人や物事が変わる瞬間を生み出す「変革屋」。
無意識の恐怖を除き、誰もが挑戦できる世界へ。
企業や組織、人の変革に取り組む、「変革屋」の佐々木さん。固定概念や偏見にとらわれず、誰もが新しいことに挑戦できる環境を作ろうと尽力しています。佐々木さんは、どのようにして変革屋の道を歩むようになったのでしょうか。お話を伺いました。
佐々木 裕子
ささき ひろこ|変革屋
株式会社チェンジウェーブ代表取締役社長、株式会社リクシス代表取締役社長CEO。東京大学法学部卒。日本銀行を経て、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社。シカゴオフィスに勤務後、同社アソシエイトパートナーに従事。8年強の間に数多くの企業の経営変革プロジェクトに携わる。退職後は、「変革屋」として活動を開始。2009年に株式会社チェンジウェーブを起業。2016年にはIT系介護ベンチャーである株式会社リクシスを立ち上げる。
「ひとりぼっち」から抜け出し、新しい世界へ
愛知県豊明市で生まれました。近所の男の子と野山を駆け回って遊ぶ、活発な子どもでしたね。
小学校低学年までは楽しく過ごしていましたが、4年生ごろからいじめのようなものを受けるようになりました。徐々に男女が分かれて遊ぶようになる中で、男子とばかり遊んでいたからかもしれません。休みのときは仲間に入れてもらえず、嫌がらせも受けるようになりました。
でも、負けたくなかったので泣きませんでした。「別に一人でいいもんね」と、図書館でたくさん本を読んだり、特に興味があった英語を勉強したりしていました。勉強は好きだったし、家に帰ってくれば母と絵を描いたり、好きな映画を見たりして遊んでいたので、辛いという実感はありませんでした。
でも6年生のとき、親の前で号泣してしまったんです。特に理由はなかったのですが、今まで溜まっていたものがあったのかもしれません。これまでいじめられていたことも話していませんでしたが、「友達がいない」と初めて口に出しました。すぐに家族会議が開かれて、小学校のクラスメイトがいない中学校の受験を勧められました。「新しい世界に行くんだ」と思い、私立の中高一貫校を受験。無事に進学できました。
入学した中学校では、英語の弁論大会の学校代表に選ばれました。孤独だった小学生のとき、好きな洋画の主題歌を歌えるようになりたくて英語教室に通わせてもらっていたので、発音だけは良かったんです。結果、愛知県代表になり、全国大会に出場することになったんです。大会に合わせ、初めて上京しました。
東京に行って、一気に世界が広がった気がしました。弁論大会のお世話役だったきら星のような大学生たちを見て、私もこうなりたいと思いました。それまでは東京の大学に行こうなんて全く思っていませんでしたが、上京しようと決心しました。
その中で、一人のお兄さんが「外交官になりたい」と夢を語っていました。外交官という仕事が華やかで格好良いと感じて、私も外交官を目指そうと思ったんです。
愛知に戻ってから調べると、外交官になるには外務公務員試験に合格しなければならないと分かりました。東京大学、一橋大学、東京外語大学のどれかに行かなければ、試験突破は難しいと知り、目標をその3校に定めました。生半可なことでは無理だとわかっていたので、中学3年の夏から、猛勉強を始めたんです。
世間知らずを脱却し、感謝される仕事を
相当フライング気味に受験勉強をスタートした甲斐あって、なんとか第一志望の大学に合格し、進学しました。少しでも外交官について知りたいと思い、大学1年生のとき、外務省でアルバイトを始めました。
ワクワクしながら行ってみると、外務省の仕事は、国会答弁の準備やサミットの車の手配など、大事だけれど地道なものばかり。中学生のとき漠然と抱いていた、表舞台で華やかに活動するイメージとは全く違っていました。「私はなんて世間知らずだったのだろう」とショックを受けました。
外交官のイメージだけを追って、実際にどんな仕事をするのか、その本質は全くわかってなかったんですよね。世間知らず過ぎたのではないかと、強い危機感を抱きました。世間を知るためには、とにかく現場に足を運び、自分の目で色々なものを見る「現地現物」主義でリアルを体感しなければ、と、一旦外交官の夢はリセットして、沢山のアルバイトをするようになりました。
