伝えられないのはまだ良かったんですけど、誰かが楽しそうに喋っているのを見るのが本当に嫌でした。まるでと「お前は耳が聞こえないんだ」と見せつけられているような気がするんです。外に出たくなかったです。
人に会いたくないし誰とも関わりたくない。そう思うようになり、ワガママを聞いてくれる人とだけ関わりを持つようになり、社会から逸脱していました。
鍼灸師の先生との出会い
高校に入ってしばらくして、兄から「整骨院行くついでに散歩でもいかへんか」と誘われました。学校に行ったり行かなかったり、以前のような活発さを無くした私を心配してくれたのだと思います。いつもは行かないんですけど、面白い本がたくさんあるとか、イヤホンをつけて音楽を聞いたふりをしていれば誰とも話さなくていいからと説得され、誘いに乗って整骨院について行きました。
整骨院の待合室では、漫画を読んでいました。すると、鍼灸師の先生がいました。その先生は私を気にかけてくれて、筆談で色々話してくれました。それだけで気持ちがスッキリしたんですけど、さらに、に「耳の治療をしてみないか」と提案されました。耳の神経にアプローチする方法は色々あって、針も有効な治療なんですよね。
最初は、効果は全く感じられませんでした。実感ゼロです。何やってるのか、よく分かりませんでしたね。それから何となく先生のところに通うようになり、筆談で診察を受けるようになりました。その先生は、押し黙っている私に根気強く付き合ってくれたんです。「前に入院していたときはお医者さんに全然話を聞いてもらえなかったけれど、この先生は違う」と思いました。直接治療とは関係のない悩みを相談したりするうちに、だんだん心を開いていきました。悩みを何度も聞いてもらっているうちに、「こんなに私の話を聞いてくれる人なら信じられる」と思うようになりました。諦めていた治療を再開する気になったんですよね。完治するのは無理だと思っていましたが、「耳鳴りだけでも治るならいいか」と思い、先生に治療したいと伝えました。
それでも、数ヶ月鍼灸治療を続けるうちに、だんだん耳が聞こえるようになりました。体調などによっては聞こえづらくなったり、聞こえなくなったりもするのですが、音が聞き取れる日常が戻ったんです。嬉しい半面、いつ聞こえなくなるかはわかなかったので、不安は常にありましたね。
この針治療はがすごく新鮮でした。体に細い針を刺されながら、「なんで耳以外のところに耳の周りに針さして治るの?」というのがとにかく不思議でしたね。次第にもっと針治療のことが知りたくなり、鍼灸師になりたいと思い始めました。
高校3年生になり、親に鍼灸の専門学校に行きたいと頼みました。すると、「学費はいくらいるんだ?」と聞かれ、「500万くらい」と答えたら、数日後現金で500万円を手渡されたんです。「これで父親としての義務は果たした。家族それぞれが自分のやりたいようにやろう」って。
ちょうど、父は仕事を辞めて五島に帰ると決めていて、父は五島、母は神戸、兄は京都、私は大阪と、別々に暮らすことになりました。
鍼灸の修行に打ち込んで、難聴が再発
高校を卒業した後、大阪の鍼灸専門学校に進学しました。専門学校で勉強に打ち込む中で針治療の知識がつき、難聴の治療中に抱いていた疑問や謎は次第に解けていきました。
勉強は楽しかったけれど、もちろん辛い時もありました。鍼灸師になるための道は険しく、400個以上あるツボを覚えたり、学業だけではなく、放課後に技術を身につけるために治療院で修行させてもらったりと、強い意志がないとやっていられませんね。
それでも続けられたのは、高校受験に失敗して難聴になったという経験があるからでした。コツコツ積み重ねて努力することができなかった私にとって、これが頑張る最後のチャンスだと思ったんです。「今度こそ負けられない」という気持ちで勉強に修行に追われながらも毎日を過ごしていましたね。
努力の甲斐あって国家試験に無事合格し、専門学校を卒業した後はすぐに鍼灸整骨院で働き始めました。仕事はかなり激務でした。朝6時半位から夜23時頃までは働きましたね。体力的にかなりきつくて辞めたいんですけど、変な責任感が働いちゃうんですよね。きついけど、私がやめちゃったら目の前の患者さんが悲しむ。そう思うと辞められませんでした。
仕事のストレスで難聴が再発し、頭には10円ハゲができてしまいました。耳が聞こえなにくくなるのはいいんですよ、仕事も休めるので。でも、ハゲるのには恥ずかしすぎて耐えられませんでしたね。ハゲても仕事を休めるわけではありませんし、ただ恥ずかしいだけですから。
それで、会社を辞めることにしました。患者さんのことは大好きだし、仕事も好きなんだけど、体力的にきつすぎました。
一通りのことは勉強させてもらっていたので、次は独立しようと思いましたね。
もうその職場で学べることはないなと感じていたこともあり、「辞めて開業します」と言ってオーナーに退職願を出し、11か月後にようやく退職できました。
父の故郷五島で鍼灸院を開業
開業することは決めていたものの、場所をどこにするか非常に悩みました。大阪の駅前のビルや神戸の実家などの選択肢がありましたが、どれも決め手に欠けていたんです。
