人生のハンドルを握って動き出す人を増やす。
新しい世界を見続けたいし、見せ続けたいから。

自動車の買取・販売を行う株式会社IDOMにて人事・広報・新規事業の責任者を務め、事業と組織の両面で「半歩動き出す人」を増やすために活動する北島さん。高校生で始めたアメフトや大学生時代の起業、現職での新規事業など、これまで様々な挑戦を続けてきました。常に挑み続ける北島さんの原動力とは。お話を伺いました。

北島 昇

きたじま のぼる|挑む人を増やす
株式会社IDOM 新規事業・人事・広報担当執行役員。2007年に入社後、人事、マーケティング、商業施設向け新型店舗開発、経営企画を担当。その後、新規事業開発室室長として、コネクティッドカー事業、C2C事業(ガリバーフリマ)、アクセラレータープログラムの運営、サブスクリプション事業(NOREL)の立ち上げを行う。現在はMaaSカンパニーとなるべく新規事業部門の責任者として事業を進める一方で、人事・広報部門の責任者として社内外の多様な人材を活用した「人事制度改革」及び全社的な「カルチャートランスフォーメーション」の推進を行う。

隣接した未来を考えるのが好き


新潟県長岡市で生まれましたが、父が転勤族だったので、北海道、大阪、東京と、色々なところを転々としていました。引っ越す度にアウェイの環境に飛び込むことになるので、人見知りはせず、ひょうきんな性格に育ちましたね。また、新たな環境のルールを理解して、相手に求められていることを察知する癖もつきました。

好奇心は旺盛で、野球や公文、放送劇など、やりたいと思ったことは片っ端からやりました。ただ、どれもすごくのめり込むわけではありません。自分の中では、どれもゲームのような感覚でした。ルールを理解して、そのルールに則った成果を出すために考えて動くだけ。ある程度結果の出し方が分かったら、飽きちゃうんですよね。勉強も同じでした。

地元がないとか、ハマったことがないことは、自分の中では多少のコンプレックスがありました。とはいえ、リーダー気質で、学校では前に立つことが多かったです。毎年学級委員をしていましたし、小中の野球部ではキャプテンでした。目立ちたかったのではなく、未来を考えるのが好きだったんですよね。「今と隣接するちょっと先の未来」を描き、その世界観を実現するために、みんなで一緒に考えて行動するのが好きでした。

中学までは野球をメインでやり、高校からアメフトを始めました。節目ごとに「次は何をしよう」と目の前で一番面白いことは何かを考えるタイプで、その時にピンときたのがアメフトだったんです。先輩たちは前年に全国大会で優勝していて、高校から始めてもナンバーワンを目指せることが魅力でした。

ものごとを決めるときには、あまり悩まないタイプでしたね。自分の中で納得感がある選択肢が残っていれば、その中での精査は不要で、サイコロで決めてもいいと思うほどです。どちらに決めても、振り返った結果「こっちにして良かった」と思うのは、自分の行動次第。決める前にあれこれいうのではなく、決めてから納得できるように動けばいいと考えていましたね。

ビジネスも一定のルールに則るだけ


アメフトは、戦略が重要なスポーツです。実力が大きく違っても、戦略次第で覆せるケースがあるほどです。そういうスポーツなので、相手を徹底的に分析して、勝つための戦略を考えることにこだわり抜きます。一人でも崩せそうな場所があれば重点的に攻めるような戦略を立てます。

しかも、その戦略をコーチではなく、選手がプレーをしながら考えます。1プレーが終わるた度に、選手で数十秒の作戦会議を行い、次の動きを決めます。それを、1試合の中で60回から100回近く繰り返します。いちプレイヤーとして目の前の選手と相対しながら、フィールド全体を俯瞰した戦略も考え続けるので、目の前のことを考えながら全体を考える力が養われましたね。

高校と大学はアメフト生活一色でした。大学では一度二部リーグに落ちた後に一部リーグに復活したり、何十連勝もしていた強豪チームを破ったりと、良い経験をさせてもらいました。大事な試合の前の日には、自然と感謝の気持ちが湧いてきましたね。まだ試合が始まってもないのに、それまでしたことがないような体験ができると考えると嬉しかったんです。