就職活動はまさに「現地現物」を体験できる千載一遇のチャンスでした。気になる企業は手当たり次第、面接に行きましたね。面接に行くと大体の企業は業務内容の想像がついたのですが、日本銀行だけは全く想像がつきませんでした。実際に現場を見てみたいと思い、日銀に入行しました。
最初に担当したのは、銀行に考査に入り、不良債権の査定をする日銀考査の仕事でした。金融危機で、銀行も企業もバタバタと倒れている状況でした。私が「この融資は不良債権ですよね」と査定すれば、銀行は融資先の担保を即座に処分して融資を全額回収します。さらに私たちは、回収見込みの立たない金額が積み重なった銀行には、破綻を宣告しなければならないのです。生々しいヒリヒリ感のある仕事でした。
仕事に意義は感じていましたが、銀行の不良債権査定をしても感謝をされることはありません。不良債権に苦しみ、海外から撤退し続ける日本の金融機関を見るうちに、ただモニタリングするだけではなく、いつか「ありがとう」と言ってもらえる仕事をしたいと思うようになりました。「この先、このままでいいのかしら」と、キャリアに迷いが生じるようになったんです。
そんなとき、友人に「コンサルに向いているんじゃない?」と言われました。そこで、勧められた大手コンサルティング会社の面接を受けたんです。面接では、クライアントにどう価値を出すのかをたくさん議論しました。「こういう仕事がやりたいのかもしれない」と思いました。思いがけず、ご縁をいただいたので、コンサルティング会社に転職することにしました。
変革は、人の小さな変化から起こせる
入社3日目、あるミーティングに参加しました。何も発言せずに座っていたところ、他の参加者から「あなた、空気でできているの?」と言われたんです。本当にびっくりしました。新人でも関係なく、会議で発言しなければ、価値を出していないと見なされる風土があったのです。
常に「誰が言ったか」に関わらず、その意見に価値があれば取り上げられる一方で、そもそも意見を出せなければ価値がないと見なされる環境でした。プロとして価値を出すとはどういうことなのか、徹底的に叩き込まれました。
経験を積む中、日銀時代に担当していた金融機関の変革プロジェクトに、偶然関わることになりました。いつか金融機関に感謝される仕事がしたいと思っていたので、気合が入りました。
営業職の生産性を上げるプロジェクトが始まり、現場に行ったり、社員をインタビューしたりしてどう進めるべきか考えました。話を聞いてみると、売り上げが伸びない要因は、一人ひとり違うんです。電話で商品説明するのが苦手な人や、アイスブレイクが苦手で会話が続かず、話が終了してしまう人など、本当にちょっとした問題で、それぞれが行き詰まっていました。
「ベストプラクティスの横展開では機能しない」と考え、個別に解決策を考えました。電話が苦手な人には、電話では一切商品説明をせず、敢えて会う約束を取り付けるだけにする作戦を試すことにしました。すると、その人は次の日「アポが取れました!」と報告してくれて、そのアポが成約につながりました。商品が売れた体験をしたことで、その人はどんどん電話をするようになり、自信がついて雰囲気も明るくなりました。
そんな風に個別の課題に向き合っていくと、「仕事が嫌なんです」と言っていた人が3カ月後には活き活きと仕事をするなど、目に見える小さな変化がぽつぽつ生まれてきました。すると店の雰囲気も、支店長のマネジメントスタイルも変わり、さらに、店を統括している本部のマネージャーたちの目つきや発言が変わり始めました。プロジェクトに否定的だったマネージャーが「このプロジェクトは素晴らしい」と熱く語り始めたりするんです。
ほんのちょっとしたことで、人の意識や行動が変わる。変化が積み重なり、目に見えるようになると、周りに波及し、やがて大きなうねりになる。「大きな変革は、人のちょっとした変化から起きるんだ」と、実感した瞬間でした。
「変革屋」になる
コンサルティング会社で10年近く働くうち、本当にこのままでいいのか、と考えるようになりました。もう「世間知らず」の大学生ではなく、社会人生活を15年以上続けているのに、自分は結局何がやりたいのかわからないままでした。その問いに向き合うことから、無意識に逃げているような気がしたのです。
