音楽は自分を知り、人と人をつなぐ装置。地域や次の世代に、喜びを届けたい。
ミュージシャン、音楽プロデューサーとして、アーティスト育成やイベント企画を手がける堤さん。幼い頃から生まれた意味を問い続ける中で、剣道、そして音楽に出逢い、走り続けた先に見えた自分の存在価値。音楽は自分を知り、人と人をつなぐ装置と語る堤さんが現在の活動に込める想いとは。お話を伺います。
堤 晋一
つつみ しんいち|ミュージシャン・音楽プロデューサー
ミュージシャン・音楽プロデューサー。
剣道が心の拠り所だった
山口県下関市の彦島に生まれました。人口は3000人ほど、漁業と工業が中心の島です。両親と姉と妹の5人家族で、子どもの頃は家庭の中での自分の存在について悩んでいました。
会社員の父は気性が荒くて、とにかく厳しい人でした。「お前それでも長州男児か!」が口癖で、父と話すときは敬語、朝起きたら必ず挨拶しないといけない。まるで武士の家でした。男ってそういうものだと思っていました。
父は母に対して怒鳴ったり強く当たることもよくあり、友達の家庭は幸せそうなのに、なんでうちはこうなのかと落ち込みました。母を助けたいのに、身体の弱い僕じゃ父に敵わなくて、どうにもできない。無力感でいっぱいでした。
そんな時、子どもながらに「なんで生まれてきたんだろう?」って自分に問いかけていましたね。海を眺めては「島の外には何があるんだろう」と考えたり、本を読んだりして、ここではない世界に思いを巡らせていました。
学校の勉強に加えて、毎日父からの宿題がありました。それを終わらせないと晩御飯が食べられないんです。父はめちゃくちゃ恐いし、ご飯を食べたい。毎日必死に取り組みました。
父の宿題が学校の授業の予習になったので、成績はよかったです。その分、授業中はやることがなくなって、ぼーっとしていましたね。先生からは「堤くんてフワフワしてるね」と言われていました。思考が停止してたんでしょうね。
ただ父が恐いから勉強しているだけで、成績が良くて嬉しいとか、自分はすごいとか思うことはありませんでしたね。なんで勉強しないといけないんだろう、と。
父の命令で小学校から剣道を始めましたが、身体が小さいから全然勝てませんでした。試合のたびに、怖いな、痛いな、と弱気になっていました。でも、小学校高学年になると、技術が身について、だんだん勝てるようになったんです。道場の先生に恵まれたのが大きいですね。背が小さいことをどう生かすか教えてもらったんです。
試合で勝てるようになると、「俺強いじゃん!」って思えて、初めて自分に自信を持つことができました。これまで自分が生まれてきた意味が分からなかったけど、剣道に自分の存在する価値を見出せたんです。
それから中学、高校時代は剣道に明け暮れる毎日でした。強くなって一番になりたいという想いで、必死に練習しました。
高校の進路選択でも、剣道が強い大学に進学することを考えました。警察官、自衛隊、教師のいずれかの道なら剣道を続けられる。それなら、大学で教員免許を取って国語の教師になろうと考えました。
実家と島を早く出たいという思いもありましたね。深夜のラジオ放送を聞きながら、都会のカルチャーに憧れを抱いていました。それで、高校卒業後は広島市の大学に進学しました。
ゼロから始まったバンド活動
大学でさっそく剣道部に入ったのですが、先輩達と剣道に対する考え方が合わず、剣道部を去ることにしました。他にすることはないか迷っていたとき、友達からバンドを始めないかと誘われました。
音楽なんてやったことなかったんですが、暇つぶしにはいいかなと軽い気持ちで参加しました。バンド名は「Bivettchee(ビバッチェ)」。楽器が弾けない、声がデカイという理由でボーカルになりました。
メンバーもみんな素人なので、まずは有名なバンドの曲をコピーしようという話になりました。でも、なんで人の曲をやるのか理解できませんでした。それなら俺が作ったる!と、ギターを手に、なんの知識もないまま曲作りをスタートしました。
簡単なコードを組み合わせて、鼻歌みたいな感じでの作曲。部の発表会で披露すると、観客みんなポカーンとした顔。そんな反応を、「みんな俺らに圧倒されてるぞ!」とものすごいポジティブに捉えてましたね。一度人前で披露した曲はもう演奏できないと勘違いしていて、その後もひたすらに曲を量産しました。結果、たくさんのオリジナル曲ができました。