アメフトに没頭していたので、就職活動は一切しませんでした。それどころか、4年で部活を引退するときには1年間留年することも決まっていました。

そもそも、将来の仕事に興味がなかったんです。未来の話は好きですが、今とつながっている感覚がないとダメで。仕事に対しては手触り感を持てず、就職セミナーに行くのもピンと来ませんでした。

留年して時間もあったので、ビジネススクールでアルバイトをしながら、社会人と話してみることにしました。ビジネススクールには、大企業で活躍する人もいれば、起業家もいました。いろんな業界の人と話していると、働くことも、それまでの人生でやってきたことと変わらないと分かりました。ビジネスも一定のルールや法則に従っているだけ。特別なことではないし、会社に勤めるのも、起業するのも、そんなに大きな違いはないと手触り感を持てました。

ちょうどその頃、今でも尊敬し、多くを学ばせていただいたと思っている大学の先輩と関わる中で、理学療法士や整体師や鍼師、トレーナーやトレーニングコーチなど、スポーツに関わる仕事をしている仲間から、「スポーツ業界での仕事が見つからない」という相談を受けました。「本当に仕事がないのか?」と思って、高校や大学、実業団やプロチームに営業してみたら、意外と仕事を発注してもらえました。

仲間のために仕事を作れるならと思い、どんどん営業を続けていくと、だんだん規模が大きくなって。休学して会社にしたのですが、仕事が忙しくて大学どころではなくなってしまい、中退して会社に専念することにしました。当時はスポーツに関わる人の仕事をつくり、この世界で食べていける人を増やしたいと考えていました。

資金繰りに翻弄される毎日


スポーツチームからの仕事の依頼は増えましたが、基本は1年単位の契約になるので、トレーナーやコーチにとっては安定しない状態が続きます。そこで、トレーニングジムや整骨院などをつくり、年間を通して仕事をできる体制を整えていきました。

東京、名古屋、大阪と、新しい店舗を次々に作りました。しかし、アクセルを踏み込んでいたある時、資金繰りに失敗しました。出資してくれていた投資家とのやりとりに拙さがあり資金計画をミスしてしまい、お金が回らなくなったんです。経営については未熟で、拡大のために前ばかり向いていたので、守りは手薄。なんとか状況を改善しようと動き回りましたが、事態は悪くなるばかりでした。

経営者として、組織を作れなかったこと以上に、会社の状況や自分の苦しさを周りに共有できなかったのは今振り返ると大きな問題でした。全ての責任を一手に引き受けてしまい、周りと壁を作っていました。それなのに、「誰も苦しさを分かってくれない」と感じてしまい、自分から人を遠ざけるんです。完全に負のスパイラルに陥っていました。

あまりにも苦しくて、記憶はほとんどありません。知らない駅で降りて、橋の上から川に飛び込もうとしていたこともありました。

会社はもうダメになってるのに、やめる決断ができませんでした。やると決めた後が勝負だというマインドが強すぎて、なんとかなると思い込み、冷静な判断ができなかったんです。

結局、そこから回復することはなく、会社は廃業しました。事業をはじめてから8年、29歳の時でした。

自分の責任で夢を諦めなければならなくなった人もいます。経営に失敗して本当に多くの人に迷惑をかけしまい、引き際がいかに大事かや、自分が抱えられる人の範囲には限界があることを学びました。

いい男・いい女にしてあげたい


「経営者として失敗した」という感覚が強く、自分で再度何かしら事業をやるよりもどこかの会社に雇われて働く経験が必要だと思っていた頃に、知り合いの就職エージェントから紹介されたのが、中古車買取事業を行うガリバー(現IDOM)でした。創業13年目の会社で、ベンチャーマインドがあってやりたいことがたくさんある。だけど、いい意味で問題もたくさんある。そんな会社でした。

話を聞いて、あっさりと入社を決めました。就職活動をしたことがなかったので、会社を選ぶ基準は持ち合わせていませんし、フィーリングが合えばいいだろうと思ったんです。そういう意味でも、相変わらず選択肢の吟味はせずにその後が勝負だという気持ちは変わらないでいたんですね。