そろそろきちんと向き合おうと思い、まずは何も考えず退職することにしました。好きな映画をつくってみようと映画プロデューサースクールに通おうとしたり、出馬を考えて履歴書を送ったりと試行錯誤しましたが、なかなか次に何をするか決まりませんでした。
そんなとき、ある人から「君の人生のビジョンは何?」と問いを投げかけられました。自分がいまだにその答えをもっていないのがショックで、一度これまでの人生を振り返ることにしました。
これまで一番心が震えた瞬間はいったい何だっただろう、と考えているうちに、金融機関の人たちが見違えるように変わっていた瞬間が思い浮かびました。ふとしたきっかけで人の目つきが、行動が変わる。そしてそれがうねりを生んでいく。あんな瞬間をたくさん生み出すことはできないだろうかと思ったのです、
その頃聞いた、オバマ元大統領の選挙戦スピーチの中に頻繁に出てきた「change」という言葉にも背中を押されました。漠然と、「世の中を変革する『変革屋』になりたい」と考えるようになりました。
ちょうどそのとき、大手企業が「変革室」を立ち上げるために、求人を出していると知りました。小さいときからよく知っている商品を作っているメーカーで、憧れの企業だったんです。働いてみないかと乞われ、ここで変革屋としての第一歩を踏み出そうと決意しました。
それから数年は、マーケティング部門の事業モデル変革や、インド事業の部門横断プロジェクトなどを通し、本当にたくさんの試行錯誤と失敗を重ねました。人は合理だけでは動かないこと、組織に働く様々な力学を考慮しなければ、変革は一時のもので終わってしまうことを知りました。
変革を起こし、持続させるためには「必ず動く」ように設計し、組織内で行動している人と共に仕掛けていく必要があると学んだんです。
こうして仕事が軌道に乗ってきたとき、企業や組織に変革を仕掛ける「変革屋」として独立しよう、と覚悟を決めました。
ちょうどそのタイミングで、ある企業の役員の方から「うちの女性リーダーの育成をやってみないか」と声をかけられました。女性の活躍を推進する研修事業です。もともと男女平等に定評のある会社でしたが、それでも経営者候補に女性の名前は挙がってこない状態でした。その現状を変えたいというチャレンジだったんです。やってみたい、まずはやってみようと思い、株式会社チェンジウェーブを起業し、研修事業に取り組むことにしました。
起業後初仕事となった女性リーダー研修は、かなりアウェイな環境で始まりました。参加していた女性たちは年上の強者揃いで、「お手並み拝見」状態だったんです。
しかし、参加者を信じ、考える機会と実践の場を積極的に設けて研修を続けていきました。やがて彼女たちの視点が変わり、顔つきが変化していきました。最終日を迎える頃には「この会社のリソースを使って、少しでも良い社会にしていきたい」と、しなやかで力強いリーダーシップを発揮し始めたんです。
その人のポテンシャルを信じ、本気で考える機会をつくり、考えたことを周りに協力してもらいながら実践できる場をつくることが重要だと学びました。それが人の背中を押し、自信と確信をつくるとともに、視点と行動を変え、目に見える変化を生み出していく。変革の本質とはそういうものだと、改めて強く確信しました。
変革屋が変革しない世界をつくる
現在は、株式会社チェンジウェーブの代表を務め、「変革屋」として、企業や組織の変革事業を行っています。変革のテーマは、ビジネスモデルの変革、働き方改革、多様性推進、事業変革などお客様によって様々です。
ただどんなテーマであっても、「変わりたくても変われない」人や組織の後押しをするという点は同じです。何が起きているのかを把握し、本当の課題を特定したうえで、「最初の一歩」をどう踏み出すか、どうやってより大きな変革のうねりに繋げていくかを設計します。そうすることで、「短期間で」「確実に」「目に見える」変化が生まれるんです。
一番大事なのは、ひとりひとりが「変わりたくても変われない」裏側に、どんな固定観念があるかを特定し、それをピンポイントで打破するための行動や実験を始めることです。