バンド活動が楽しくて楽しくて、この頃にはもう剣道への関心は薄くなっていました。次のライブに向けて、曲を作り、メンバーと練習していく。誰かと一緒に目標を目指すことが、すごく楽しかったですね。
それから、ライブハウスに営業をして回るようになりました。バンドを結成すれば、自然にオファーが来ると思っていたんですが、先輩から「自分たちで営業するんだよ」と言われて動き出しました。
ライブを開催するには、チケットをノルマ分売らなければいけません。売れなければ、自腹で支払うことになります。その頃はバブルの影響で、1回30分公演で4万円以上のノルマがありました。でも、チケットは全然売れません。他のバンドも同じ状況で、一体誰のためにライブやってんだろうと疑問を感じていました。
とはいえ、ノルマ以上を売り上げたら、自分たちにチャージバックされる。新規顧客さえ集められばいいんです。そこで考え出されたのが、「飲み会大作戦」でした。
他のバンドと飲み会で仲良くなって、お互いのライブを見に行くネットワークを作りました。これが功を奏して、気がつくとアマチュアバンドでは広島で一番の集客になりました。チャージバックされたお金を飲み会にあてて、練習そっちのけで飲み会を開きましたね。自分のアクションが誰かを喜ばせられる。それがすごく嬉しかったです。
広島にも、デビューして東京で活躍する先輩バンドがたくさんライブツアーで来ていました。彼らのライブでオープニングアクトを務める機会が増え、次第にプロとしての活動への憧れが強くなりました。オリジナル曲もたくさんあるし、東京でだってやっていけるはず。でもこれから就職活動が始まる時期。メンバーと相談して、在学中にデビューが決まったら、音楽の道に進むことを決めました。
その後は就職活動と並行して東京進出を目指してオーディションを受けました。
メジャーへの挑戦
大学3年の終わりに、ラジオ主催のアマチュアバンドのコンペティションで準グランプリを獲得しました。しばらくして、音楽事務所から電話がかかってきたんです。メンバーに連絡して、「電話かかってきたぞ!東京の事務所に来いって言ってる!どうする?」って。メンバーと一緒に、東京に向かいました。生まれて初めての東京は衝撃でしたね。あまりの人の多さに、「これはなんの祭じゃ?」って、田舎もんが大はしゃぎでした。
その後、事務所からオファーをもらい、インディーズデビューが決定しました。まずは両親に音楽活動を認めてもらうため、話をしました。恐る恐る父に話すと、案の定、怒鳴り散らされ「お前みたいな田舎もんにできる仕事じゃない!」って言われたんです。
その言葉でスイッチが入りましたね。田舎だから好きなことができないなんておかしいと思ったんです。結局、メジャーデビューを目指して3年間勝負して、それが叶わなければ諦めることになりました。
大学4年でインディーズとしてデビューし、メジャーへの挑戦が始まりました。全国各地を周り、年間100本のライブをこなしました。給料はほとんど出なくて、その日のライブとグッズの売り上げが唯一の収益。歌って移動して、また歌って移動して、車で寝泊まりしていました。
各地にはボスのような先輩バンドがいて、新人は打ち上げに最後まで付き合わないといけない。もう喉はカッスカスで、しんどかったけど、楽しかったですね。デビューのタイミングでヒットが出たので、ライブのチケットもよく売れました。
CDのセールスも上がって集客も伸びてきたので、事務所の社長にメジャーデビューの相談をしました。事務所がいろいろ掛け合ってくれた結果、25歳のときにメジャーデビューが決定しました。活動を始めて3年目、ちょうど父との約束の期限でした。
メジャーデビュー後の最初の給与明細書を持って、彦島の実家に帰りました。父から「じゃあもう好きに生きろ」と言われて、これでやっと自分の生きる道を認められたと思いましたね。
音楽業界の光と影
メジャーデビュー以降、ライブにはスタッフが同行して、車中泊がホテルに変わって、仕事の規模がインディーズ頃より大きくなったことを実感しました。アニメやドラマのタイアップ、韓国でのライブなど、新しい領域の仕事のチャンスが増えていきました。