入社後は、社長交代の準備室に入ることになりました。創業者が会長に退き、二人の息子に社長の座を譲る時期だったんです。

経営者の近くで働くことで、会社が進もうとしている方向や、問題視していることがよく分かりました。何より、会社の風土を間近に感じたのが大きかったですね。売上1000億円を超えている会社なのに、風通しもよく、創業者もあけすけな性格。大企業っぽくなくて、巨大な零細企業という印象でした。でも、会社のメンバーはみんな不器用で、もがいていて。営業の現場も含めてそんなメンバーを見ていたら、みんながやろうとしていることを実現する力になりたい、「こいつらをいい男・いい女にしてあげたい」と思ったんですよね。

そう思ったのには、自分で会社を潰してしまった経験も影響していると思います。会社を潰して、組織を離散させてしまったことは、精神的な負担はすごく大きくて。やっぱり、人が集まって充実した時間を過ごしてほしい思いますし、人が辞めることに対して過度にネガティブに感じたりもします。大げさに言えばトラウマになっていると思われ、心の底に、チームに対して働きかけたいという思いが根強いのだと思います。

半歩踏み出すことで拓ける世界


社長交代の後は、色々な仕事をしました。経営企画、広報、マーケティング、事業提携、新業態の開発など、その時の応じて必要な仕事をしていきました。マーケティングの部署にいた時は、マスプロモーションからネットマーケティング、チラシや看板を使うフィールドプロモーションまで、多岐にわたって携わりました。広報PRも含まれていましたね。要するに、全てが顧客接点のコミュニケーションなので、統合して見るべきだろうという考えだったんです。

顧客接点の一つということで、CSRも担当しました。ちょうどその頃、東日本大震災が起きました。震災復興のために、支援団体などに車を1000台寄付することにしました。

その寄付先を決めるのが、僕の仕事でした。ただ、行政の被災者で情報が錯綜し、様々なことが目まぐるしく動く中、車を必要としている人がどこにいるのか正確にはわからない状況。また、譲渡した方がいいのか、貸したほうがいいのか、必要としている形も分かりません。それでも、社会全体が混乱を極める中、企業やNPO、個人で復興支援をしている人からはどんどん連絡がくるわけです。「こんなことやろうとしてるんだけど、車が足りなくて。どうにかなりませんか?」と。

自分たちの取り組みが正しいものかも分かりませんし、どの活動の優先度が高いかも分かりません。ただ、病院から人を運ぶことも、仮設住宅で桜が見たいと泣いているおばあちゃんを運ぶのもどちらも必要です。

最終的には、ご縁だと思い、出会った順番、連絡が来た順番に車を配ることにしました。急を要するものばかりで、活動を正確に評価するのを待っていられないし、止まっていられないと考えたんです。

会社のルールギリギリでしたし、問題もありました。だけど、震災をきっかけに会社を飛び出して動いた人、自分の信念で動いた人とたくさん出会って、僕自身の人生も変わりました。社会で異端児と言われるような人たちに、見たこともない新しい世界を見せてもらって。そういう人たちと、強烈な共有体験を持つことができたんです。

それは、僕だけのことではなくて。震災の時に動いて、視野が急激に広がったり、人生が大きく変わった人はたくさんいました。例えば、僕たちが車を提供したことがきっかけで、仮設住宅向けのカーシェアリング事業で独立した人がいます。他にも、そういう人はたくさんいて、魅力的で、タフで、信念が強い人たちばかりです。

そういうのを見た時に、やっぱり人って半歩でいいから今いる快適なゾーンから踏み出すことで、人生が豊かになると確信しました。「車」という移動手段を扱う会社だからこそ、人が移動という意味でも、アクションという意味でも半歩踏み出すためのサポートをする会社でいたいと、強く感じるようになりました。

芸術作品とも呼べるような美しい企業文化を作る


現在は、IDOMの執行役員として、経営戦略室、人事、カスタマーサクセス、広報の責任を持っています。今自分の原動力になっていることは二つあります。

一つは、強いチームを作りたいという思いです。元々個人的に持っている思いでしたが、2016年に会社名を「IDOM(挑む)」と変えて人事を預かってから、その思いはより強くなりました。

社名を変えるにあたって、最終的な名前は何でもよかったんですよね。どんな名前を選んだって、それがイケてる名前になるかは、決めた後の行動次第。そうであれば、決め方が大事だということで、これからも会社として一番譲れないものは何かと話し合いました。海外展開も進み、社員の多様性が増える中でのシェアドバリューは何なんだろうって。