働き過ぎて疲れ切った状態で考えても良い結論は出ないと思い、一度考える探すのをやめることにしました。海を見ながらとりあえずゆっくりしようと思い、五島の父の家で3か月くらいのんびりとニートをしようと思い五島に滞在することにしました。
しかし、五島に着いて早々、島で農家をしている叔母に「あんた肩もめ、プロやろ」と言われました。もんであげると、叔母が「あーよくなったー」って近所に私のことを言いふらすんです。
数日後、ぎっくり腰になったご近所の方が噂を聞いてやって来ました。針を打ってあげたらすっかり良くなったんですが、ただでやる訳にはいかないので1回の施術につき1000円もらうことにしました。
そうしたら再び噂が広まり、1日に2~3人はお客さんが来るようになりました。予想外に評判が広がって人気が出たので、「こうなったらもう五島で開業してしまおう」と決心しました。空き家になっている親戚の家を借りて、鍼灸マッサージ整骨院を開いたんです。
五島の人たちに押し流されるように仕事を始めてそのまま開業したので、結局ゆっくり休む暇はありませんでしたね。でもそのお陰で、「はやく開業する場所を決めなきゃ」と自分を追い込んだり、「これからどう生きていこうか」など余計なことを考えたりせずに済みました。
五島には農業や漁業で体を酷使するお年寄りが大勢いるので、「鍼灸師」という私の仕事には大変な需要がありました。「ああ、ここでは自分が必要とされているんだ」と感じましたね。
大阪には私と同じレベルの治療家鍼灸師が山程いたので、自分が特別に必要とされているとは思えませんでした。大阪で勤めていた時は指名もしょっちゅう外されたし、「あんたよりイケメン院長のほうがええわ」っておばちゃんに言われたりもして。「一回施術してもらったけど効果が出ないので、次から違う整骨院へ行きます」と言われることもざらにあって、常に誰かと比べられる環境でした。
その点、五島では、私は唯一の女性鍼灸マッサージ師であるため貴重な存在です。絶えず他の治療家鍼灸師と比べられることはありませんし、お客さんは私を信じて通い続けてくれるので深い信頼関係を築くことができました。
五島をイキイキさせたい
今年で鍼灸マッサージ整骨院を経営し始めて4年になります。五島で充実した毎日を過ごしていて、大阪にいるときよりもずっと豊かに暮らしています。経営は大変なこともありますが、自由な時間も多いので、時々父と海に潜って海人をやったりしますよ。稼ぎも増えたので、26にして自分の住居兼店舗を建てました。
鍼灸師の仕事には大きなやりがいを感じています。治療を受けに来る五島の人たちや、アロマセラピーや足つぼを目当てに来てくれる観光客、そして体のメンテナンスが命の実業団のスポーツ選手など、私が相手にする患者さんは様々です。
誰が相手でも、「大事な体を最高の状態に仕上げる」という役目は変わりません。私が「よし、これで行っておいで。完璧だよ」と声をかけて送り出すことで、皆パワーが出てパフォーマンスが上がるんです。そのために必要なのは、患者さんの話を聞くことで築かれる信頼関係です。だから患者さんとのコミュニケーションは日々大事にしていますね。
これからの目標は、五島をもっとイキイキさせて、一人前に食べさせてもらっている環境への恩返しをすることです。今、五島にいる女性が自身で生活できる程のお給料をもらえる職業はとても少なく、例えばシングルマザーの方々がちゃんと生計を立てられるように、アロマやマッサージの技術を教えています。技術があれば自分の力で生きていける。だから、このような地道な取り組みを続けてで、自信を持って生きていける人を五島に増やしていきたいですね。
また、五島に住んでいる若者の目が輝いていない人が多いことが気になっていて、彼らに夢や希望を持ってほしいと思うんです。そのために自分がまずしっかり稼いで生きていく。そして周りにそういう大人を増やしていって、次の世代の人たちに彼らにイキイキ生きる大人その人たちの背中を見せてやりたいと思っています。
五島がイキイキするためには、単に島外から来る人が増えればいいという訳ではありません。都会から島に移住してくる人は沢山いますが、移住者のほとんどが自然に囲まれた田舎暮らしに憧れてやってきます。「自然があればお金なんていらない」という考え方で来ているんです。
そこには「島で暮らすこと=貧乏な田舎暮らし」というステレオタイプなイメージが潜んでいます。このイメージは根深いものですが、本気で変えていきたいですね。田舎暮らしに憧れて都会から移住してくる人には経済活動を回す力や生産性が低いので、島を元気にする能力が低いんです。島が本当に必要としているのは、経済を活性化させる力がある人だと思います。
だから、稼げる力を持った都会の人たちが「島の暮らしっていいな」と羨むような、経済的にも精神的にも充実した生活を送っていたいですね。その姿を見ることで「ああ、あんな人になりたいな」って思ってくれる人がいれば、五島での暮らしに対するイメージは良くなっていくと思います。
そのためにも、五島で周りの人を変化させながら、かっこよく生きていきたいですね。
2017.11.15