一方で、ビジネス感が増していくことには戸惑いがありました。どれだけ売れるか、今まで以上に数字を優先して考えないといけない。レコード会社は、当時アニメや広告などのタイアップで曲を売り出すことをメインにしていて、タイアップ企画が決まらないとCD制作もライブも進まない。
曲を作っても作っても、「売れる曲を作ってね」と却下され、一体どうしたらいいのかわからない。出口のない道をさまようような感覚でした。インディーズの頃は自分たちでハンドルを切って楽しんでいたのに、メジャーになってからは企画がないと何もできず、顧客の需要からもどんどん離れていく。若手のインディーズの方が勢いがあって売れていく状況に、焦りを感じていました。
その頃には、iTunesを始めとした音楽配信サービスの影響で、CDの売り上げが落ちていました。もはやアーティストだけの問題ではなく、音楽業界全体のマーケットが下がっていく状況でした。同期のバンドはどんどん解散していきました。
バンド内には結婚したメンバーもいて、「家族のために地元に帰って仕事を見つけたい」と考え始めていました。集まれる時にだけ音楽活動をするという選択肢もありました。でも、僕はやっぱり「いいものを作りたい」という想いで、活動を続けることにしました。メンバーそれぞれの人生を考え、32歳の時に「Bivettchee(ビバッチェ)」を解散することに決めました。
バンドの解散は本当に悔しかったです。業界でよく言われるのは、成功するには「運」と「縁」と「タイミング」この3つが揃わないと難しいということ。僕らはそれを同時に引けなかったのかもしれません。
そんな中、解散ツアーのときに、新人開発に携わらないかと誘ってもらいました。表に立つ自分が苦しんだ音楽業界の仕組みを、裏からならもっと知ることができる。そんな想いから、裏方へ転身する決心をしました。
地域と次の世代育成に込める想い
現在は、音楽制作プロダクション Bon Voyage Studioの代表プロデューサーをしています。事務所のアーティストを売り出す戦略を考えるコンサルタントや作詞作曲、イベントのプロデュースを手がけています。
音楽プロデューサー、シンガー、作詞作曲家、ボイストレーナー、役者、旅人と、いろんな肩書きで活動しています。そのベースには、「自分のアクションで人に喜んでもらいたい」という想いがあるんです。最近では特に、地域と次世代の育成に力を入れています。
僕は地元の彦島にいた頃、田舎は何もなくてつまらないと思っていました。でも、東京に出て初めて地域の良さに気づきました。「地元はつまんない」という声を、なんとかしたいと思うんです。
これまで訪れた地域の方々の繋がりで、近年は地域イベントを手がけることが増えました。「地域を盛り上げる企画をやりたいけど、何から始めたらいいのかわからない。」そんな地域の若者と一緒に企画を考えます。
2009年には、広島の平和都市イベントで1000人の参加者を募り、世界一巨大な折り鶴制作イベントを実施。それがギネス記録になりました。戦争というと、暗い議論が起こりがちですが、みんなでもっとピースフルに楽しめるイベントにしたかったんです。
東京でやることを地域に持ち込むのではなく、その地域の強みやメッセージを再確認し、独自の魅力を発信することを大切にしています。やがてその活動が地域の活性化に繋がってほしい。それが自分の故郷への想いと重なるんです。
「次世代を育てること」も意識しています。新人教育の他に、小学校や保育園で子どもたちと一緒に音楽を作るワークショップをやっています。子どもたちに自由に言葉を書いてもらって、それを僕が曲にして、一緒に歌うとすごく喜ばれるんですよね。自分が書いた言葉が歌になり、みんなが歌ってくれて、認められた感があるんだと思います。そうやって子どもたちの自尊心みたいなものを育てられたらいいなって思います。
音楽は、自分を知る、そして人と人をつなげるための装置なんだと思います。僕は音楽に出会って、自分の音楽やアクションを人に喜んでもらえたことで、自分の存在が認められ、自尊心を持つことができました。こうやって自分の人生に大きな影響を与えてくれた経験を、今度は次の世代に与えていきたいですね。
2017.11.22