経営上の議論の中で一番大きく扱われていたのは「自己変容」という言葉でした。成功体験に縛られるのではなく、常に自己変容して前に進めるかが大事だという話。快適な場所や今あるモノを捨てない限り見えないものがあるんだと。そもそも、ベンチャーの定義って「変わり続けること」だと個人的には考えています。自己変容しながら、変わることを一番大事な価値観に持った会社にしたいという議論の中で出てきたのが「挑む」という言葉でした。それを会社名に決めた時に、自分自身の生き様とも重なりましたし、会社をそういう生き方をする人の集まりにするのは、すごく楽しいと感じています。

究極的に言えば、芸術作品とも呼べるような、美しい企業文化を作っていきたいんです。テクノロジーの進化も含めて、ビジネスのサイクルは目まぐるしく変わる時代において、会社の一番の強みになるのは、遺伝子として組み込まれた文化を作ること。新しい価値を生み出し続ける組織を作ることこそ、持続する会社に必要なことだと思うんです。一朝一夕にできるものではないし、長い道のりを要しますが、ユニークかつ永続性を内包した文化の宿るチームを作ることが、僕のやりたいことでもあるし、会社に貢献できることだと考えています。


もう一つは、「移動の先にある幸せ」を提案する会社にしたいという思いです。僕が入社した頃は、中古車の買い取り事業がメインで、そこから小売りや個人間取引、定期契約やカーシェアリングのサービスなど、車に関わる領域でビジネスを広げてきました。

これまでは、車の流通を変えることで、売買のしやすさを提案してきましたが、今は「車を乗った先にある生活の豊かさ」を提案する段階に来たと考えています。これから自動運転の技術も進み、車を使った移動の利便性はますます上がります。車に乗らなかったら生涯行かなかったであろう場所に行ったり、出会わなかったものと出会うことが増えて、今まで以上の豊かさを感じられる。そんな時代になるのです。車が好きとか嫌いとかではなくて、「移動の先には幸せがあるから、もっと動いてもらおう」ということを提案していきたいと考えています。

「新しいものに出会ってもらおう」「よりよい人生に出会ってもらう」と言えることって、僕の人生の根底にあるものとも重なっています。

僕自身、これまでの人生、半歩動いたらいろんなものと出会い、いい経験をさせてもらいました。結局、今まで見たことがない新しいものと出会う瞬間が好きでたまらないし、そういう経験を多くの人にしてもらいたいんですよね。

もちろん、VRや3Dプリンタなどが技術が発達して、家にいながらなんでもできる時代がくるでしょうし、それも一つの幸せの定義だと思います。だけど、僕たちとしては、人間は動いてなんぼだと思っているし、なんなら移動距離と幸せが連動していると信じているんです。

最近、高度成長期の日本が活発だったのは、本質的には儲けたいとかいい生活をしたいという思いではなく、いい生活を作ることに自分の頑張りが影響する実感を持てたからだと思うんです。つまり、未来に対してハンドルを握ってるという実感が大事だったんじゃないかなと。今の日本ではそれが失われてしまったから閉塞感があるような気がします。

そう考えると、自分が持っているハンドルがなんなのかをしっかりと理解することは、充実感のある暮らしを送る上で大事だと思います。自動車を持っているかどうかで、休日にどこに行こうかと考える選択肢が変わるのと同じ話で、未来に対してのハンドルを握っているかどうかで、人の視界は変わると思います。

だから、僕は仕事を通して、人生のハンドルを握って挑戦する人を増やしていきたいです。

2018.06.22

北島 昇

きたじま のぼる|挑む人を増やす
株式会社IDOM 新規事業・人事・広報担当執行役員。2007年に入社後、人事、マーケティング、商業施設向け新型店舗開発、経営企画を担当。その後、新規事業開発室室長として、コネクティッドカー事業、C2C事業(ガリバーフリマ)、アクセラレータープログラムの運営、サブスクリプション事業(NOREL)の立ち上げを行う。現在はMaaSカンパニーとなるべく新規事業部門の責任者として事業を進める一方で、人事・広報部門の責任者として社内外の多様な人材を活用した「人事制度改革」及び全社的な「カルチャートランスフォーメーション」の推進を行う。

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