例えば、女性やシニアの活躍がなかなか進まないのは、本人のやる気やスキルの問題と言われたり、管理職の育成手腕の問題と言われたりしがちです。しかし、その現象が起きている根本原因を突き詰めると、「女性」「シニア」と認識するだけで無意識に固定観念にとらわれ、機会提供を躊躇してしまう、誰もが持っている「無意識バイアス」の存在にたどり着きます。
固定概念にとらわれず、この無意識バイアスを取り払うことで、変わるきっかけを提供できると考えています。
私たち自身も、自分たちの固定観念を常に打ち破る実験を続けています。これまでは、お客様に直接お会いし、その場その場で丁寧にカスタマイズしながら熱量をもって働きかけることでしか変革は起こせない、と考えていましたが、それだと私たちが起こしうる変革に物理的な限界がきてしまいます。
今後はより多くの人を変革するための仕組みを作っていきたいと考え、2つのアプローチを試みています。
1つは、ITによる変革です。ITをうまく活用して、世界中の人や物事を広範囲に変えられないか、という大きなチャレンジです。2018年には、先ほど触れた「無意識バイアス」をテーマにした、ANGLEというe-Learningツールをローンチしました。
いくつかの問いかけに答えると、自分が無意識に偏ったものの見方をしていないかわかり、自分で行動変容を起こすきっかけを作れる仕組みです。例えば、男女平等と言いながら、男性は仕事、女性は家庭というバイアスを無意識にかけていないかなどを、テストなどで測定できます。
ツールを使った方々から「部下がどんどん発言してくれるようになった」「家族との関係性が変わった」などの反響をいただき、ITでも変化を起こせると実感しました。400社以上の変革の経験とノウハウをITにのせることで、自分たちの物理的なキャパシティーの上限に依拠せず、変革を生み出せると考えています。
もう一つは、コンサルティングではない、「事業」による社会システム変革です。多くの人や物事を変えるには、新しい仕組みを自分たちが「事業」として作り上げるほうが早いしインパクトがあると考えたのです。
具体的には、「今みえていない選択肢」を、介護にかかわるすべての方に提供するプラットフォーム事業LYXISを創立し、「介護」を巡る社会慣行や固定観念の打破に取り組んでいます。
日本は急速に大介護時代へ向かっていますが、介護を必要とする高齢者と介護を担う家族の双方が、その人らしく生きていくための十分な選択肢など「ない」と思われています。介護される側もする側も、自由に生きていたいのに心身の制約が出てきて、好きなことができなくなってしまいます。まるでガチャンとギアチェンジするように人生が変わり、たくさんのことを我慢し諦めなければならない。両者がそんな風に強く思っているのです。
でも、本当は必ずしもそうではないのです。正しい知識を持って早く行動し、その人の生きがいや人生を理解できていれば、まだ見えていない選択肢に出会うきっかけさえあれば、介護する側もされる側も、今よりずっと自分の物語を輝かせることができる。
すべての人の物語が輝く「大介護時代」をつくるために、LYXISでは多くの介護施設や民間企業の方々とコラボレーションしながら、仕事と介護の両立支援クラウドを作るなどして、「介護」という概念を塗り替えるための社会インフラをつくろうとしています。
こうした変革のための「インフラ」を作って世界中に広げ、いずれは、変革屋が「変革しない」世界をつくりたいですね。
2019.06.10
佐々木 裕子
ささき ひろこ|変革屋
株式会社チェンジウェーブ代表取締役社長、株式会社リクシス代表取締役社長CEO。東京大学法学部卒。日本銀行を経て、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社。シカゴオフィスに勤務後、同社アソシエイトパートナーに従事。8年強の間に数多くの企業の経営変革プロジェクトに携わる。退職後は、「変革屋」として活動を開始。2009年に株式会社チェンジウェーブを起業。2016年にはIT系介護ベンチャーである株式会社リクシスを立ち上げる。
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